わたしは六百山

サイゴンでの365日を書き直す 

フォー ベトナム便り 92

2006年07月18日 | 日本語教師
こちらv-603.
意思波について、vietさんからコメントをいただきましたが、私自身はっきりそれを説明できるわけではありません。でも、私が思うのは、言葉とかまなざしとか身振りとか、そういう五感で感じるものの基層にあるもので、人と人との相性とか縁、あるいは気とか、そういうものとはちょっと違って、誰もが持っていて、それはどんな個体にもあるけれど、人間についていえば、ほとんど使われていないため持っていることすら忘れられているもの。

たとえば、夫婦の間ではほとんどこれを使わなくてもやっていけますし、北朝鮮とのごたごたなどでも使われることはありません。それらは、言葉と表情そして行動で日々の意志は充分に伝えられます。
それがうまく相手に伝わらないのは、多くの場合、その原因は単純で、自分の都合を優先させた時ではないでしょうか。
ここには、意思波の出番はありません。

そういう、意志や行動あるいは情報の伝達は滞りなくても、肝心な何かが伝わって行かないのは、意思波が出ていないか、出ていても、相手がそれを感じ取る受信機を持っていないか、持っていても同調させていないか・・・。

実はこれは、日本語を教えていて学生との間で感じられたことです。
今の私の教師としての仕事は、どちらかといえば、自分自身の損得は考えなくてもいい状況といえます。つまり、学生達に対して私は私の都合を(利益を)考えずに向かい合うことができます。
いろいろ煎じ詰めれば皆無というわけではないでしょうが、今まで私が過ごしてきた人間関係の中では、もっとも自分を捨てて相手と接触できる時空間だと感じています。
そんな中で、この意思波は、表面にある汚れがふき取られた後に、なんとなく見えてきた模様というようなものなのです。

私は思想家でも哲学者でもないので、叱られることはないだろうと思って、たいして深く考えたわけでもないのに勝手なことを書いています。
外国での教師というような仕事は特異なものなので、こんな感じを持ったのかもしれません。
だれかが作り損ねて捨てた瀬戸物を地面の中から拾い出して、「古伊万里だ」と騒いでいるようなものかもしれません。

そんないいかげんな教師のところに、おとといの日曜日、朝10時ごろ、
「先生、これ、私が作りました。食べてください」
と言って、大学生のCさんが、スーパーの袋に入った何やらをバイクにぶらさげて持ってきました。
「用事がありますからすぐ失礼します」といって帰って行きましたが。それは、タッパーに入ったスープ(熱い)と、紙の皿に盛られた麺と牛肉、それに香草、薬味のねぎ、レモン、とうがらし(太い)、そしてカットした玉ねぎでした。
つまり、ベトナムの代表的な食べ物フォーの、スープと具でした。
さっそく、ホテル、といってもここは、間借りですから・・、のガスと鍋を借りてフォーを作って(実際は全部お手伝いのお姉さんにやってもらった)丼に移して食べました。
店で食べる味とはふた味ぐらい違う、塩味がおいしいフォーでした。

こんなこともあるのですが、これは意思波が作用したわけでもなんでもありません。
単純に、これは彼女の好意です。
カム・オン ニュウ(Thank you very much)Cさん。


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