K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

大学。学歴。ランキング。

2008-10-03 10:27:04 | 日本情勢
「大学。学歴。ランキング。」

Kの最も忌み嫌う言葉である。


何故か?


答えは単純。人の判断力を鈍らせるからだ。

Kは自分の大学の名前を極力出さないようにしている。
大学の名前を出せばほとんどのケースにおいて知力を認められる。
だがそれはKの知力の評価ではなく、単に大学のブランドの評価にすぎない。
高学歴というレンズを通してKを見ているにすぎない。
大学の名前に頼って知力をアピールするのは最も恥ずべき行為と思う。

しかし残念ながら現実は大学というブランドが強い力を持っている。
特にアジアの人々は必ずといってよいほど大学のランキングを気にする。
例えば、中国人に「何故この大学を選んだのか」と問うと、
ほぼ100%の確率でランキングと答える。

ばかげているとしかいいようがない。

ランキングというのを客観的指標と勘違いしている人が大勢いるが、
これはある決まった指標の下に大学を評価しているにすぎず、
絶対的で客観的な評価であるという保証はどこにもない。
だから、自分にとって一番利益となる環境が
ランキングが一番上の大学であるとはもちろん言えない。
彼らはランキングという曇ったレンズを通じて自分の判断力を凍結させている。


なぜこのテーマを取り上げたかというと、
人々の主体的な判断能力が極端に欠如していることに腹が立ったからだ。
長期的な視野にたって、何が自分にとって必要で、何が必要でないかという判断をすることができない。

それだけではない。

人を観察しない。
ある人がどのような価値を持っていて、どの程度の知力・能力があって、
長所と短所が何かということを主体的に考えられない。
だから最終的に学歴という指標に頼る。
多くのケースにおいて、学歴は単に入試の成績の良し悪しを意味するに過ぎないにもかかわらず。


渡英する前に、あるクイズ番組で、
「インテリ芸能人」「インテリ芸人」と呼ばれる人たちが出演しているのをふと思い出した。
思えばあの時も非常にナーバスになった。
何を指標にインテリといっているのだろうか。

答えは明らか。



学歴、である。

民主主義は普遍的か?それとも西洋的価値に過ぎないか?

2008-10-03 00:01:17 | 世界情勢
昨日、Kの大学の政治学部のレセプションがあって、初めて知り合ったナイジェリアの友達と面白い議論をした。

民主主義は普遍的かどうか?


Kも友達も結論はNoで一致した。
ナイジェリアの友達は民主主義は西洋で生まれ、西洋でしか機能しえない制度であると言っていた。
けれどもKは、結論は共有するものの、民主国家に生きる日本人として、
そこまでは言えないのではないかと思う。


思えば、日本という国は非常に奇妙である。
二度も「奇跡」を経験したからだ。

第一には前にも触れたように明治維新。
第二には戦後復興と民主主義の定着だ。

知っての通り、日本は戦後のほとんどの期間を通じて一つの政党が政治を支配してきたものの、
民主的なシステムは成熟し、一応しっかり機能している。
教科書では、戦後GHQが日本の民主化を支援したとあっさり書かれているが、
外圧による民主化が日本ほど成功した例は他にはない。
韓国やインドのように若干の例外はあるものの、
西洋を除いたほとんどの国では民主主義はうまく機能していないか、
そのようなシステムを持っていないかのいずれかである。


では何故ある国では民主主義は定着するのに、ある国では民主主義は定着しないのか。

専門ではないので全く証拠はないが、西洋を除けば、
仮説的に国民の統合の度合に答えがあるのではないかと思う。

日本では、若干の在日朝鮮人や在日中国人がいるために単一民族国家とは言えないものの、
大多数の国民が「日本人」という同じ民族だという意識を共有している。
この場合、国民の統合の度合が高いといってよいだろう。

しかし、多くの国ではそうではない。
一つの国の中に、多数の民族がいたり、多数の宗教的集団がいたり、多数の人種がいたりする。
言いかえれば、民族・宗教・人種などのラインによって社会が分断されていることがしばしば見受けられる。
この場合、人々は国に帰属意識(アイデンティティ)を持つことが困難となる。

例えばイラクでは自分たちのことを「イラク人」ではなく、
「シーア派ムスリム」「スンニ派ムスリム」「クルド人」と思っている。
この場合、各グループはそのグループの利益になるように動く。
だから、民主的な制度は各グループの利益をまとめるにすぎず、
イラク全体の利益になるような制度としては機能しない。
対照的に日本では、日本人の利益になるように国がどうすればよいのかという点をめぐって
議論を交わすことができる。
ほとんどの人々が、自分たちのことを「日本人」と思っているからだ。

この点に民主主義の利点と欠点がある。
国民の統合の度合が高ければ民主主義は有効に機能しうるが、
それが低い場合は民主主義は非常に脆弱な政治制度となる。
だから多くの国家では、非民主的な制度で国民を抑えているか、
分裂を許容する結果となってしまっている。

ちなみに西洋では話は異なる。
この地域は人々が王権を倒す形で、民主主義が「内発的」に生まれ、
ゆっくりと民主的な制度を発展させてきた。
言いかえれば、例え複数の民族集団や宗教集団を抱えていたとしても、
多くの国民が民主主義によって国を運営することの正統性についてコンセンサスがある。


最後に触れておきたいのが、いまだに民主主義が普遍的だと信じている人が大勢いる。
特にソ連崩壊以降、「地球市民社会」という概念が盛んに叫ばれるようになった。
これは地球のあらゆる国が民主主義や人権といった「普遍的概念」を共有し、
より住みやすい世界を目指そうとするものである。
だが、この概念にはもう少し慎重な検討が必要だ。



若干話はそれるが、西洋中心的思考は日本でも一定の力を持っている。
特にアメリカで学んだ学者にもっとも強い。

学者だけではなく、学生やビジネスマンにも、日本ではアメリカ中心的・西洋中心的な思考が非常に強い。
彼らはしばしばアメリカを唯一の世界と考えているが、ただ単にアメリカを知っているにすぎない。
もう少し自覚的になるべきである。