鎌倉を愛する鎌倉市民により、鎌倉のグルメ・歴史・観光名所を紹介します。
鎌倉虎の巻
獅子舞
鎌倉の紅葉のシーズンは11月末頃から12月上旬までとなり、先週末に、自分も紅葉巡りに出掛けてきました。
鎌倉の紅葉の名所と呼ばれる所は幾つもありますが、そのなかでも、今回は、自分のお気に入りの『獅子舞』を紹介いたします。
『獅子舞の紅葉』・・・見事ですね
「獅子舞までの道」・・・雨が降った後は遠慮しましょう。かなりぬかるみます。
さて、『獅子舞』の名前の由来なんですが、「新編鎌倉誌」によると、以下の通りとなります。
『獅子巖は永福寺跡の北にある山頂にあり。巖の形がまるで獅子の様なので、その様に呼ばれている。
護法録(*①)には、浦江県(*②)の東南35里に山があり、その形がうずくまっている獅子の様なので獅子岩(*③)と云われているとある。日本でも異国でも同様である。
地元では、「二階堂の獅子舞の峯」と云われている。昔は永福寺の寺域内であり、永福寺内に二階堂(*④)があった繁栄していた頃は、寺域は広くて、この辺より、はるか東南の村までを二階堂村といっていた。
この獅子巖の南方に永福寺の礎石があるのを踏まえてみると(*⑤)、吾妻鏡の正嘉元年(1257年)8月18日の記載に、陰陽師等が夜明けに西御門の山に登って見ると、ちょうど残月が西にあり、太陽が東に出ており、あれこれ方角を確認にしたところ、最明寺(⑥)と永福寺は、東西に位置し、大慈寺(⑦)と最明寺とは、東南東と西北西に位置していたと。
著者が、この編纂のため、この地に来て、この山の上に登って方角を見てみると、この獅子巖の山の南方と禅興寺(*⑥)とはまさに東西にあたっていたと。』
*①中国の元末明初の居士、宋濂(1310-81)の文集より、仏教関係の作品を選んだもの。
*②中国の浙江省金華市浦江県
*③調べてみたのですがよくわかりません^^:。
しかし、元の時代の高名な禅僧である「中峰明本(1263~1323)」が修行した西天目山(浙江省広州市の西)の「獅子巖」ではないかと自分は思っています。中峰明本所縁の地であれば護法録に記載されても不思議ではないし、距離も合致していますので。ただ、方角が浦江県の南東ではなく、浦江県の方が南東の位置になるのですがね・・・^^:
*④「永福寺」は、平泉にある「中尊寺の二階堂大長寺院」を模して建立された寺院であり、建物が2階建てであった事から、「二階堂」とも云われました。
「永福寺のイメージCG」 → こちら
*⑤鎌倉の地図を見ると、永福寺跡と最明寺・禅興寺の位置は東西のライン上に無いかと思うかもしれませんが、記載にある通り、昔は永福寺の敷地が広く獅子巖の南に永福寺の建物の礎石があったので、現在の地図の永福寺跡と記載されている地点より、もっと北側の地点をイメージしてもらえれば、記載通りとなりますよ^^
*⑥「最明寺」は、「北条時頼」が、現在の明月院のある辺りに建立した寺院。時頼の死後、一時廃寺となったが、時頼の息子「北条時宗」が「蘭渓道隆」を開山として迎えて再建したのが「禅興寺」となります。有名な「明月院」は、この「禅興寺」の塔頭の一院ですが、明治に「禅興寺」が廃寺となった際に、「明月院」のみ残り、現在に至ります。
*⑦1212年に源実朝により創建された寺院。場所は、明王院と光触寺の間の二つ橋周辺にあった。
う~ん、名前の由来は良いとして、では「獅子巖」なる巖は、一体何処にあるのでしょうかね。
記載にある通り、永福寺の北の山頂辺りで獅子舞との繋ぎで考えると、獅子舞を登りきった処に眺めの良い岩場がありますが、そこになるのでしょうか?
「岩場」・・・ちょっと離れた場所から取ったのしかなくてすみません。後日、撮り直します。(『獅子巖』を参照)
「岩場からの眺望」・・・う~ん、絶景かな^^
「峠の茶屋」・・・岩場から1分位の所にあります。お汁粉やおでん等もあるので、寄ってみられては^^
鎌倉の紅葉を愉しみつつ、ついでに謎の獅子巖を探して見てはいかがでしょうか。
そして、もしわかったら、教えて下さいね^^
「行き方」
①バス(鎌倉駅東口より)
京浜急行バス20番系統「鎌倉宮(大塔宮)」行きで終点下車。
「鎌倉宮」を左手に眺めながら、沿うように進みます。
②「通玄橋」が見えてきますので、橋の手前を左折します。なお、橋をそのまま進むと「瑞泉寺」に向かいます。なお、左手の空き地は「永福寺跡」となります。
③「二階堂川」を渡る橋を越えたら、後はそのまま進んで行くと「獅子舞」に到着します。
鎌倉の紅葉の名所と呼ばれる所は幾つもありますが、そのなかでも、今回は、自分のお気に入りの『獅子舞』を紹介いたします。
『獅子舞の紅葉』・・・見事ですね
「獅子舞までの道」・・・雨が降った後は遠慮しましょう。かなりぬかるみます。
さて、『獅子舞』の名前の由来なんですが、「新編鎌倉誌」によると、以下の通りとなります。
『獅子巖は永福寺跡の北にある山頂にあり。巖の形がまるで獅子の様なので、その様に呼ばれている。
護法録(*①)には、浦江県(*②)の東南35里に山があり、その形がうずくまっている獅子の様なので獅子岩(*③)と云われているとある。日本でも異国でも同様である。
地元では、「二階堂の獅子舞の峯」と云われている。昔は永福寺の寺域内であり、永福寺内に二階堂(*④)があった繁栄していた頃は、寺域は広くて、この辺より、はるか東南の村までを二階堂村といっていた。
この獅子巖の南方に永福寺の礎石があるのを踏まえてみると(*⑤)、吾妻鏡の正嘉元年(1257年)8月18日の記載に、陰陽師等が夜明けに西御門の山に登って見ると、ちょうど残月が西にあり、太陽が東に出ており、あれこれ方角を確認にしたところ、最明寺(⑥)と永福寺は、東西に位置し、大慈寺(⑦)と最明寺とは、東南東と西北西に位置していたと。
著者が、この編纂のため、この地に来て、この山の上に登って方角を見てみると、この獅子巖の山の南方と禅興寺(*⑥)とはまさに東西にあたっていたと。』
*①中国の元末明初の居士、宋濂(1310-81)の文集より、仏教関係の作品を選んだもの。
*②中国の浙江省金華市浦江県
*③調べてみたのですがよくわかりません^^:。
しかし、元の時代の高名な禅僧である「中峰明本(1263~1323)」が修行した西天目山(浙江省広州市の西)の「獅子巖」ではないかと自分は思っています。中峰明本所縁の地であれば護法録に記載されても不思議ではないし、距離も合致していますので。ただ、方角が浦江県の南東ではなく、浦江県の方が南東の位置になるのですがね・・・^^:
*④「永福寺」は、平泉にある「中尊寺の二階堂大長寺院」を模して建立された寺院であり、建物が2階建てであった事から、「二階堂」とも云われました。
「永福寺のイメージCG」 → こちら
*⑤鎌倉の地図を見ると、永福寺跡と最明寺・禅興寺の位置は東西のライン上に無いかと思うかもしれませんが、記載にある通り、昔は永福寺の敷地が広く獅子巖の南に永福寺の建物の礎石があったので、現在の地図の永福寺跡と記載されている地点より、もっと北側の地点をイメージしてもらえれば、記載通りとなりますよ^^
*⑥「最明寺」は、「北条時頼」が、現在の明月院のある辺りに建立した寺院。時頼の死後、一時廃寺となったが、時頼の息子「北条時宗」が「蘭渓道隆」を開山として迎えて再建したのが「禅興寺」となります。有名な「明月院」は、この「禅興寺」の塔頭の一院ですが、明治に「禅興寺」が廃寺となった際に、「明月院」のみ残り、現在に至ります。
*⑦1212年に源実朝により創建された寺院。場所は、明王院と光触寺の間の二つ橋周辺にあった。
う~ん、名前の由来は良いとして、では「獅子巖」なる巖は、一体何処にあるのでしょうかね。
記載にある通り、永福寺の北の山頂辺りで獅子舞との繋ぎで考えると、獅子舞を登りきった処に眺めの良い岩場がありますが、そこになるのでしょうか?
「岩場」・・・ちょっと離れた場所から取ったのしかなくてすみません。後日、撮り直します。(『獅子巖』を参照)
「岩場からの眺望」・・・う~ん、絶景かな^^
「峠の茶屋」・・・岩場から1分位の所にあります。お汁粉やおでん等もあるので、寄ってみられては^^
鎌倉の紅葉を愉しみつつ、ついでに謎の獅子巖を探して見てはいかがでしょうか。
そして、もしわかったら、教えて下さいね^^
「行き方」
①バス(鎌倉駅東口より)
京浜急行バス20番系統「鎌倉宮(大塔宮)」行きで終点下車。
「鎌倉宮」を左手に眺めながら、沿うように進みます。
②「通玄橋」が見えてきますので、橋の手前を左折します。なお、橋をそのまま進むと「瑞泉寺」に向かいます。なお、左手の空き地は「永福寺跡」となります。
③「二階堂川」を渡る橋を越えたら、後はそのまま進んで行くと「獅子舞」に到着します。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
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前日は雨だったので、おっしゃる通り、道はぬかるんでいて息子がひっくり返らぬよう注意していたので、紅葉を楽しむ余裕がありませんでした(笑)。
今度足を運ぶ時は紅葉を楽しみながら、謎の獅子巌を探してみたいです。
足場の悪いなかお疲れ様でした。
お子さんも色々な意味で思い出深い体験となった事でしょうね。
今度、是非、獅子巖を探してみてくださいね。
自分も候補は見つけたので、良かったら参考にしてください。