鎌倉を愛する鎌倉市民により、鎌倉のグルメ・歴史・観光名所を紹介します。
鎌倉虎の巻
キャラウェイ
鎌倉には、行列の出来るお店も多いですが、そのなかでも、この『キャラウェイ』はいつも行列が出来ていますね。
カレーのお店になるのですが、自分も学生の時分には、とてもお世話になりました。何しろ、おいしく、且つ量も多く、且つリーズナブルとくれば、これは無敵!というものです。
最近は、行列に並ぶのがおっくうになった^^:ので、自然とここの前を通ることはあっても、店内に入る事は、テイクアウト以外ではなかったのですが、先日、平日にお休みを取った際に、夕方頃にぶらぶらと歩いていたら、なんと行列ができていないではないですか!
ここで自分は冷静に考えました。
「今なら待たずに入れる!」→「しかし、お腹は空いていない。」→「ここの量は半端じゃない!」→「とても食べきれない!おやつ程度なら食べれそうだ」→「じゃ、おやつとして食べよう^^」 というわけで、食べてきましたよ^^:
『タマゴカレー』・・730円
タマゴが見えないのは、ルーの中にウズラのタマゴが5~6個沈んでいるからです。
付け合せも福神漬けにたくあんを刻んだもの、チャツネ等、種類が豊富です。自分のお薦めはチャツネになります。
『ライムソ-ダ』・・・260円
珍しさにつられて思わず注文してしまいました。適度な酸味が美味しいですよ。
『キャラウェイ』のカレーは、よく煮込まれた家庭的なカレーの味わいです。だからこそ普通に美味しいです。量(ご飯は550グラム)も多く、値段も安い(チキンやポークカレーは630円)のですが、自分が思うこの「キャラウェイ」の最大の魅力は、お店近くを通ると、何とも言えないカレーの美味しそうな香りが漂ってきて、それに吸い寄せられてしまうところかなと思います。
並ぶのは・・・とか、もうお腹が一杯とかの際には、冷凍ですが、カレーのルーのテイクアウトもできます。これならば並ばなくてもOKです。
ビーフ・・・460円 チーズ・・・460円 ポーク・・・360円各種あり。ソースもたっぷり300gになります。
お店の行き方は、鎌倉駅から小町通りを進み、「ミカエル教会」と「コアンドル」の所を右折したら、すぐの所にあります。
ここの十字路を右折します。写真には見えませんが、左側にある建物は、「ミカエル教会」になります。
ここまで来るまでには、もうカレーの香りにやられているはず!
『キャラウェイ』
住所:鎌倉市小町2-12-20
電話:0467-25-0927
営業時間:11:30~19:30
休業日:月曜日(祝日の場合は翌日)
大船観音寺
電車に乗っていて、大船駅に近づくと、白く凛とそびえる観音様に出会えます。
最初に見た時には、その圧倒的な存在感にあっと驚いた記憶があります。
そんな観音様はいらっしゃる『大船観音寺』は、大船駅南口改札を出たら、右に進み大船駅西口に出ます。ここからは、案内もでており、数分の距離にありますので、迷わず行くことが出来ます。
ここが入口です。この坂道を上がって行きます。
「山門」になります。
観音様の上半身がそびえています。近くで拝見すると、優しそうなお顔をしていらっしゃいます。
ちなみに、土のなかに下半身が埋まっている・・・ということはないようです。
ぐるっと背中に回ると、観音様のお腹に入れます。中では、大船観音寺の歴史についての紹介があり、太平洋戦争で建築が中断していたことや、再建の様子などが良くわかります。
『大船観音』は、昭和4年に観音思想の普及を図り、工事が着工されましたが、世界恐慌や太平洋戦争のため工事が中断しておりましたが、昭和32年に工事が再開され、昭和35年に完成したそうです。当初は、立像にする計画だったようですが、地盤が崩れやすいため、現在の様な胸像に落ち着いたそうです。
ここからの眺望もなかなか良く、大船な町並みが一望ですね。
向こうに見えるの山は、『六国見山』になります。
遠くからでも、天候が良くなくても良く見えます。
『大船観音寺』
住所:鎌倉市岡本1-5-3
電話:0467-43-1561
拝観料:大人300円 子供100円
拝観時間:9:00~17:00(冬期は~16:30)
北条義時やぐら
『北条義時公墓・新法華堂跡』では、平成17年の発掘調査で、「北条義時・新法華堂」の場所が特定できた旨を紹介しましたが、この近くには、以前から『北条義時やぐら』と呼ばれる「やぐら」が存在しています。
確かに「吾妻鏡」に記載されている通り、右大将家法華堂の東の山上を墳墓とすとの記載には合致する場所にあり、『北条義時公墓・新法華堂跡』からも、ほんの数分の距離にあります。
ただし、義時の墓は法華堂を建てておりますので、「やぐら」ではないので、ここではないかなとも思いますが、古くから云われているのには、何かしらの意味がありそうですね^^
『北条義時やぐら』・・・前後2室構造のやぐらになります。かなり傷んだ卒塔婆には「北条義時公○○証菩提也」と書かれています。
『北条政子やぐら』・・・義時やぐらの向かって左手のやぐらになります。
『北条義時やぐら』の行き方は、島津忠久墓・大江広元墓のl項目で触れた島津・大江の墓の参道階段前をそのまま通り過ぎていきます。
数分で左手に入口がありますが、この写真を見てもわかりませんよね。
入口です。よく目をこらすと石段みたいのが見えます。
何となく石段のような跡をたどっていきます。
『北条義時やぐら』までの道は、距離はたいした事はないのですが、わかりにくく、途中に急勾配の場所もあったりと、はっきりいって行くのに苦労します。
ちなみに、「鎌倉虎の巻」も、ここで2回も滑落しました^^:
行ってみようと考える奇特な方は、くれぐれも行く際には気をつけてくださいね。
「鎌倉虎の巻受難の地①」・・・ここで滑落しました。
「鎌倉虎の巻受難の地②」・・・ここでも滑落しました。
レストラン ミカサ
創業は1937年であり、その前年には、松竹の撮影所が東京・鎌田から大船に移転してきており、大船撮影所のすぐ近くにお店があったことからも、映画関係の人達も多く利用されていたとのことです。 自分が行った日も混んでいて、2階席に通された様に、地元でも人気のお店です。
名物料理の『カツメシ』・・・1500円 *珈琲付きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/c2/5f4276454a745f7cabec92fcc9af054e.jpg)
『カツメシ』は、千切りキャベツの上に2層に亘りカツが積み重なり、それらをコーティングするかの様にバターライスが覆っています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/8f/bd3326f923da7e7d8d8f2a9ef67316ff.jpg)
この『カツメシ』は、忙しい撮影所の人達が、フォークとナイフで食べるのは時間が掛かるということで、スプーン一本で食べれるようにと考案されたものだそうです。
「スプーン」・・・よく見ると、ナイフ機能も備えている優れものです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/58/0c1a05f777b72a97fca597fa35a9d1fa.jpg)
「鮮魚のカルパッチョ(Sサイズ)」・・・1,600円
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/f8/b93a1680e4103934af326a1729946759.jpg)
『ミカサ』は味もさることながら雰囲気も良いお店で、ちょっと高級感も漂うお店なので、大事な人やお客さんと一緒に行くのに絶好なお店だと思いますよ。
*行き方 大船駅笠間口から、「大東橋」の交差点を越えたら、松竹通りを真っ直ぐに進んで、5~6分の左手にあるお店です。
「大東橋」の交差点 を越えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/15/07e7885a0214cec8a137cd4947550d10.jpg)
「レストラン ミカサ」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/48/aaaee7eafd21dbf870645fe0c68c1010.jpg)
『ミカサ』
住所:鎌倉市大船2-20-36
TEL:0467-46-2737
営業時間:11:30~21:30(月~土)
17:00~21:30(日・祝)
休業日:なし
北条義時公墓・新法華堂跡
「北条義時公」は、鎌倉幕府の初代執権である「北条時政」の次男で、第2代執権になります。比企氏や和田氏等の有力御家人を排斥し、また承久の乱では、幕府軍を導き、朝廷を圧倒し、北条家による独裁的政治を築き、鎌倉幕府を安定且つ発展させた人物となります。
このような冷静沈着なイメージが強い北条義時ですが、御家人「比企朝宗」の娘の「姫前」に恋をし、何度も恋文を送ったが、無視されていたところ、頼朝が仲を取り持って、絶対に義時から離婚をしないという起請文を取った上で、結婚させたというエピソードがあります。結構、情熱家だったのかもしれませんね。(なお、比企氏は、1203年「比企能員の乱」で、北条義時によって滅ぼされてしまいます。)
ちなみに、息子の北条(名越)朝時が北条政子の女官に恋文を送った時には、朝時を一時、勘当しています。厳しいですね^^:
北条義時は、1224年に脚気衝心が原因(妻の伊賀氏による毒殺説や近習に刺殺された説もあり。)で亡くなりますが、「吾妻鏡」によると、右大将家法華堂(源頼朝公の墓(法華堂跡))の東の山上を墳墓とすと記載されております。平成17年に発掘調査が行われ、その墳墓(新法華堂)の場所が特定されました。
その場所こそが、島津忠久墓・大江広元墓の石段下にある平地となります。
「新法華堂跡」
この「新法華堂跡」地の傍らにあるやぐらが「三浦一族の墓」となります。
三浦一族は、神奈川県三浦半島を所領とする豪族であり、三浦大介義明は、源頼朝の旗揚げに参加し、「衣笠城」にて戦死し、それ以降も三浦一族は頼朝に尽くしたため、幕府内に大きな地位を占めるようになります。北条氏に唯一対抗できる勢力を図った三浦一族ですが、1247年の宝治合戦の際、北条氏によって滅ぼされてしまいます。右大将家法華堂(源頼朝公の墓(法華堂跡)の頼朝の絵像の前にて三浦泰村以下三浦一族郎党500人余りが壮絶な最期を遂げました。)
「三浦一族の墓」
北条家による独裁体制を築いた義時の新法華堂。そして、その傍らにあるのは「北条氏」により滅亡させられた「三浦一族の墓」。これらが同じ空間に存在しているのは、なんだか不思議な感じですね。