K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

論理至上主義の陥穽

2009-10-12 13:29:08 | 論理/思想/理論
Kは院生になってから論理的思考力・実践力を徹底的に鍛えたし、
おそらくこれからも、その能力をもって生活することになるのだと思う。
世間においても「地頭」を鍛えるというのが一種の流行のように蔓延しているようで、
「地頭」というのは論理的思考力とほぼイコールの関係で語られている。
いわば論理至上主義の時代である。
しかし、だからこそ言いたいことがある。それは、

論理は完璧ではない。

ということだ。
この単純なことに、いわゆるインテリと呼ばれている人ですら気づいていないように思う。

では、どういう意味で論理は完璧ではないのか。
論理はいくつかの論法をもって結論を導く。
論理が合理的推論を導くため唯一無二のツールであるといわれる所以だ。
しかしながら、それには主に二つの落とし穴があると思う。

第一に、情報の選択の仕方によって、異なった結論を極めて説得的に言えてしまう点だ。
この「極めて説得的に」という部分が重要である。
今話題になっている例で、例えば高速道路の無償化を考えてみよう。
これは経済の観点から、あるいは環境の観点から、賛成意見・反対意見が極めて説得的に語られている。
これは双方の採っている情報(データ)が異なることによる。(詳述は避けるが)
だが、その情報の部分に着目せずに、論的展開だけを追うと簡単にどちらかの結論の方に引きずられてしまう。
論理の怖いところだ。

第二に、仮に同じ情報に基づいていても、
その解釈の仕方によって異なる結論を論理的に導き出すことができる。
これも簡単な例を考えてみよう。
例えば、一週間後に鳩○政権の支持率が60%という数字がはじき出されたとする。
このデータに基づいて少なくとも二通りの解釈が可能だ。
「政権発足一か月を過ぎて尚、高い支持率を保っており、
鳩○政権は今後も国民の期待を背負うことになるだろう」
「政権発足一か月を過ぎて支持率が70%から60%までに急落した。
鳩○政権は政策の方向性が正しいかどうか見直さなければならない」
つまり、同じデータから全く異なる解釈を生んでしまう。

したがって、この記事を通じて言いたかったことは、
ある程度の論理的思考力を備えた人ならば、
どのようなことであれ論理的に言うことができてしまうということだ。
(極論すれば、殺人の合法化など、とんでもなくばかげたことですら論理的に言えてしまう。)
だからこそ、論理は完璧ではない。

もちろん問題解決には論理的思考力と合理的推論が必要なのはいうまでもない。
しかし、社会に「解」がない以上、それだけでは成り立たないのが社会科学の難しいところだ。

特に社会問題を扱う仕事の場合、論理的思考力は仕事の前提であっても、
そこで完結しては絶対にならないと思う。
何らかの高い倫理観、言いかえれば強烈な主観が必要なのではないか、
と最近思うようになっている。

まぁ、そんなこといって自分はどうなんだって言われると返す言葉もないですが・・・

頑張ります。

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