鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

看護学生の通学に思うこと~看護のアタマとココロ~

2015-10-02 12:35:05 | 看護学・医学
通勤時にすれ違う看護学生達を見ると、今の看護学校では、彼女らに一体何を教えているのか?と暗澹たる気持ちにさせられる。

毎朝の通勤時に、おそらく看護実習のために市民病院へと通う看護学生と思える制服を着た女性達の幾つかのグループとすれ違うのだが、ほとんどどのグループも歩道一杯に(二三人が横に並べば一杯になる狭い歩道である)広がって、楽しそうにおしゃべりしながらの通学?である。

道一杯に広がっていて行き違えないのにもかかわらず、おしゃべりに夢中なのか行き違う人には気付かないが如くで、ぶつかりそうになってはじめてシブシブ道を開けるというのが常態である。

彼女らとしては、厳しい看護実習の合間の楽しいひと時であろうし、天下の公道で自分達がどうして遠慮しなければならないのかとの認識があるのかもしれない。それ以前に、歩道一杯に広がって歩くことが不味いとの認識がないのかもしれない。

しかし、である。小学一年生ですらが上級生に引率されて、整然と歩道の片側を開ける形で列を作って通学しているのに、いずれは看護師になろうとする彼女らがそれで良いわけがないと思える。そして、これは彼女らにとって、道徳心、社会性の欠如という問題に止まらない問題を含んでいると思える。

それは、端的には看護師としてのアタマの働き、働かせかたの問題である。それは一には、対象の構造に見合うアタマの働かせかたが出来ていないということであり、それ以上に不味いことには、対象の構造や他人の思いよりも自身の感情を優先するという感性が育ってしまっているということである。

これは、看護師としてのアタマとココロの働き、働かせかたとしては、大変に不味いことであると思える。事実的端的には、現実の看護の場に於いてのケアレスミスや患者の気持ちを無視しての独り善がりの看護をしてしまう看護師になっていってしまうのでは。ということである。

ここは、鍼灸師に於いても全く同じアタマとココロの問題としてあるのだから、認識論の実力を培うことで、いずれは詳細に説きたいものと考える。

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