※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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斉明女帝の朝倉橘広庭宮と木の丸殿
“三連水車”のある街として知られる福岡県朝倉市は、福岡県の中央部にあるのどかな田園地帯です。
この朝倉の地に短い期間ですが、かつて天皇が住まわれたことがあったと伝わります。
660年(斉明6年)、東アジアでは唐・新羅軍が百済を攻略しました。朝廷は朝鮮半島へ百済救援軍を派遣することになり、指揮のため斉明天皇とともに筑紫へ赴いたのです。
斉明天皇こと宝皇女は、第35代皇極天皇として即位したのち、弟である軽皇子<孝徳天皇>に譲位します。そして孝徳天皇の崩御後、再び天皇の位に即いた女性です。後の天智天皇・天武天皇の母でもあります。
斉明天皇以下、朝廷の人々は、661年(斉明7年)3月、娜大津<なのおおつ=現在の福岡市>に至り磐瀬行宮(いわせのかりみや)に坐し、5月9日に朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷ったのでした。
『日本書紀』によると、この朝倉橘広庭宮には、すでに百済での敗戦〔白村江の戦い:663年〕を暗示させるかのような記事がうかがえます。
<原文は漢文>
五月の乙未の朔の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷り居します。
是の時に、朝倉社の木を斬り除ひて、此の宮を作りし故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮中に鬼火を見る。是に由りて、大舎人と諸の近侍、病みて死ぬる者衆し。
朝倉橘広庭宮を作る際、朝倉社の木を切ったため神が怒り、宮殿を壊したといいます。
朝倉社は、恵蘇八幡宮もしくは「延喜式」神名の麻●良布(まてらふ)神社に比定されていますが、詳細は不明です。
(●=“氏”の下に“一”のある字)
また、宮中には鬼火が出たため、病気になって死亡者が多く出たとあります。そして・・・
六月に、伊勢王、薨せぬ。
秋七月の甲午の朔にして、丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
同年6月には皇族の伊勢王が薨じられ、7月24日には斉明天皇までが崩御されたのでした。
8月1日に、皇太子である中大兄皇子<のちの天智天皇>は、母である斉明天皇の柩に付き添い、磐瀬行宮<長津宮>へ戻ります。そこでもまた怪異が起こります。
是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて大笠を著て、喪の儀を臨み視る。衆、皆嗟怪ぶ。
この夕方、朝倉山<麻●良布(まてらふ)神社の背後にある東西に連なる山々>の上に鬼が現れ、大笠を着て喪の儀式を見守っていたのです!衆人はみな、アアッと不思議に思ったのでした。
5月~7月までのごく短期間の宮殿でありながら、『日本書紀』には怪異の多い宮として記されている朝倉橘広庭宮…。
その宮跡は明確にはわかっていませんが、福岡県朝倉市内と考えられています。
今回は福岡県朝倉市にある「橘の広庭公園」(朝倉橘広庭宮跡・伝承地)をご紹介いたします。
朝倉橘広庭宮跡?
橘の広庭公園
「橘の広庭公園」にある『橘廣庭宮之蹟』と書かれた石碑。
公園そのものは日本書紀に書かれているような、おどろおどろしい感じはしませんでした。
≪教育委員会による看板より≫
あさくらのたちばなのひろにわのみやあと
朝倉橘広庭宮跡
所在地 福岡県朝倉町大字須川
歴史・背景
4世紀末、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の三国に分割され、7世紀に至るまで和戦を繰り返していたが、660年7月、百済はついに新羅・唐の連合軍に亡ぼされ、同年10月、かつてから親交関係にあった日本へ使者を遣わし救済の要請をしてきた。斉明天皇と中大兄皇子らは、その要請を受け入れ、救済軍を派遣することを決定した。
翌661年1月6日、天皇は、中大兄皇子(後の天智天皇)、大海人皇子(後の天武天皇)、中臣鎌足らと共に難波の港から海路筑紫に向かい、1月14日四国の石湯行宮に到着し、3月25日那大津(博多)に至り、磐瀬宮(三宅)をへて5月に朝倉橘広庭宮に遷られた。しかし天皇は滞在75日(7月24日)御年68歳で病の為崩御された。
現在、朝倉橘広庭宮の所在は分かっていないが、地元の伝承では、「天子の森」付近だといわれており、本町恵蘇宿の恵蘇八幡宮の境内付近には、中大兄皇子が喪に服したといわれている「木の丸殿跡」や斉明天皇の御遺骸を仮安置したといわれる「御陵山」が存在する。
公園内には「橘(タチバナ)」が植えられていす。ちょうど実がなっていました♪
朝倉橘広庭宮跡<伝承地>の確認のため、長安寺を手がかりに1933年から数年にわたって遺跡の調査が行われたそうです。
≪「橘の広庭公園」内にある長安寺廃寺跡の案内看板より≫
ちょうあんじはいじあと
県指定史跡 長安寺廃寺跡
所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1271~1306
指定日 昭和38年1月9日
奈良~平安時代の古代寺院跡で、古くは朝鞍寺、朝闇寺と呼ばれていた。1933年の発掘調査から多量の須恵器、土師器、瓦などが発見された。また「大寺」「知識」「寺家」などの墨書土器が発見され、更にその後の調査から、建物の礎石が発見されたことにより、古代寺院の存在が確認されている。出土瓦は、老司式と鴻臚館式のものであり、8世紀前半のものと推測されている。
また筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という……」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。またこのことは続日本書紀に天智天皇が、斉明天皇の冥福を祈って観世音寺と筑紫尼寺を創建した、とあることから長安寺とは朝倉橘広庭宮の跡に営まれた筑紫尼寺のことではないかといわれている。
調査の結果、奈良~平安時代にかけてこの地に大寺院があったことが明らかになりましたが、朝倉橘広庭宮跡の確証は得られなかったそうです。
橘の広庭公園には「朝闇(ちょうあん)神社」があります。
≪教育委員会による看板より≫
ちょうあんじんじゃ
朝闇神社
所在地 福岡県朝倉町大字須川字鐘突1269
祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかとも考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門天堂」は現在も残っている。
さて。
中大兄皇子が母・斉明天皇の喪に服したという宮殿「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの・このまろどの)」もまたかつて朝倉にありました。
≪『十訓抄』 上 可施人恵事 一ノ二 より≫
天智天皇、世につつみ給ふことありて、筑前の国上座の郡朝倉といふ所の山中に、黒木の屋を造りておはしけるを、木の丸殿といふ。円木にて造るゆゑなり。
~(略)~
さて、かの木の丸殿には用心をし給ひければ、入来の人、必ず名のりをしけり。
朝倉や木の丸殿にわかをれば
名のりをしつつ行くは誰が子ぞ
これ、天智天皇の御歌なり。これ、民ども聞きとどめて、うたひそめたりけるなり。その国々の風俗ども、えらび給ひける時、筑前の国の風俗の曲にうたひけるを、延喜の帝、神楽の歌ども加へられけるに、うたひそへられたりけるなり。~(略)~
「朝倉」にとりては、めでたき曲なり。昔よりかたみにゆづりて、上手にうたはせむとするなり。ことかき・すががきを掻くに、拍子ばかりをうちて、上下、臈をいはず、堪能のものにゆづりて、かれがうたふを待つなり。清暑堂の御神楽に、斉信、公任、本末の拍子をとられける時も付歌にて、定頼ぞ「朝倉」をばうたはれける。
『十訓抄(じっくんしょう・じっきんしょう)』は鎌倉時代に作られた年少者向けの説話集です。
この『十訓抄』には、天智天皇が母親である斉明天皇の喪に服していた様子と朝倉で詠んだ歌、そしてその歌が後世に素晴らしい・めでたい曲として伝えられた様子が描かれています。
(なぎ訳)
天智天皇が斉明天皇の喪に服していた時、朝倉の山中に黒木で建物を造っていらっしゃったのを「木の丸殿(このまるどの・きのまろどの)」といいます。刈りだしたままの丸太でつくっていたからです。
さて、その木の丸殿では用心をしていらっしゃったので、宮殿に入ってくる人は必ず名のりをしていました。
朝倉の木の丸殿に私がいると
名のりをあげていく人がいるが、あれは誰であろうか。
これは、天智天皇の御歌です。これを人々が耳にとどめて、歌い始めました。それぞれの国々の風俗歌を選ばれた時、筑前の国の風俗歌として歌われていたのを、延喜(えんぎ)の帝とよばれた醍醐天皇が神楽歌にお加えになり、歌われるようになったといいます。
「朝倉」という曲は、めでたい曲です。昔から互いに譲り合って、上手に歌わせようとするのです。「ことかき」や「すががき」などとよばれる和琴の出だしを演奏しながら、拍子だけを打って、身分の上下・年齢を問わず、堪能な者に譲って、その人が歌うのを待つのです。大内裏の豊楽院(ぶがくいん)にある清暑堂(せいしょどう)の御神楽で、藤原斉信・藤原公任が前半の拍子・後半の拍子をとられた時も「付歌(つけうた=神楽に添えて歌う歌)」として、藤原定頼がこの「朝倉」を歌われたということです。
・醍醐天皇<885~930>:平安初期の天皇。「延喜の帝」とよばれた。
・藤原斉信(ただのぶ)<967~1035>:平安中期の公卿。
・藤原公任(きんとう)<966~1041>:平安中期の公卿。
・藤原定頼(さだより)<995~1045>:藤原公任の子。
天智天皇の歌は、『新古今和歌集』第巻十七 雑歌中 にも収められています。
朝倉や木の丸殿にわれをれば
名のりをしつつゆくはたが子ぞ
福岡県朝倉市山田にある恵蘇(えそ)八幡宮は、「木の丸殿」跡といわれています。
次は、恵蘇八幡宮をご紹介いたします。
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「金印」出土の志賀島と志賀海神社
その1の続きです。
われは忘れじ志賀の皇神
志賀海神社
●所在地:福岡市東区志賀島877
●交通 :西鉄バス「志賀島」下車 徒歩10分
志賀島の東南にあり、万葉集にも詠まれている古い神社です。
「龍の都」・「海神の総本社」とも呼ばれ、海上安全の神として崇敬されています。
≪福岡市教育委員会による看板より≫
志賀海神社と文化財
志賀海神社は綿津海(わたつみ)三神を祀り、古来より海の守護神として信仰されてきました。海上交通の要所である玄界灘を臨む博多湾の入り口に鎮座し、海人部(あまべ)の伴造(とものみやつこ)として著名な阿曇(あずみ)族に奉祀されました。大同元年(806)には阿曇神に神封八戸が与えられ、貞観元年(859)には志賀海神に従五位上、また元慶4年(880)には賀津万神(志賀島勝馬の祭神)に従五位下の神階が授けられています。平安時代の『小右記』には志賀海神社社司の対宋交通が記され、中・近世には大内氏、小早川氏、黒田氏の加護を受けていたことが当社に伝えられた文書(福岡市指定文化財)によってわかります。
社蔵の鍍金鐘(国指定重要文化財)は高麗時代後期の特色がよく表れ、境内の完存する石造宝篋印塔(福岡県指定文化財)は銘文から貞和三年(北朝年号1347年)に造立の時期が考えられます。
この神社の神事のうち、1月下旬に厄疫退散と五穀豊穣、豊漁の意味を兼ねて行われる「歩射祭」、4月15日と11月15日の春秋に神功皇后伝説にちなんで狩漁を演じる「山ほめ祭」、10月初旬の夜間に遷幸・遷御と芸能が奉納される「神幸行事」はいずれも福岡県の無形民俗文化財に指定されています。
*参道沿いには万葉集に収められている「ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも・・・」の歌碑があります。
ちはやぶる鐘の
岬を過ぎぬとも
われは忘れじ
志賀の皇神
※志賀の皇神(すめがみ)=志賀海神社の御祭神です。
≪看板より≫
万葉歌碑(志賀島第一号歌碑)
ちはやぶる鐘(かね)の岬を過ぎぬとも
われは忘れじ志賀の皇神(すめがみ)
(巻七・一二三〇)
「航海の難所である鐘の岬を過ぎたとしても、わたしは海路の無事をお願いしたこの志賀の神様を忘れません。」という意味の歌です。
ちはやぶるとは狂暴なとか勢いが強い意味とされ、鐘の岬は現在の宗像市鐘崎(かねざき)の織幡(おりはた)神社が鎮座する岬で、対峙する地島(じのしま)との間の瀬戸は航海の難所でした。志賀島から船出して奈良の都へ向かう官人が詠んだものです。
私が上記の歌のことを知ったのは『源氏物語』がきっかけでした。
この歌は、『源氏物語』<玉鬘>巻において、玉鬘と乳母(めのと)一家が筑紫へ向かう船旅の場面にて、乳母の「口癖となった言葉」のもととなった歌なんです。
金の御崎過ぎて、「われは忘れず」など、世とともの言種になりて
“船旅で鐘の岬(福岡県宗像市鐘崎にある岬)を過ぎてから乳母は万葉集の「ちはやぶる金の岬を過ぎぬとも われは忘れじ志賀の皇神」という歌を思い出して、『われは(都から離れようとも玉鬘の母である夕顔のことを)忘れず』などと、明けても暮れても口ぐせになって”
と作中に書かれているんですよ~。
この歌を知ってから、志賀の皇神を祀る志賀海神社を訪ねてみたいと思っていたんです♪
志賀海神社 楼門
境内には雌雄の鹿の像があります。
鹿角庫(ろくかくこ)
鹿角庫の中は、鹿のツノがぎっしり収められていました。
≪看板より≫
その昔、神功皇后が対馬にて鹿狩りをされその角を多数奉納されたことが起源とされる。
鹿の角は、祈願成就の御礼に奉納され、中にはウキを付けて海に流されてきたものを漁師が拾い上げ奉納したものなどがある。現在では約一万本以上を数える。
※志賀島の地名は「鹿の島」ではなく「近い島」が「チカシマ→シカシマ→シカノシマ」と訛ったものである
拝殿にて参拝。
裏手には摂社がたくさんありました。
木々に囲まれていながら潮騒の聞こえる厳かでとても心地よい神社でした。
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2004年)
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「金印」出土の志賀島と志賀海神社
(『ご当地ピンズ』シリーズ、“福岡ピンズ”のひとつ。「金印」)
2004年7月、福岡市東区にある志賀島(しかのしま)に行ってきました。
志賀島といえば、金印で有名ですよね♪
というわけで・・・金印公園へ。
金印公園
「漢委奴国王金印発光之処」の石碑。
志賀島の南側にある金印公園です。
天明4年(1784年)に金印が発見されました。
<福岡市による看板より>
金印公園
この地は後漢(現在の中国)の光武帝が奴国(現在の福岡市を中心とする地)の使者に授けたといわれる金印(国宝)が発見された場所としてわが国の歴史上、重要な地とされています。
印綬伝来から1900余年を経過したいま、この地に立って博多湾、玄界灘を望みながら遠く中国大陸と交流があった当時をしのべば、私たちの心に新たな感銘を呼びおこすでしょう。
公園には「金印」の拡大バージョンの碑があります。
志賀島の対岸に見えるのは博多湾に浮かぶ能古島(のこのしま)です。
『漢委奴国王(かんのわのなのこくおう』
金印の実物は 一辺2,3cm、重さ108,7g の金塊です。
福岡市博物館の常設展で見ることができます。とても綺麗ですよ~!
金印については、所蔵先の福岡市博物館のホームページが大変詳しいです。
『漢委奴国王』は「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」とよむという説と「漢の委奴(いと)の国王」とよむという説がありますが、奴(な)も委奴(いと=伊都)も博多付近の小国でした。
『後漢書』東夷伝 より (原漢文)
建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武、賜ふに印綬を以ってす。
(↑ 私が高校時代に使った日本史の教科書より抜粋。)
建武中元二年は西暦57年(弥生時代)のこと。
この時、光武帝から賜った印綬が志賀島でみつかった金印といわれています。
*福岡市博物館で販売されている金印スタンプ。
≪スタンプに付いていた解説書より≫
つまみ<鈕(ちゅう)>は蛇がとぐろを巻いた姿で、ひもを通す孔(あな)<鈕孔(ちゅうこう)>には紫色のひも<綬(じゅ)>が結ばれていたものと考えられます。
金印は、大切な公文書や手紙の封印に使われました。封印の方法は、文書や手紙を入れた箱を紐で縛りその結び目に付けた粘土に押して封をしたもので、文書の秘密を守る鍵の役目を果たしています。
次回の記事では、志賀島にある志賀海神社をご紹介します。
※こちらの記事はwebサイト『花橘亭~なぎの旅行記~』内、「PICK UP」に掲載していたものです。(執筆時期:2009年)
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『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
藤原定方 (ふじわらのさだかた)
873年(貞観15年)~932年(承平2年)
平安時代中期の官人。歌人。管弦の名手。
邸宅が三条坊門小路の北面にあったため、三条右大臣と呼ばれる。
歌集『三条右大臣集』を遺す。
父は、藤原高藤。
母は、宮道列子。(宮道弥益の娘)
姉または妹である胤子(たねこ・いんし)は宇多天皇の女御で醍醐天皇の生母となる。
定方は子宝に恵まれ、5人の男子と13人の女子が確認されている。
娘のひとり・能子を醍醐天皇の後宮に入内させる。(能子は醍醐天皇崩御後、天皇の同母弟・敦慶親王と交際を経て、藤原実頼の妻となる。)
政治家としてよりも文化人としての功績を遺す。
宇多上皇や醍醐天皇主催の歌合で活躍し、醍醐朝の宮廷歌壇活動に寄与した。
従兄弟で娘婿でもある藤原兼輔、紀貫之や凡河内躬恒とも歌人同士として交流があった。
山科に勧修寺を建立したことから、子孫は「勧修寺流」と呼ばれる。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。
紫式部とその夫・藤原宣孝はともに藤原定方の曾孫にあたる。
また、紫式部が仕えた一条天皇中宮彰子は定方の玄孫である。
三条右大臣の名で歌人として知られる藤原定方。
『百人一首』には以下の歌が撰ばれています。
名にしおはば 逢坂山の さねかづら
人に知られで くるよしもがな
三条右大臣
三条右大臣の歌碑は、宮道神社や逢坂関記念公園<滋賀県大津市>、嵯峨野に建立されています。
定方の子孫にも、『百人一首』に撰ばれた歌人が多いので系図にしてみました。
系図と歌をご覧くださいませ。 定方の五男・藤原朝忠
あふことの たえてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし
中納言朝忠 定方の曾孫世代:紫式部・藤原公任・藤原実方
めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部
滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
名こそ流れて なほ聞こえけれ
大納言公任
かくとだに えやはいぶきの さしも草
さしも知らじな もゆる思ひを
藤原実方朝臣 定方の玄孫世代 :藤原賢子(大弐三位)・藤原定頼・藤原道雅
ありま山 ゐなの笹原 風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
大弐三位
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに
あらはれわたる 瀬々の網代木
権中納言定頼
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを
人づてならで 言ふよしもがな
左京大夫道雅
【参考】
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店
「カラー 小倉百人一首」 編著:島津忠夫・櫟原聰/発行:京都書店
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『源氏物語』における光源氏と明石の君のモデル!?
藤原高藤と宮道列子のロマンスの地
藤原胤子 (ふじわらのたねこ・いんし)
876年(貞観18年)~896年(寛平8年)6月30日
贈皇太后藤原胤子。
宇多天皇女御。醍醐天皇の生母。
父は、藤原高藤
母は、宮道列子・・・宮道弥益の娘
同母兄弟に、定国(大納言兼右近衛大将)・定方(右大臣)・満子(尚侍)がいる。
光孝天皇の第七皇子として生まれた源定省(さだみ)と結婚。
長男・源維城(これざね)<のちに親王宣下→敦仁親王→醍醐天皇>を産む。
夫の源定省が皇族に復帰し宇多天皇となり、第一皇子・敦仁親王が皇太子となる。
しかし敦仁親王の即位を見ないまま若くして亡くなる。
宇多天皇との間に、敦仁親王<醍醐天皇>・敦慶親王・敦固親王・敦実親王・柔子内親王をもうけた。
(早世した胤子に代わって、宇多天皇女御藤原温子が養母となる。)
※醍醐天皇・敦慶親王・敦固親王は、父・宇多天皇より先に亡くなった。
『今昔物語集』高藤の内大臣の語において、藤原高藤が山科の宮道弥益の邸宅で一夜の宿をかりた時に宮道列子と結ばれ、胤子を授かったエピソードが記されている。
胤子の祖父・宮道弥益の邸宅を寺に改めたのが現在の勧修寺。
祖父の宮道弥益と両親、兄弟たちとともに勧修寺の南にある宮道神社に祀られている。
≪胤子の子どもたち≫ 醍醐天皇 (だいごてんのう)
885年(元慶9年)~930年(延長8年)9月29日
宇多天皇の第一皇子。
源維城(これざね)→敦仁親王(あつぎみしんのう) 敦慶親王 (あつよししんのう)
888年(仁和3年)~930年(延長8年)2月28日
宇多天皇の第四皇子。
中務卿、式部卿 などを歴任。二品に叙される。
管弦詩歌に秀でており、醍醐朝の文化興隆に貢献した。
『源氏物語』の光源氏のモデルの一人。 敦固親王 (あつかたしんのう)
生年不明~926年(延長4年)12月28日?
宇多天皇の第五皇子。
902年(延喜2年)に元服。
兵部卿。二品に叙される。 柔子内親王 (よしこないしんのう)
892年(寛平4年)?~959年(天徳3年)正月二日
宇多天皇の第二皇女。
六条斎宮と号する。
897年(寛平9年)、兄の敦仁親王の即位<醍醐天皇>によって、伊勢の斎宮に卜定される。
899年(昌泰2年)9月、伊勢に下る。
兄・醍醐天皇の崩御により、930年(延長8年)斎宮退下。
平安時代の斎宮としては最長の在任期間だった。 敦実親王 (あつざねしんのう)
893年(寛平5年)~967年(康保4年)3月2日
宇多天皇の第八皇子。
八条宮、仁和寺宮、六条式部卿宮と呼ばれる。
中務卿、式部卿 などを歴任。一品に叙される。
950年(天暦4年)、出家し仁和寺に住んだ。
法名 覚真。
藤原時平女との間に、源雅信(贈正一位左大臣)・源重信(正二位左大臣)・大僧正寛朝をもうける。
勧修寺大僧正と呼ばれた雅慶も敦実親王の子という。
宇多源氏の祖としては最も子孫が栄えた。
有職に詳しく、音楽の道にも秀でていた。
舞楽「胡蝶」や「延喜楽」の舞の振り付けをしたと伝わる。
【参考】
「平安時代史事典CD-ROM版」 監修:角田文衞/編:(財)古代学協会・古代学研究所/ 発行:角川学芸出版
「今昔物語集 本朝部(中)」編:池上洵一/発行:岩波書店