今日、日経を見ていたら西水美恵子氏の幸福度に関する批判的な論評があった。
ちょっと面白かったので、少し取り上げてみたい。
常々思うのが、幸福度指標に関していくつかの誤解があるということである。
「そもそも幸せは測れないもの」
これはその通り。どんな幸福度指標を使おうと、完璧に主観的な幸せを測ることは不可能だ。
しかし、幸福度指標の目的は、完璧に幸せを測定することではない。
少々極論すれば、別に完璧に幸せを測定しなくたってよいのだ。
そうではなくて、今まで幸せの尺度とされてきたGDP等指標よりも、
人々の「幸福感」をより正しく示す指標として幸福度があるのである。
だから、幸福度は幸せに対して絶対的な指標ではなく、
あくまでも他の指標との比較の上に成り立つ相対的な指標なのである。
「幸せは目的、経済成長は手段で、それを取り違えてはならない」
ここに関しても、幸福度に対する誤解がある。
まず、幸せが目的というのはその通り。
しばしば手段であるべき経済成長が目的として捉えられてきた背景があるので、
こうした発言が出たのではないかと思う。
そして、批判的な論者は、幸福度指標が手段と目的を取り違えていると論ずる。
しかし、これは誤解である。
幸福度というのは、あくまで目的である幸せを実現するための最適な指標のことを指す。
そして、幸福度指標を操作することで、人々の幸福感を実現しようというものである。
その意味で、幸福度は目的ではなく手段なのだ。
つまり、今までは目的である幸せの手段として経済成長があったのだが、
それを(ある程度)幸福度指標の操作で代替しようといっているに過ぎない。
K自身、「人々が幸せに暮らせる」ということが政策の目的であるべきだと思っているし、
日本のような成熟社会では経済成長による幸せは望めなくなってきていると思う。
(もちろん、ある程度の相関はあるのだが。)
だから、もし優れた幸福度指標が生み出せるならば、幸福度指標の意味は十分あると思う。
問題は、経済成長とどのように折り合いをつけるかというところだが・・・
ここは政策的にも政治的にも難しいところだ。
ちょっと面白かったので、少し取り上げてみたい。
常々思うのが、幸福度指標に関していくつかの誤解があるということである。
「そもそも幸せは測れないもの」
これはその通り。どんな幸福度指標を使おうと、完璧に主観的な幸せを測ることは不可能だ。
しかし、幸福度指標の目的は、完璧に幸せを測定することではない。
少々極論すれば、別に完璧に幸せを測定しなくたってよいのだ。
そうではなくて、今まで幸せの尺度とされてきたGDP等指標よりも、
人々の「幸福感」をより正しく示す指標として幸福度があるのである。
だから、幸福度は幸せに対して絶対的な指標ではなく、
あくまでも他の指標との比較の上に成り立つ相対的な指標なのである。
「幸せは目的、経済成長は手段で、それを取り違えてはならない」
ここに関しても、幸福度に対する誤解がある。
まず、幸せが目的というのはその通り。
しばしば手段であるべき経済成長が目的として捉えられてきた背景があるので、
こうした発言が出たのではないかと思う。
そして、批判的な論者は、幸福度指標が手段と目的を取り違えていると論ずる。
しかし、これは誤解である。
幸福度というのは、あくまで目的である幸せを実現するための最適な指標のことを指す。
そして、幸福度指標を操作することで、人々の幸福感を実現しようというものである。
その意味で、幸福度は目的ではなく手段なのだ。
つまり、今までは目的である幸せの手段として経済成長があったのだが、
それを(ある程度)幸福度指標の操作で代替しようといっているに過ぎない。
K自身、「人々が幸せに暮らせる」ということが政策の目的であるべきだと思っているし、
日本のような成熟社会では経済成長による幸せは望めなくなってきていると思う。
(もちろん、ある程度の相関はあるのだが。)
だから、もし優れた幸福度指標が生み出せるならば、幸福度指標の意味は十分あると思う。
問題は、経済成長とどのように折り合いをつけるかというところだが・・・
ここは政策的にも政治的にも難しいところだ。