鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

「旧・東概」まとめ(14ー3)〜津液、血の病理と病証を説く前提〜

2015-12-06 20:07:40 | 鍼灸理論・東洋医学
 「気血津液の病理と病証」、「旧・東概」の順序と違えて、「気」を後回しにして「津液と血」から始める。理由は、端的には、わからないことを書いても嘘となる。と思うからである。

 津液と血は、西洋医学・生理学でいうところの体内の水分と血液を、東洋医学で津液と血として捉えたものである。通常、東洋医学では、津液と血が最初からあったかの如くに捉えてしまうこととなるが、言葉としては「宇宙の始まり(太易)→気の始まり(太初)→陰陽気の始まり→天地の始まり→万物の始まり(人間を含む)」と、物質から生命体へと説かれるのではあるが、このことは言葉の上だけの、いわば空理空論であって、現実の人間の解剖生理の究明につながってはいかない。

 しかしながら、弁証法的な唯物論の立場に立っての東洋医学の学びということであるならば、津液と血も、最初からあったものではなくて、誕生して生成発展しての現在があると、五行的には「生長化収蔵」の過程的構造を持つものとしての究明でなければと思う。

 生命の歴史に尋ねるならば、生命体は水と不可分のものとして誕生し、やがて、単細胞となって水分を自身の内部環境として保持することになっていった。それゆえ、生命体が生きる=生命活動を行う上で、体内の水分(=津液)は、必要不可欠のものであり、それを常に量質ともに正常なものとして保つ、水分の摂取と排泄という過程は、単細胞において生きていく上で必須の過程である。
 それゆえ、単細胞においては、水分(=津液)の不足ということは、病という以上の、すぐさま生命の危機につながる一大事であった。

 一方、単細胞においては全てが一つであるがゆえに、滞りや偏りによる病は問題とならない。というか存在し得ない。これが問題となってくるのは、少なくとも単細胞が多細胞化して以降のことである。筈である。

 生命体が単細胞からカイメン体(多細胞体)へと進化して行って、やがて魚類にまで至って、血液(=血)が誕生することとなる。この段階に至り、高度の器官の分化と運動の激化にともなっての、効率的に摂取した外界(食と酸素)を全身へと行き渡らせるための血液(=血)と心臓・血管系が誕生することとなる。
 しかしながら、この段階に至っても、津液と血(=体液と血液)の病の主なものは、その不足であり、滞りや偏りということは、それほど問題にならなかったのではないか、というより、体液の滞りや偏りを起こさないためにもの血液と心臓・血管系の誕生であったのだと思う。

 さて、魚類に至って、体液(=津液)だけでなく、血液(=血)をも誕生させた生命体は、そのおかげもあって、両生類、哺乳類、猿類へ、そして人類へと進化発展していく、いけることとなる。
 
 人間と動物の違い、分水領は、動物の脳の働きとは質的に違う、頭脳活動(=認識)の高度の発展と、そのことと直接的同一性を持つところの本能からの離脱、そして労働することであるが、そのことによって歪んだ運動を行うこととなっていき、ここに至って、体液と血液(=津液と血)に、滞りや偏りが生まれるようになっていく。
 それゆえ、そのことによっての病というものも誕生することとなっていく。また、本能では無く、認識を主体として行動するようになっていった結果として、体液と血液(=津液と血)の不足や消耗というものも、生理的限界を超えることとなっていき、病につながっていくほどになっていく。

 素人的に考えても、以上の様に、津液と血の過程的構造を簡単に、素朴かつ荒削りに、でも踏まえた上で、津液と血の病理と病証は説かれるべきであると思う。

 次回は、「旧・東概」の内容に従って、津液の病理病証から始めたいと思う。

 

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