K巨匠のいかんともなるブログ

K巨匠:英国から帰国後、さらに扱いづらくなった者の総称。
また常に紳士的ぶりつつも、現実には必ずしもその限りではない。

ポピュリズムの政治

2009-12-22 01:32:54 | 日本情勢
大変ご無沙汰しております。
修論がちょっとピークにきておりまして、なかなか更新できない今日この頃です。

それでも今日書こうと思ったのはなぜかというと、
最近の政治に若干の憤りを感じることが多いからです。
というのも、すごくポピュリズム(大衆迎合主義)に寄りすぎていると、そんな気がしているのです。
この前の民主党のマニフェスト変更内容を見ると、その是非は置いておいても
間違いなく来年の参院選を意識していることは明らかです。

当り前のことですが、民主主義の国家では主権は国民にあります。
しかし、その民主主義が効果的に機能するには少なくとも二つの前提があるといって差し支えないでしょう。


第一に、個人の利益の集合が全体の利益とほとんど等価であるという前提です。
簡単にいえば、一人一人が喜ぶことをやることを重ねれば、
国民全体が喜ぶことにつながる、ってなことです。

しかし、そう単純にはいかないのが現実です。
特に国の構造を変えなければならないような今日においては、
国民が憤るようなことも断固として進めなければならないのは目に見えています。
(例を挙げるときりがないので省略しますが。)
つまり、個々の利益≠全体の利益という現状を打破しなければいけないのです。

こうした場合、民主主義は弱い。
なぜなら、民主主義において政治を動かすのは国民であり、
その国民は全体ではなく個々の利益から政治を評価する傾向があるからです。
だから、今の政治は本当に日本を浮上させるのではなく、
近視眼的観点から国民を喜ばせるものに成り下がっている。
これでは日本が全体として成長するはずがない。


第二に、国民が適切にエンパワメントされる必要があります。
なぜなら民主主義の基礎は、政党間の競争にあり、
その政党を国益に合わせて選ぶのは国民だからです。
したがって、俗な言葉でいえば、国民がある程度「頭がよいこと」が
民主主義の政治を効果的に進める前提となります。

特に長期的にみれば、民主党政権になろうと、自民党政権になろうと、
官僚主導から政治主導に変わっていくでしょう。
つまり、官僚主導が一部のエリート主導であるのに対して、
政治主導とは突き詰めれば国民主導ということです。
したがって、国民が国全体のことを考えずに、
政治の「イメージ」に振り回されたり、個人の利益を優先させたりすれば、
おのずと日本の将来は明るいものにはならないでしょう。


今回の政権交代によって、日本が初めてちゃんとした意味での
「民主主義の国家」になったと思っています。
けど、それは実は日本における歴史上初めての経験で、
それがしっかり機能するかについて、上記二点の理由から大変危惧しています。

今では民主主義が金科玉条のように言われていますが、
古代ギリシャの思想では民主政は君主政・貴族政・衆愚政とならぶ政治の一形態に過ぎないと考えられていました。
最近ではチャーチルが「民主主義は、その他の政治形態を除いた、最悪の政治形態である」
と皮肉たっぷりに言ったそうです。

民主主義はしっかり機能しなければ、衆愚政に陥ります。
そうしたことが昔の偉人には分かっていたのでしょう。

政治は国民をなめくさって短期的に喜ばせるようなことをやればいいと思ってる。
そして国民の側も、そんな政治を無批判にありがたいと思っている。
そんなポピュリズムの政治に陥っている状況を見るたびに、
なんだか少し暗い気持ちになってしまいます。

日本のアイデンティティ

2009-11-27 02:43:14 | 日本情勢
全く根拠のない単なる所感なのだが、最近本屋に行ってぼーっと本を眺めていると、
「日本の・・・」「ニッポンの・・・」「ニッポン人だからできる・・・」
などという銘打つ本が多くなってきた気がする。

要はナショナリスティックな内容の本が多くなってきたということだ。

もちろん、右翼的な内容のものというわけではなくて、
日本のこんなところがいいんじゃないか。
とか、
日本人のこんなところが素晴らしい。
とか、
そんなことを強調する内容の本が増えている気がしているのです。

でもこれは裏を返せば、
日本の、もしくは日本人の、ここがいい!
と言わなければならないような社会状況があるのではないかと思うのです。
言いかえれば、そういわなければやってられないような、
自信をなくした状況がこの国に蔓延しているんじゃないか、
そう思ってしまうのはただの杞憂だろうか。


けど、面白いことに、こうした状況は日本だけじゃない。
他の先進国にも見られる現象なのです。

例えば、イギリスには少し前からBritishness(イギリス人性)という言葉が流行っています。
これはそもそも国の違うイギリス人の中に、
(周知の通りイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランド)
同じような文化的特性があるのではないか、ということを模索する運動だといえます。
そのことによってイギリス人の「統一感」を増そうというわけです。

同様の状況はドイツやフランスにもあります。(言い方は忘れましたが・・・)

ただ、これらのヨーロッパの国々でこうした言葉が流行った背景には、
ヨーロッパ諸国が数多く抱える移民への嫌悪感があります。
つまり、Britishnessを強調することで、
「あんたらよそ者とはちがう」ってことを暗に言いたいわけです。


しかし日本の場合は違う。
日本の抱える移民人口はヨーロッパの先進国に比べてはるかに少ない。
また日本は歴史的に他国から侵略を受けなかったために、
民族的な均質性が非常に高く、自らのアイデンティティを模索する必要がない。
なのに何故、今自分たちの「すごさ」を誇張する必要があるのか。

それは今までアジアひいては世界をリードしてきた自信と、
そうした地位を失いつつあることの間に生じる矛盾があるのではないかと思うのです。

これから日本のプレゼンスは間違いなく下がる。
そして、そんな事実を受け入れられない日本人がいる。
だから「おれたちはすごいんだ」と声をあげて言わなければならない。
そんな矛盾が私たちの間で蔓延している気がするのです。

ただこうした状況に対して「内向き」になるのは非常に危険だと思うのはKだけでしょうか。

こんなときこそ、まず外をみて、世界をみて、
何が足りないのか、何がダメなのかを逃げずに見つめないといけない気がしています。


・・・


今回の記事はKのただの戯言でした。

「体育会系」は既に時代遅れではないか

2009-11-02 18:58:22 | 日本情勢
体育会を否定するつもりはないが、、
もし体育会の文化を企業の人事制度に持ち込むならば、それは既に時代遅れだ。
おざなりだが、今回は改めてこのことを主張したい。

まず本題に入る前に、体育会系企業とは何かについて考えておきたい。
様々な特徴があるかもしれないが、この記事では以下の二点を重要と考える。
①上司に絶対的な権威があり、部下は盲心的に命令を実行するという、絶対的なヒエラルキー構造
②成果を仕事の「質」ではなく「量」によって評価する風潮

実はこの二つの特徴は、日本の伝統的かつ極めて特殊な人事制度である「終身雇用制」に関連がある。

まず最初の特徴であるヒエラルキー構造は、
人材の流動性を極小に抑える終身雇用制によって温存されてきたといってよい。
終身雇用制は人材を一生雇うことを前提とするために、中途採用の供給を限りなく減らす。
言いかえれば、会社を抜けるということの従業員側のリスクを最大限高めるということだ。
だからヒエラルキー構造の下で従業員に理不尽な処遇をしているとしても、
人が流出するという企業側のリスクは最大限抑えられていたといえる。

また一生雇用が保証される終身雇用制においては、
従業員が仕事の成果、すなわち「質」にこだわるという風潮が醸成されにくい。
それよりも、むしろ上司に気に入られることが第一義も目的となり、
そのためには体育会系で培った非合理的な努力、
すなわち「量」が、有効な一手段であったことに疑いはないだろう。

確かに、既存の経営を続ければ業績を伸ばすことのできた数年前までは良かったかもしれない。
だがグローバル化の進む中、体育会的人事制度は既に時代遅れで、
中長期的にみれば確実に崩壊するだろう。
逆にこれらの制度を温存すれば、企業は確実に衰退に向かう。

理由は簡単で、体育会的人事制度では企業が優秀な人材を集められなくなるからである。

今まで盛んに言われていることだが、終身雇用制は崩れかけている。
グローバル化の中で競争が激化すれば、企業はより優秀な人材を雇い続けなければならないが、
新規人材を雇うにはある程度の雇用カットをせざるを得ないからだ。

終身雇用制が崩れていく中で、体育会系企業にどのような示唆があるか。
第一に理不尽なヒエラルキー構造にうんざりした優秀な人材は企業を抜けることをためらわなくなる。
あらゆる企業が優秀な人材を欲するからだ。
例えば外資系企業は、グローバル化の中の規制緩和のトレンドに乗って急速に増え、
日本人材市場における存在感を増している。
彼らは即戦力を求めているので、実力があれば中途でも採用することが多い。
つまり、優秀な人材ならば、同一の企業に一生勤める必要はない。

第二に仕事を「質」で評価しない場合、当然ながら企業の競争力は落ちる。
それだけでなく、評価制度に不満を感じればさらなる人材流出が起こる。
特に注目すべきは女性の動向だ。
男性よりも優秀な女性は多いが、やはり生物学的に体力では劣る。
したがって、少なくとも中長期的には、評価を「量」ではなく
「質」で評価するところに優秀な女性の人材が集まるようになる。
言うまでもなく人口の半分は女性なので、
優秀な女性の雇用を確保できない企業はやがて競争力を失う。
当然、セクハラが公然と認められる体育会的文化は、グローバルスタンダードになりえるはずがない。

したがって、グローバル化が進み、終身雇用制度が崩壊に向かうにしたがって、
①ヒエラルキー構造と②「量」の人事制度に依存する、
体育会系の人事制度は完全に時代遅れになる。
高まる人材の流動性に対応できなくなるからだ。

逆にフラットかつ成果主義の企業は競争力を強めるだろう。
フラットで誰もが意見を述べることができれば、
先行きの分からない時代でのイノベーションを起こしやすい。
また成果主義を採ることで、優秀な人材を積極的に確保することができる。


労働者の視点から言えば、中長期的にはこうした変革に対応できる人材として育つ必要がある。
つまり、人材の流動性が高くなる中で、
いつでも転職できるように自分の名前の後ろに値札がつくように努力する必要がある。
それはよりよい待遇を求めるキャリアアップの意味でも、
リストラなどに備えるリスクマネジメントの意味でも重要である。
つまり、よくもわるくも、いつでも変えのきく企業の駒になっていてはこれから通用しない。
そのことを踏まえた上で、自分が何を目指すのかということを、
日本だけでなく世界レベルで考えることが、これから求められるのではないだろうか。

日本人の位置

2009-03-23 17:51:55 | 日本情勢
アジアの人たち(特に中国、韓国)と歴史的・政治的議論をすると
大概フラストレーションがたまる。

その理由は主に二つある。

一つ目は、彼らが受けている愛国心教育による。
そもそも社会科学というのは、①自分の価値観を認識できるかどうかと、
②「当たり前」にいかにメスを入れられるかということにかかっている。
しかし、愛国心教育というのは人を盲目にさせる効果を伴う。

例えば歴史問題を例にとると、彼らは時に、
「我々は歴史を知っているが、彼らは歴史を誤解している」という。
しかし、これは全くの思い違いだ。
歴史というのは「事実」ではなく、「解釈」だ。まずこれを認識しなければならない。
どういうことかというと、私たちが習う歴史というのは、基本的に国家が作ったものだ。
それは中学・高校の教科書とカリキュラムが国家によって作られ、
その通りに私たちに教え込まれることからも明らかだ。
だから、私たちの知っている歴史というのは「事実」ではなく、
国家が国家の利益にかなうように「解釈」したものにすぎない。
もし歴史が「事実」だとしたら、全世界の人々が共通の歴史を共有して然るべきである。
(もちろん、そうでないのは一目瞭然)

国家が解釈する歴史というのは国家形成と国民統合に非常に重要な役割をもつ。
中国・韓国では第二次世界大戦が現代国家形成の契機であるので、
歴史教育における第二次大戦の比重は非常に大きい。
それに比べて、日本では第二次大戦というのは一つの出来事にすぎない。
「第二次大戦に勝った我々に誇りをもて」とはいえても、
「第二次大戦に負けた我々に誇りをもて」とはいえないだろう。
だから、日本人の第二次大戦に対する意識は非常に希薄だ。

ここで問題になるのが、愛国心教育の役割だ。
愛国心教育の一つの役割は、
国家が「解釈」した歴史を「事実」として国民に押し付けることによって、国民統合を図るということだ。
私たちの習ってきた歴史が、唯一で絶対的に正しいものであり、
他国は歴史を歪曲しているという「認識」を私たちに押し付ける。
結果として、愛国心教育を受けた学生はどんなに優秀であっても、
自分たちの歴史に批判的になれることはまずない。
言いかえれば、上記の二つの能力、①自分たちの価値を認識し、
②「当たり前」を批判することができなくなってしまっている。
だから、Kのような研究者にとって、
自分たちの位置を把握しようとしない彼らと議論することがバカバカしく思えてしまう。


フラストレーションの二つ目の理由は、Kを含む日本人の自意識自体にある。
日本という国は150年前から常に西洋を追いかけ、追い付こうとしてきた。
現在に至るまで、学ぶべき対象としてアジアにはほとんど目もくれなかったといっていい。
だから、日本人の意識のどこかには、欧米に対する憧れとアジアへの蔑みの感情がある。
例えば、ある日本人が外国人に英語で話しかけられたとしよう。
多分その人はおどおどして、何とか英語を話そうとする。
けれど、それが韓国語や中国語の場合には、
「ここは日本なんだから日本語で話せよな」という態度に出る。

一方アジア側から日本を見る意識というのは、ちょっと違う。
自尊心の強い彼らは認めないだろうが、おそらく羨望とそれに対する反発の意識が混在している。
だから、日本製品や日本文化を愛する一方で(例えば日本のアイドルグループやアニメはとても有名)、
強烈な反日運動が起こったりする。
これは、日本の米国に対する感情と若干似ているところがある。
(アメリカ死ねとか言っておきながら、洋楽にハマっている人など笑)

日本で上記のような現象がアジアに対して起きないのは、
アジアに対する優越意識からと、学ぶべき対象としての無関心から来ているように思う。
正直、こうした感情からKも完全に免れていない。
だから、彼らと政治的・歴史的議論になると、「何をぬかすか、貴様ら」と、感情的になることがある。
こうした感情は英国人に対しては絶対に持たない。


この記事を通じて何が言いたかったかというと、
自分たちの位置に批判的になることがいかに大事かということだ。
私たちの「当たり前」は決して彼らの「当たり前」ではない。
これは異文化理解またはあらゆる分析において、基礎となるものであると思う。

これはひどい。

2009-02-17 04:16:20 | 日本情勢
ひでえ、中川財務相・・・


酔っ払ってたのかどうかは知らないけど、
このニュース世界に配信されてるよ・・・


しかもよりによってG7の記者会見で・・・


あきれて批判する気にもなれない。。。


本当の本当に、まじでひどい。

英語による授業?

2008-12-23 11:48:43 | 日本情勢
日本のニュースをインターネット見ていたらこんな記事が目に入った。
「13年度から高校において英語で授業」
どれほど日本でニュースになっているのか分からないけど、気になったので簡単に私見を述べてみることにする。
(ちょっとニュースで読んだだけなので、もしかしたら若干間違った情報を基に議論をしているかもしれないけど、その場合はご容赦を。)

そもそも、日本の官僚制の議論は全くもって的外れなことが多いので、あまり批判ばっかりしたくないのだが、今回ばかりは文科省はかなり本末転倒なことをしたなと思う。新学習指導要領の実行可能性についてかなり疑問があり、おそらく成功しないだろう。

そもそも目的は「使える英語」の育成、すなわちコミュニケーション能力の向上にあるらしい。おそらく目的の方向性は間違っていない。日本人の学生のスピーキングやリスニングの能力ははっきりいって相当ひどいものがある。一流の大学を出ても、国際的な交渉や議論ができる学生は一握りしかいない。これは他の国と比べて非常に特異であり、日本の国際的なプレゼンスを下げかねない。だがこの指導要領には、以下の点について問題がある。

第一に、コミュニケーション能力に対するインセンティブをいかに与えるのか分からない。日本における英語の勉強は基本的にテスト重視の形をとっている。「優秀」といわれる学生たちは、各レベルの入学試験にむかって勉強せざるを得ない。しかし、その試験が文法や読解重視である以上、コミュニケーション能力向上のインセンティブは一定以上に達するとは考えがたい。一方で、英語を苦手とする学生は授業が英語化することをいかに感じるだろうか。おそらく余計英語から離れていってしまうのではないかと思う。

第二に、教室の授業でほんの少しの英語を使うことが「使える英語」育成につながるのかよく分からない。そもそも「使える英語」とはどのレベルを指すのかを定義しないまま、感覚だけで「使える英語」といっている気がする。ただ単に、自己紹介ができて、マクドナルドで買い物ができるのが「使える英語」といえるのか。いえないのなら、教室の授業でどのようにそれ以上のレベルに達するのか。非常に疑わしい。

第三に、日本人自体が英語を苦手とするので当たり前なのだが、英語教師がしっかりコミュニケーションを指導できるのか、極めて疑問だ。ニュースで読んだ限りでは無理なら「ページをめくって」という簡単なことからでいいという。それで本当に意味があるのか。そこまでひどくないにしても、しっかり正しいスピーキングやリスニングを指導できるほどレベルの高い教師がどれほどいるのだろうか。

結論としては、日本の指導要領の変更は、語学のインセンティブ向上という最も重要な要素をおざなりにして、表層の機能だけを変更しようとしている。しかし、問題は学生のインセンティブがコミュニケーション能力に向かわない社会的な構造にある。インセンティブがなければ、語学は成長しない。文科省には数々の入試を経験してきたエリートの官僚もいるだろうに、なぜこんな基本的なことが分からなかったのか、少し情けなく思う。

大学。学歴。ランキング。

2008-10-03 10:27:04 | 日本情勢
「大学。学歴。ランキング。」

Kの最も忌み嫌う言葉である。


何故か?


答えは単純。人の判断力を鈍らせるからだ。

Kは自分の大学の名前を極力出さないようにしている。
大学の名前を出せばほとんどのケースにおいて知力を認められる。
だがそれはKの知力の評価ではなく、単に大学のブランドの評価にすぎない。
高学歴というレンズを通してKを見ているにすぎない。
大学の名前に頼って知力をアピールするのは最も恥ずべき行為と思う。

しかし残念ながら現実は大学というブランドが強い力を持っている。
特にアジアの人々は必ずといってよいほど大学のランキングを気にする。
例えば、中国人に「何故この大学を選んだのか」と問うと、
ほぼ100%の確率でランキングと答える。

ばかげているとしかいいようがない。

ランキングというのを客観的指標と勘違いしている人が大勢いるが、
これはある決まった指標の下に大学を評価しているにすぎず、
絶対的で客観的な評価であるという保証はどこにもない。
だから、自分にとって一番利益となる環境が
ランキングが一番上の大学であるとはもちろん言えない。
彼らはランキングという曇ったレンズを通じて自分の判断力を凍結させている。


なぜこのテーマを取り上げたかというと、
人々の主体的な判断能力が極端に欠如していることに腹が立ったからだ。
長期的な視野にたって、何が自分にとって必要で、何が必要でないかという判断をすることができない。

それだけではない。

人を観察しない。
ある人がどのような価値を持っていて、どの程度の知力・能力があって、
長所と短所が何かということを主体的に考えられない。
だから最終的に学歴という指標に頼る。
多くのケースにおいて、学歴は単に入試の成績の良し悪しを意味するに過ぎないにもかかわらず。


渡英する前に、あるクイズ番組で、
「インテリ芸能人」「インテリ芸人」と呼ばれる人たちが出演しているのをふと思い出した。
思えばあの時も非常にナーバスになった。
何を指標にインテリといっているのだろうか。

答えは明らか。



学歴、である。

個人情報という怪物

2008-09-20 20:33:45 | 日本情勢
日本人は個人情報の漏えいに対して非常にセンシティブだ。

この事実は、例えばmixiとfacebook・中国のSNSを比べてみると分かる。

mixiには個人の写真を載せる人は稀だが、その他のSNSはそうではない。
ほとんどの人が自分の写真を載せている。

その訳を友達に聴いたのだが、ほとんどの人が個人情報のことを問題として見ていなかった。
むしろ、彼らにとっては自分のサイトに写真を載せないことの方が奇妙に映るらしい。

日本における個人情報というのはそもそも二通りある。
第一にそれ自体で個人を特定できるものであり、
第二に複数の個人情報が組み合わさることで個人が特定できるものだ。

写真はそれ自体で個人が特定できるケースは多くはなく、
ほとんどは後者のように名前等の情報と合わさって個人情報となる。

ロンドンから帰ってきて、一緒に行った友達は自分のサイト(たぶんSNS)に写真を載せるという。
彼らにしてみれば当然なのだが、Kは名前を載せるのはやめてくれと頼んだ。
その理由を説明するのには結構骨が折れる。
個人情報の意識に関しては、完全に文化が違うといっても過言ではない。

しかし一つ気づいたのは、個人情報が漏えいすることが何故まずいのかについて、
多くの日本人は知識がないのではないか。
もちろんKも様々な詐欺事件等について人並みの知識はあるけれど、
個人情報がどのように悪用されて、どこまでの被害を及ぼし、
その構造はいかなるものであるのかについて、全くと言ってよいほど無知だ。

ただ多くの日本人は個人情報漏洩という未知の怪物について怯えている。
古い言葉で表現するなら、「滑稽」といったところか。

なぜ日本は経済大国となれたのか(後編)

2008-09-11 04:27:43 | 日本情勢
この前は途中で切ってしまってどうもすみません。

では続編を書こうと思います。
トピックは「なぜ日本は経済大国となれたのか」

はっきり言って、分からないし、
分かったとしてもそれをブログで紹介しきれるとは思えません。
なので、ここでは簡単な説明にとどめます。(またそれがKの理解の限界でもある。)


では、まず最初に高度経済成長から。

大まかにいって、これを説明するには二つの立場がある。

一つ目は、高度経済成長を市場の成功と見なす考え方だ。
50年代から60年代の日本は大量消費・大量生産社会だった。
それを象徴するのが3種の神器というキャッチコピーだ。
(50年代はテレビ・洗濯機・冷蔵庫、60年代にはカラーテレビ・クーラー・自動車)

なので、企業は製品を作れば作るほど売れた。
その利潤を設備投資に回して、労働者が潤った。
また労働者はマイホーム購入などのために貯蓄をしたので、
投資の源泉があふれるようになった。

また、高度経済成長は企業の技術革新をもたらし、
結果として日本製品は海外にも受け入れられるようになっていった。
(ソニーのトランジスタラジオは技術革新の好例)


もう一つの見方は、高度経済成長を政府の成功と見なす考え方だ。
この時期、政府は公共投資を拡大するとともに、金融緩和と減税を行った。
そのため消費者の可処分所得が増大し、内需が拡大することとなった。
さらに産業別計画や成長目標を政府が示すことによる、
「緩やかな計画経済」によって日本は成長を実現することができた。


だが同時に忘れてはならないのは、国際関係が日本の成長を規定したという事実である。

日本が戦後一貫して成長したというのは事実ではなくて、
実際は朝鮮戦争による特需が契機であった。
朝鮮戦争によってある程度の外資を貯え、
それを元手に原材料を輸入し、加工して輸出するという加工貿易を推進することができた。

また高度経済成長期は世界的に好景気であった。
したがって、西側陣営にとどまったことにより、
西側諸国との貿易の利益を甘受することができた。


とまあ、ここまで高度経済成長の要因を概観してきたわけだけども、
高度経済成長はオイルショックで崩れることになる。

オイルショックは日本では否定的に語られることが多いけれども、
実はオイルショックによって省エネ産業が発達し、
日本の競争力が強化されたという側面もある。

その後に安定成長を実現できたのはオイルショックによる教訓であるといっても
過言ではないと思う。


がしかし、プラザ合意を契機に日本経済はバブル景気に突入する。
それは株価と地価の高騰をもたらし、結果として、
日本の経済成長の停滞を招くのである。

なぜ日本は経済大国となれたのか(前編)

2008-09-04 10:49:24 | 日本情勢
この前も書いたのだが、この大学にいる日本人は少ない。

英語だけを学びに来ている人はちらほら見かけるけれども、
Kと同じように正規留学生として来ている人には未だに会わない。

なので、友達からしばしば日本に関する質問を受ける。

漫画とは?
歌舞伎とは?
日本の会社の特徴は?
日本の政治はどうなるのか?
などなど。

日本に来る前にある程度勉強していたので、
基本的には答えに困ることは少ない。


だが、一つだけうまく答えられなかった質問がある。
それは、

「なぜ日本は経済大国となりえたのか?」

という問いである。この問いは言い換えると、

「日本は規模として大国でないにも関わらず経済成長できた一方で、
なぜ他の国々ではことごとく失敗するのか?」

という非常にファンダメンタルな問いでもある。

困った。

はっきり言って、分からないのである。


確かに、日本は衰退しつつあるとはいえ、GDPでは世界第二位を誇る経済大国である。
この成功を考えるためには、まず高度経済成長を考察しなきゃいけない。
これに関しては、単純化すれば基本的に二つの立場があるといってよい。


あーでも書いている時間がない~。
また次回!