「徒然草第十三段」『ひとり、燈のもとに文をひろげて』
「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」。
一人、灯のもとに本を広げて、昔の人を友にすることほど楽しいことはない。
「文は、文選(もんぜん)のあはれなる巻々、白氏文集(はくしのもんじゅ)、老子(らうし)のことば、南華(なんくわ)の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり」。
広げた本は古代中国の文学の数々だ。唐の詩人、白楽天の詩文集や春秋戦国時代の『老子経』、『荘子』。日本の文章博士(もんじょうはかせ)たちが書いたものにも、昔のものには趣き深いものがある。
兼好法師は知識人であった。古代中国の漢文を読むことができた。日本においては第二次世界大戦まで知識人と言われた人々は漢文が読めた。漢文が読めるということが知識人の常識だった。明治の知識人、夏目漱石は漢文や英語が読めた。
東アジア世界には共通な文化的紐帯かある。その一つが漢字である。日本、モンゴル、満州、朝鮮、ベトナム、チベット、西域といった地域である。これらの国々では漢字が通用する。儒教や仏教の文化がある。古くは律令がこれらの地域にはあった。
日本は中国文明の影響下に国家形成をしてきた。中国文化を受け入れることによって日本古代国家は成立している。奴の国王が奴隷を貢物にして後漢の皇帝に挨拶に行った。後漢の皇帝、光武帝はよく来てくれたと「漢倭奴国王」という金印を貰って帰ってきた。このようなことを冊封(さくほう)といった。このような政治体制があったことによって漢字が日本に伝わってきた。
日本は絶えず外国の政治体制の影響下に新しい政治体制が成立すると同時に文化の影響を受けてきた。戦後日本は圧倒的にアメリカの政治体制の影響下に新しい日本を建国してきた。だから戦後日本の知識人とは英語の読める人であった。日本古代、奈良時代のエリートたちが遣唐使として中国に行ったように戦後日本のエリートたちはフルブライト奨学金を得てアメリカ留学をした。
兼好法師もまた古代中国の漢詩文を読み、教養を身に着けた人だったのであろう。