K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

「優しさ」の分析

2008-10-20 11:15:00 | 論理/思想/理論
Kもそうだが、このブログを見てくれている皆さんも「優しいね」と言われたことはないだろうか。
Kはそのたびに、軽い違和感を抱いていた。
「ほんとに優しいのかな?多分違う気がする」と。

今回はよい機会なので、なぜこの言葉に違和感をもったか、
そして「優しい」ということは何を意味するのかということについて簡単に分析してみたい。

とはいえ、「優しい」というのは感情的な表現なので、
人によって「優しさ」の意味するところは違うし、違うべきである。
そのため、「優しさ」の厳格な定義はできない。

そこで、マックス・ヴェーバーの理念型という方法論的概念装置を使って分析してみようと思う。
知っている人もいるかと思うが、
ヴェーバーは社会学を研究するものなら必ず一度は耳にする偉大な社会学者である。
彼は社会科学の分析において、自然科学の実験的な手法に批判的な立場をとった。
つまり、人間一人一人の主観的行為を自然科学的な「客観的」なデータからは分析できないと考えたのだ。
なぜなら、この手法では、行為者一人一人の行動に生じる意味や動機を、
社会的文脈に基づいて解釈することは不可能だからだ。
そこで彼は論理的に純粋な類型(=理念型)を用い、現実との逸脱を測ることによって社会を分析しようとした。

ここでは理念型の中でも最も有名な、人間の行為の類型を用いてみたいと思う。
彼によると、人間の行為は以下のように類型化される。
①目的合理的行為
目的達成のための合理的手段としての行為。
②価値合理的行為
自らの価値に即して合理的な手段としての行為。
③感情的行為
感情による行為。
④伝統的行為
慣習・習慣による行為。

ここで一般的に「優しい」という言われる行為はどのようなものだろうか。
以下に上記理念型に即して若干の例を挙げつつ、考えてみる。
①優しくしておけば、きっと見返りが期待できる。だから私は○○に優しくする。
②人に優しくすることは私の信念だ。だから信念達成のために私は○○に優しくする。
③今日は気分が良い。だから○○に優しくしよう。
④私は親から人に常に優しくするように育てられた。今ではそれが習慣である。だから私は○○に優しくしよう。

ここで実際に「優しい」といわれている行為が、上記理念型とどれほど逸脱しているかを考えてみる。
そうすると、一般的な「優しさ」とはおそらく②か④に近いということになるだろう。
逆にいえば、①と③は「優しさ」とは逸脱した行為ということになる。

Kの場合、優しさの行為は基本的に①の目的合理性に基づいていた気がする。
とはいえ、計算によって見返りを期待する「積極的な」目的合理性ではなくて、
「ここで優しい行為をすることに損失はない。逆に冷たい行為をすれば、相手との関係を壊すという損失が生じる。だからとりあえず優しくしておこう。」
という「消極的な」目的合理的な考えが、無意識的にしろ働いていた気がする。
おそらく「優しいね」といわれた時に感じた違和感は、この点に原因があるのだろう。


とまあ、良く考えたら、かな~りくだらない分析をしてしまった。(笑)


結論としては真に優しくなるのは難しいってことです。

最新の画像もっと見る