鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

「カワイィ〜ッ!💓💓💓」という言葉の背後にあるもの〜人類の精神の歴史のくり返しの大事性〜

2018-06-01 13:23:27 | いのちの歴史・社会の歴史・精神の歴史
 「カワイィ〜ッ!」という言葉の背後にある像について考えた。そのことで四百字詰原稿用紙五百枚に書くべきことのイメージがようやくに明確になってきた、と思える。

 昨夜、駅のロータリーで、十代半ばと思える娘さんが母親(?)を相手にして身振り手振りを加えて話し、「カワイィ〜ッ!」を連呼しながら地団駄を踏んでいる?姿を見かけた。この光景を見かけた自身の思いは「カワイィ〜ッ!」ではなくて「気持ち悪い!」であった。
 なぜにそのような意地の悪い、ひねくれた?感想、思いを持ったのか、といえば自身のアタマの中では、その娘さんの「カワイイ〜ッ!」の言葉の背後に存在する(筈の)像が彼女自身の感情像としての「カワイイ〜ッ!」では無くして、テレビのタレントや漫画・アニメの主人公の「カワイイ〜ッ!」と地団駄を踏んでいる?「カワイイ」姿をイメージして「カワイィ〜ッ!」と地団駄を踏んでいる?自身の姿を見て「カワイイ」となっている自身や周囲(母親?)の姿を観念的に見ての、像であると思えたからである。
 別言すれば、中身=像の無い、より正確には描いている像が自身の感情像ではなく、知識としての像である「カワイイ」を描いての「カワイイ〜ッ!」であると思えたからの「気持ち悪い!」であった。
 
 そのような思いを持っての駅から自宅への帰り道で思ったこと、気づいたことは、自身の書く諸々の文章も、もしかしたら同じことなのではないのか!?ということであった。
 例えば、自身が文章を書くときに、自身のアタマの中には南郷先生(や海保先生、瀬江先生等の尊敬する先生方)が過去の著作で説かれたことが、その言葉が書くことに見合った形でそれなりに浮かんでの、それらを自身で「これはいい!」と思える表現、言葉をアタマの中で見ての文章化であり、いってみれば「スマホ」で文章を打つときに、1〜2文字打てばいくつかの変換候補が表示されての、それらの中から選んでの、自身の像の文章化であるのと同じことなのではないだろうか!?との思いへとなっていって愕然とした。
 これは、南郷先生の(駄目であると)説かれる、「像で考える、像を文章化する。ではなくて、言葉で考える、言葉を文章化する。」ということ、中身としては何も無い文章なのだと思えたからである。

 確かに、自身の思い=像を自身の実力で(オリジナルで)文章化することは、大変なことであり、書きたい「思い」はあるけれども、それをなかなかに文章化出来難い、自身の思いを文章化することに悪戦苦闘ということになって、一行も書き進め無いということになってしまうのであるが、この自身の像の文章化のための悪戦苦闘ということは(それ以前の段階として自身のアタマの中の諸々の、無限の?像を、文章化できる像へと収斂させるということが求められるのであると思うが)、古代ギリシャの時代の人類の精神の発展のくり返しであり、そのようなアタマの中の像を文章化し難い状態での、その像を苦労して文章化していくという過程を人類はもったのであり(おそらくはソクラテス、プラトン、アリストテレスの過程)そのことを、そこから逃げるとこなく正面突破することが「思弁」への過程の原点である「思う」ということなのだと思えた。

 そう考えてみると、南郷先生が『哲学・論理学言論』で、「四百字詰原稿用紙五百枚に書くこと」について、「必ず、自分の頭脳の中に浮かぶ「よしなしごと」を認めていくことが大事である。」と説いていただいていることが、「アタマの中の言葉を文章化していくのではなしに、自身のアタマの中の像をしっかりと文章化していくことが大事である、その実力をこそ培うべし!」と、古代ギリシャの時代の人類の精神の発展のくり返しを!と説いていただいているのだと思えた。

 ようやくに「四百字詰原稿用紙五百枚に書く」べきことのイメージが描けた、と思える。古代ギリシャの人類の精神の発展の過程の原点のくり返しに、全力を尽くしていきたい。二重の意味で「始めは全ての半分」(άρχή ημισυ παντός.)なのだから......。

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