『武道哲学講義(第三巻)』の「まえがきに代えて」で、学習と修学の区別と連関を説いていただいている。
これは、自身の弁証法の学びとして捉え返すならば、「対立物の統一」「量質転化」「対立物の相互浸透」「否定の否定」等等、「弁証法はどういう科学か」(三浦つとむ)に説かれていることを学び(=学習)、その学んだことを駆使して鍼灸に関わるあらゆる問題を、体系的な著作が可能となっていくまで、解ききること(=修学)であり、自身の鍼灸の学びとしては、鍼灸の技を学び(=学習)、その学んだ技であらゆる患者を治していくことで、術といっていいレベルに至ること(=修学)である、と思う。
学習と修学を、そう捉えてみると全ての自身の学びは学習と修学の区別がついていないというか、学習レベルの学びを修学と錯覚してしまっているというか、全くの中途半端との思いがする。
そう考えると、修学が可能なだけの学習レベルであるかの確認と直接に修学が可能な学習レベルへと創ることに全力を尽くさねばならないと思える。
このことの具体性が、24時間の生活の弁証法化であり、自身と周囲の人々を対象にした鍼灸治療である、のではと思う。
何十年も前から繰り返し説いていただいていることに漸くにと内心忸怩たるものがあるが、自身のレベルはそのレベルでしかないのであるから、努力していくしかない、と。
これは、自身の弁証法の学びとして捉え返すならば、「対立物の統一」「量質転化」「対立物の相互浸透」「否定の否定」等等、「弁証法はどういう科学か」(三浦つとむ)に説かれていることを学び(=学習)、その学んだことを駆使して鍼灸に関わるあらゆる問題を、体系的な著作が可能となっていくまで、解ききること(=修学)であり、自身の鍼灸の学びとしては、鍼灸の技を学び(=学習)、その学んだ技であらゆる患者を治していくことで、術といっていいレベルに至ること(=修学)である、と思う。
学習と修学を、そう捉えてみると全ての自身の学びは学習と修学の区別がついていないというか、学習レベルの学びを修学と錯覚してしまっているというか、全くの中途半端との思いがする。
そう考えると、修学が可能なだけの学習レベルであるかの確認と直接に修学が可能な学習レベルへと創ることに全力を尽くさねばならないと思える。
このことの具体性が、24時間の生活の弁証法化であり、自身と周囲の人々を対象にした鍼灸治療である、のではと思う。
何十年も前から繰り返し説いていただいていることに漸くにと内心忸怩たるものがあるが、自身のレベルはそのレベルでしかないのであるから、努力していくしかない、と。