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壇ノ浦古戦場

 1180年の以仁王の挙兵に始まる治承・寿永の乱 は、石橋山、富士川、一の谷、屋島等の激戦を経て、1185年の壇ノ浦の戦いで最終決戦を迎えます。
この戦いで、「平家にあらずんば人にあらず」とまで栄華を誇った平家は滅亡し、源頼朝による鎌倉幕府の誕生につながっていくこととなります。


 壇ノ浦の戦いは、長門国赤間関(現在の山口県下関市)で行われました。


「みもすそ川公園」



 「みもすそ川公園」は、壇ノ浦に面した公園であります。ここから、壇之浦の古戦場を眺める事ができます。



 「みもすそ川公園」から壇ノ浦古戦場を望む




 壇ノ浦の戦いは、当初、海戦に慣れた平家側が、潮流の流れを有利に利用した事もあり、優勢に戦いを進めますが、潮流の流れの変化に加え、平家側の武将からの裏切りも発生すると、じょじょに源氏側が平家側を圧倒し始め、最終的には、平家側の壊滅状態になり、一門の多くは、戦死するか、はたまた海に身を投じたりと、悲しい最期の時を迎えます。


 そのなかには、安徳天皇と二位の尼もおりました。
 平家の敗北を目の前にした二位の尼(平清盛の妻)は、まだ幼い安徳天皇を抱きかかえ、「どこに行くのか」と問う安徳天皇に対し、「弥陀の浄土へ参りましょう。波の下にも都がございます」と答えて、海に入水してしまいます。
 みもすそ川の名前の由来は、この際、入水した二位の尼の詠んだ辞世の歌からきております。

 「今ぞ知る みもすそ川の 御ながれ 波の下にも みやこありとは」
 


 『源義経と平知盛像』





 『源義経像』
 

 壇之浦の戦いの名シーンである八槽跳びをする源義経です。


 
 勝敗の趨勢が決まるなか、平家の総大将(実質の)である平知盛は、なおも戦い続けている平教経*1に対し、これ以上の無用な殺戮はするなと伝えます。
 すると教経は、ならばと敵の大将である源義経を道連れにしようと追いかけます。逃げる義経に追う教経、その時に舟から舟に義経が跳び移って難を避けたのが、八槽跳びとなります。

 なお、源義経に逃げられた平教経は、これまでと覚悟を決め、生け捕りにしようと迫る源氏方の猛者3人の内、1人を舟から蹴落とし、2人を左右の脇に抱え「死出の山の供をせよ」と言うなり入水し、壮絶な最期を遂げます。


 ※1 平家の猛将。平清盛の弟である門脇中納言平教盛の次男。官位は能登守。
    水島の戦い、六箇度、屋島、壇ノ浦合戦等で活躍。
    屋島の戦いでは、源義経を狙い矢を放ちますが、この時、源義経側近の佐藤継信が義経の盾となり戦死します。



 「平知盛像」


 平知盛は、平清盛の4男で、母は、二位の尼(平徳子)となります。官位は二位行権中納言。平家物語では、新中納言と称されています。両親からは大変、愛されており、鍾愛の若公と呼ばれていたそうです。
 父・清盛亡き後は、頼りない兄「平宗盛」を支え、壇ノ浦の戦いでは、実際の軍の指揮を取っておりました。
 戦況が平家の敗北が決定的になると、安徳帝の御船に行き、最期が近づいている事を伝え、皆に見苦しい物は捨てさせ、自身で掃除も行い、御船を掃き清めます。
 その後、一門の最期を見届けると、「見るべきものはすべて見た」と、乳兄弟の伊賀家長と一緒に、海面に浮かびあがらないよう鎧を2領着て、手を取り合い入水し、最期を遂げます。
 知盛は慎重かつ冷静な性格であった様で、「源平盛衰記」によると、入水した後、部下の1人に弓を携えて残らせ、万が一に海面に浮かび上がって場合、捕虜の辱めにならないよう射殺するよう指示していたとの記載があります。
 ちなみに、この武者は、その名は分かっておりませんが、しばらく海面上に睨みを利かせた後、後を追って入水したとの事です。



 この知盛像は、碇を担いで入水した説もあるので、それをモチーフにしたようですね。文楽や歌舞伎での「碇知盛」が有名なので、こちらの方が分かりやすいのかも知れないですね。



 「長門砲台の跡」


 この公園の場所は、幕末の下関戦争時の長州藩の砲台跡でもあるため、レプリカですが砲台もあります。



 ボランティアの方による紙芝居も上演されていました。



 ちなみに「耳なし芳一」が上演されいました^^


 
 平家物語や源平盛衰記を読み、この壇ノ浦古戦場を臨むと、感慨深いものがあります。近くには『赤間神宮』もあるので、そちらにも是非、寄られる事をおすすめします^^




『壇ノ浦古戦場』(みもすそ川公園)

住所:山口県下関市みもすそ川町1番






 






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