鎌倉を愛する鎌倉市民により、鎌倉のグルメ・歴史・観光名所を紹介します。
鎌倉虎の巻
浄光明寺(後編)
『浄光明寺(前編)』の続きとなります。
天気の良い木・土・日曜日・祝日には、阿弥陀堂、収蔵堂が拝観できます。200円を納めると、寺の方が親切にも説明してくれます。
阿弥陀堂に隣接する収蔵庫には、国指定の重要文化財である「阿弥陀三尊像」が安置されています。阿弥陀如来像は、1299年に北条久時(長時の孫)が願主となり造立されたもので、土を型抜きしたものを木像に貼り付けるという「土紋装飾」という珍しい鎌倉でのみ見られる技法が施されております。
なお、足利直義の守り本尊「矢拾地蔵」も見ることができます。「矢拾地蔵」は、足利直義が中先代の乱の際、矢が不足し困っていたところ、何処からともなく小僧が現れて矢を拾い集めてきてくれるのですが、その小僧こそ、直義が日頃から信仰していた地蔵尊だったということです。
「阿弥陀堂」
「槙の木」・・・阿弥陀堂前にある老木で、樹齢750年余りということなので、「浄光明寺」の建立から、この地にあります。
裏の一段高い所には平場があり、やぐら内には「網引き地蔵」が祀られています。
「網引き地蔵」・・・背面には正和三年(1313年)の銘が刻まれており、冷泉為相の造立と云われています。地蔵尊の背後には納骨穴があり、天井には天蓋の跡と思われるものが見られます。この地蔵尊は、後年、何処からかこの場所に移されたものなのでしょうか?
「冷泉為相」の墓・・・「網引き地蔵」の上にあります。
「冷泉為相」は、藤原定家の孫にあたり、和歌で有名な冷泉家の祖になります。母は、「十六夜日記」で有名な「阿仏尼」となり、為相は、晩年、浄光名寺の北西にある藤ヶ谷(ふじがやつ)に居住していたことから、「藤谷黄門(ふじたにこうもん)」とも呼ばれたそうです。
*黄門は、中納言の唐名になり、為相は権中納言の官位にありました。水戸黄門も同様で、水戸家の権中納言という意味です。
「網引き地蔵」のある平場については、寺の方に聞いても何かはあったようだが、よく判らないとの事でした。1335年頃に作成された「浄光明寺絵図」を見ると、この平場の北西部に「地蔵堂」がある事からも、自分としては、「網引き地蔵」は、元々、地蔵堂にあったものを、現在の位置に移してきたのではないかと考えたりします。とすると、この「網引き地蔵」のあるやぐらは、この規模の大きさからいって、元々は、「北条長時」始めとする赤橋流北条家の墓(吾妻鏡に記されている「泉谷新造堂」)なのではと、自分勝手な妄想、願望を膨らませたりしてしまいます^^:。
「平場」
地蔵堂があったと思われる場所にある遺構・・・何でしょうか?
「浄光明寺」は、北条家所縁の寺院だけでなく、足利将軍家所縁の寺院でもあります。足利尊氏の妻は北条(赤橋流)守時の妹の登子であり、その縁もあって、足利尊氏は、後醍醐天皇の勅許を得ずに鎌倉入りした際に、蟄居していた寺は、この「浄光明寺」となります。
このような歴史と見事な仏像等に出会える「浄光明寺」は、訪れる観光客も比較的に少なく、ちょっと穴場とも言える寺院となり、自分のお気に入りの寺院であります。