「第2章 東洋医学の人体の考え方」は、東洋医学の解剖生理である。と思う。それゆえ、この章の内容とその理解が、今後の東洋医学の学びの土台となって行くと考える。端的にまとめておきたい。
東洋医学では人体を大きく三つの構造として捉える。<気の類><形の類><経絡類>である。
<気の類>は、気・血・津液、精・神。五臓に蔵され、かつ五臓を中心として体内を循行する。
<形の類>は、五臓(六臓)を中心としての六腑、奇恒の腑、皮・骨・筋肉等々の、我々が通常思うところの、所謂、(体内を循環するものを除いた)身体全体である。
<経絡類>は、<形の類>の中で、五臓を中心として、五臓と六腑、奇恒の腑、皮・骨・筋肉等々をつなげて、<気の類>を流す通路である。当初は、血液を流す血管に始まったものが、気の思想や、陰陽・五行論が発展し、支配的になっていくに従って現在の<気の類>の通路へとなっていったものである。
また、この三つの類のそれぞれの機能は、<気の類>は、<形の類>を循行して栄養し、生理機能を維持し生かすものである。
<形の類>は、生きる事そのものの土台となる(体内を循環するものを除いた)身体全体である。が、そのうちの五臓は生理機能の中心であるとともに、精神活動をも主るものであり、六腑は消化吸収を主るものである。
<経絡類>は、<気の類>を巡らせる。そこから病が始まる。病の診断治療の場所である。
以上が、第2章で説かれる解剖生理の大まかなところである。と考える。
改めて振り返ってみると、生理的な統括を行うのと直接に認識活動をも行っている、統括器官としての頭脳の位置付けができていないがゆえに、認識に関わる部分が大きく欠落している。ように思われる。ここは、後生である我々のなすべき事とも思うが・・・・・・。
東洋医学では人体を大きく三つの構造として捉える。<気の類><形の類><経絡類>である。
<気の類>は、気・血・津液、精・神。五臓に蔵され、かつ五臓を中心として体内を循行する。
<形の類>は、五臓(六臓)を中心としての六腑、奇恒の腑、皮・骨・筋肉等々の、我々が通常思うところの、所謂、(体内を循環するものを除いた)身体全体である。
<経絡類>は、<形の類>の中で、五臓を中心として、五臓と六腑、奇恒の腑、皮・骨・筋肉等々をつなげて、<気の類>を流す通路である。当初は、血液を流す血管に始まったものが、気の思想や、陰陽・五行論が発展し、支配的になっていくに従って現在の<気の類>の通路へとなっていったものである。
また、この三つの類のそれぞれの機能は、<気の類>は、<形の類>を循行して栄養し、生理機能を維持し生かすものである。
<形の類>は、生きる事そのものの土台となる(体内を循環するものを除いた)身体全体である。が、そのうちの五臓は生理機能の中心であるとともに、精神活動をも主るものであり、六腑は消化吸収を主るものである。
<経絡類>は、<気の類>を巡らせる。そこから病が始まる。病の診断治療の場所である。
以上が、第2章で説かれる解剖生理の大まかなところである。と考える。
改めて振り返ってみると、生理的な統括を行うのと直接に認識活動をも行っている、統括器官としての頭脳の位置付けができていないがゆえに、認識に関わる部分が大きく欠落している。ように思われる。ここは、後生である我々のなすべき事とも思うが・・・・・・。