鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

「看護学と医学(上巻)」を読む〜弁証法いかに学ぶべきか〜

2016-03-17 23:32:41 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 「武道・武術の諸問題(1)」の[問題15]薩摩示現流「修練の方法」は、いかなる意義をもつものかを問う。で、「絶叫することは頭脳そのものに実力をつけていく(中略)頭脳の働きが良くなるというのは、生理構造上簡単なことである。そもそも口は顔の中にあり、かつそこは脳にほぼ直結しているだけに、大声を出し続けるならば、脳への刺激が見事な位の強烈さとなるものである。だから、大学の弁論部が、海岸で大声を出す訓練は、ただに大声を出せるためではなかったのであり、数年後には見事な頭脳へと変化していったはずのことだからである。」と説(解)いていただいているが、発芽生玄米等の硬いものをしっかりと噛む、噛み続けるということは、この絶叫と同じくに、口をしっかりとかつ強烈に働かせるということであるだけに、脳をしっかりとかつ強烈に刺激してくれるという効用もあるのでは!?と思える。
 しっかりと噛むことの実験を引き続き。と思う。

 さて、表題の「看護学と医学(上巻)(瀬江千史著 現代社)について。そこには、弁証法いかに学ぶべきかが、しっかりと説(解)かれてあると思える。

 「看護学と医学(上巻)」では、科学的な学問体系とはどういうものかを、またその成立の過程的構造である、一般論から現象論、そして構造論へということを繰り返し説いていただいている。
 詳細には「看護学と医学(上巻)」をお読みいただければと思うが、例えば、「歴史をひもとけばわかるように、学問の歩みは一般的に、全体像を描くことから個別の究明へ、そしてそれらをふまえたうえでのあらたなる全体像の形成へと発展するものである。」等と説(解)いていただいている。

 これまで、ここに説(解)いていただいていることを、学問体系の成立の過程的構造=学問的研鑽の方法と捉えていたのであるが、このことは、直接に弁証法の成立の過程的構造であり、とりもなおさず弁証法研鑽の過程的構造なのでは無いか。と思えるようになってきた。
 (弁証法もまた学問体系を持つものである。と考えるならば、これは当たり前のことでしか無いのだから、弁証法を学ぶ大半の方にとっては、「何を今更!」となってしまうかもしれ無いが、ブログ読者の中には自身と同じ低度のかたも幾らか存在するであろうから、敢えて。の今回の記事である。)
 
 そう考えられるようになると、弁証法の学びにとっての中学校の全教科の教科書の論理的な学び直しの必要性、意義がなんとなくではあるがわかるように思えて来、その学びの過程を持たずしての弁証法の学びがいかに無謀なことであるかが、ゾッとする思いとともにわかりかけて来ている。
 引き続き、「看護学と医学(上巻)」にしっかりと学んでいきたい。

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