鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

「ナースが視る人体」に学ぶ〜一般性レベルの東洋医学とはなにかについて〜

2016-03-27 13:42:07 | 鍼灸理論・東洋医学
 4月に入るとほぼ同時に鍼灸学校2年次の新学期が始まるので、この1年の学びの総括という意味でも、「東洋医学とはなにか」ということをこのところ考えている。そのことを改めて考え続けてみると「鍼灸学校入学以前よりも東洋医学、鍼灸、手技療法についての理解が深まっているなあ。」と思えるので、現時点の自身のアタマを整理する意味でも、しっかりとまとめきれてい無いのであるが、ブログとして書くこととした。

 本題に入る前に、今朝大事な発見?があったので、少し脱線するが準備運動をかねて書くことにする。脱線とは、お茶の話である。昨日、おそらく初めて「玉露」を飲んだ。そのことにかかわってあれこれと思うこと。があったのでそのことを書きたい。

 昨日、地元の農産物の直売所でお茶を買って飲んだのだが、販売しているものの中では一番高いものを購入したのに味も香りも最悪であったので、やはり田舎のお茶はダメなのか?昔には城下町であった土地柄なので良いお茶に対する需要もあっただろうに、お茶作りの文化や伝統は生まれ育たなかったのか?と残念に思った。

 今朝、その不味いお茶しかなかったので、止むを得ず飲もうとして、袋の裏を見ると「玉露」との記載があった。「玉露」と知って、昨日淹れたお茶が猛烈にまずかった理由に思いあたり、自身の半可通の知識では心許無く思って、インターネットで「玉露」の淹れ方を調べて、改めて淹れた。
 すると、昨日は、最低最悪であったものが、今朝淹れたものはお茶の甘い香りと甘み旨みのある味で、日本茶の最高峰と言われる「玉露」の美味しさに驚かされた。

 これは端的には、対象の構造に見合った働きかけと対象の構造を無視した働きかけの違いであるのだが、その味と香りの雲泥の差とも言える違いに、いまさらに対象の構造に見合った働きかけの大事性痛感された。

 以上のことだけであるのならばわざわざ脱線することもなかったのであるが、以上のことを朝の日記に書くうちに、「論理を再措定するとはいかなることか。」が大まかにであるがイメージできたように思えた。のでのわざわざの脱線である。どういうことかといえば、簡単には以下である。

 自身はあるかたから「お茶は煎茶が一番!」と昔々に言われたことがあり、それ以来四半世紀以上もの間お茶といえば煎茶しか眼中になく、それ以外は真面目に飲んだことがなかった。という過去がある。そしてそれが心の底から尊敬するかたの言葉であっただけに、「お茶は煎茶が一番!」との知識で「煎茶」を飲んでいればそれで良い、つまりそれで「お茶は煎茶が一番!」ということが分かっているのだと思い続けていた。

 しかし、である。今朝、「玉露」を飲んでその美味しさに驚かされて思ったことは、本来ならば、「お茶は煎茶が一番!」ということを教えてくださった方がいかに偉大で、尊敬すべきかたであったにしても、「お茶は煎茶が一番!」という論理を知識としてもらって満足してよしとするのではなく、「お茶は煎茶が一番!」という論理を一般論として把持しながらも、「お茶は煎茶が一番!」と教えてくださったかたがされたであろうように、煎茶、玉露、番茶、焙じ茶、玄米茶、抹茶等々あらゆるお茶をしっかりと味わい続けた上での、お茶の原点からその歴史性を、その時代性とともに辿ることで味わった上での、「ああ、やっぱりお茶は煎茶が一番だなあ!」と実感レベルで分かって行かねばならない。し、それが本当に分かるということ、つまり<再措定>ということなのだ。ということである。

 さて、随分と大きく脱線したが本題の「東洋医学とはなにか」について。
 「医学の復権」、「看護学と医学(上・下巻)」(共に、瀬江千史著 現代社)を読んでいく中で、まずは一般性レベルでも「東洋医学とはなにか」の一般論を持つ必要性を痛感し、また冒頭に述べたように、昨年からの一年間の総括という意味でも、「東洋医学とはなにか」ということを考えてみた。
 あれこれ考えるものの、なかなかに明確なイメージにはなっていかず悪戦苦闘しているなかで思いあたったのが、「看護のための人間論 ナースが視る人体」(薄井坦子著 講談社)で、薄井先生が東洋医学について説いていただいている箇所である。
読み返してみると、ここにしっかりと学んで自身の今後の指針としていかねばならないと思えた。

 「看護のための人間論 ナースが視る人体」の「健康の乱れの発見と早期調整」「自然治癒力を高める刺激」の項で、薄井先生は以下のごとく説いてくださっている。

 「人間は、目にみえるからだと目にみえない心をもっている、そして1人の人間はいつも社会のなかで生きている。このように相反するあり方をもっている人間の健康は、バランスの乱れを起こしやすいのである。東洋医学では、全身にあらわれる乱れの徴候をみつめ早期に調整する方法を経験的にまとめてきている。」
 「健康の乱れは、人間の意志でコントロールされる運動と食の不適切さによって引き起こされることが多い。たとえば運動不足、過労、運動の偏りや過食、偏食などに起因する違和感で、これは、早期であれば循環を促進することで緩和されやすい。」
 「指圧は、循環の滞りがあらわれている場所(いわゆるツボ)に行うのが最も効果的である。この場所は形態的なものではなく、機能的なものであるから、解剖的に部位を説明することはできないが、全身の皮膚の乾燥、しみ、いつもと違う感覚のある場所、痛み、腫れ、しこりなどを探せば発見できる。東洋医学における経絡は、人間の健康の乱れと取り組んで、全身の生命の営みを支える系統的なつながりを経験的に発見したものであるから、経絡図を参考にしながらツボを探すと、発見しやすくなろう。」


 以上の薄井先生が説いてくださっていることを指針として、自身の手技療法術の実践の事実と東洋医学、鍼灸の学びで得た知識の意味をよく考えてみることを行うと、「東洋医学とはなにか」の一般論がなんとなくではあるが、みえてくるように思える。
 端的には、東洋医学とは、生活過程の乱れからの心身の異常を身体の歪み(経絡、経穴の虚実)としてとらえて整えることで、病へと至らない様に回復させていく術、の過程的構造を究明していくことである。と。

 東洋医学となはにかをそのように捉えてみると、「上工は未病を治し、已病を治さず。」(霊枢)との言も、「霊枢 玉版第六十」での黄帝の問いに対する岐伯の答えも、「東洋医学の本質を語るもの!」と受け止めることが出来るとともに、自身の手技療法術、鍼灸術の実践の、そして東洋医学の学びの指針がえられたように思える。
 ここは、現在、覚え書レベルの捉え方でしかないが、しっかりと深めていくとともに改めて書きたいと思う。
 

 

 
 
 
 

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