鍼灸如何に学ぶべきか~科学的鍼灸論の構築のために~

鍼灸の理論と術にかかわる初歩的・基本的な問題を中心に科学的=論理的に唯物論を把持して説(解)いて行きたい、と思います。

下駄で歩く意義~骨と筋肉の区別と連関~

2015-10-13 11:56:16 | 日記
下駄で歩くこと行った。骨と筋肉は一体を実感した。

3連休の間、想定外の出来事もあって、本来の予定とは違ったものになってしまったが、「旧・東概」のまとめの再開と朴歯の下駄を使っての下体の鍛錬は行えたので、自分としては、まあまあかとも思える3連休であった。これが毎回の連休のあり方とすると不味いなとは思えるが。

ところで、朴歯の下駄による鍛錬。当初の目的は下体の骨と神経の鍛錬。であり、そのことによる土台の強化と頭脳の活性化であった。

その成果は、未だしっかりとは実感出来ていないのだが、当初の目的とは違った成果、本当は違うと言ってしまうと少し違うとも思うが、が実感出来ている。

どういうことかと言えば、腰の古傷の張りが改善されて来ている。ということ。昨日、就寝中に、腰の違和感感じ、上体と下体を反対方向に回旋させる腰のストレッチを行ったところ、パキッと矯正音があり、腰の違和感が消えた。

これは、自身では、腰の調子が相当に良い時にしか起こらない現象なので、これは腰の筋肉が緩んでいるのでは?と思い、あれこれストレッチを行ったところ、明らかに、腰の筋肉が緩んだ、良い状態と思えた。

思いあたることは、朴歯の下駄による骨鍛錬(3連休中、毎日、一万歩前後、足を地面に叩きつけるように、あるいは滑る石畳の上を地面を摑む様にして歩いた。)である。

骨と筋肉が、生命の歴史に尋ねれば、本来は一体のものとして誕生したものである。ということに思いを致すならば、骨の鍛錬は、直接的同一性として、筋肉の運動ともなっているのだから。とつなげて考えることができる。と思える。

また、下駄で歩く一歩一歩としては、大した運動でなくても、一万歩の量を重ねることの量質転化と考えると、下体の骨とともに筋肉もしっかりと運動形態におけたのではと思える。

以上を要するに、骨と筋肉とは本来、直接的同一性を持つものであるから、下駄による骨の鍛錬が、直接的に筋肉の運動ともなっていった結果として、腰の古傷の改善があったのではと考えた。ということである。

通常の下駄と違って、朴歯の高下駄は砂利道や滑る石畳の上を歩くことには、足先への全力レベルの意識の集中が必要であるし、それだけの意識の集中をして歩いても、一歩間違えば転倒するということになりかねない。

それだけに朴歯の高下駄は、骨とともに神経をも鍛錬出来る。最高の鍛錬の道具と思える。

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