醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1191号   白井一道

2019-09-20 11:09:29 | 随筆・小説



    徒然草十九段 『折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ』



 「折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ。」。

 季節の移り変わっていくことは特に、ものごとに情趣を表してくれる。

 「『もののあはれは秋こそまされ』と人ごとに言ふめれど、それもさるものにて、今一きは心も浮き立つものは、春のけしきにこそあンめれ。鳥の声などもことの外に春めきて、のどやかなる日影に、墻根(かきね)の草萌え出づるころより、やゝ春ふかく、霞みわたりて、花もやうやうけしきだつほどこそあれ、折しも、雨・風うちつづきて、心あわたゝしく散り過ぎぬ、青葉になりゆくまで、万に、ただ、心をのみぞ悩ます。花橘は名にこそ負へれ、なほ、梅の匂ひにぞ、古の事も、立ちかへり恋しう思ひ出でらるゝ。山吹の清げに、藤のおぼつかなきさましたる、すべて、思ひ捨てがたきこと多し」。

 「ものの情趣が極まるのは秋だ」と人々は言っているけれども、確かにそうかもしれないが、今一番に心が浮き浮きするのは春の景色じゃないだろうか。鳥の鳴き声ひとつとってみても春らしく、長閑な陽ざしに、垣根の下草が伸びだすころから、いくぶん春らしくなり、霞がたなびき、花がようやく咲きだすようになってくると、折しも雨や風の日が続き、心配する日が過ぎていく。青葉が茂るようになるまで、すべてに、ただ心のみを悩ます。「さつき待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」と歌に詠まれているように花の香と言えば、花橘であるが、梅の花の匂いには昔の事も偲ばれ、愛おしく思い出される。山吹の清々しさ、藤の花の頼りなげにゆれる姿すべて捨てがたいものがおおい。
 
 「『灌仏の比、祭の比、若葉の、梢涼しげに茂りゆくほどこそ、世のあはれも、人の恋しさもまされ』と人の仰せられしこそ、げにさるものなれ。五月、菖蒲ふく比、早苗とる比、水鶏の叩くなど、心ぼそからぬかは。六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるも、あはれなり。六月祓、またをかし」。

 花まつりや加茂神社の祭、若葉の頃の梢が涼しげに茂っていくことほどこの世の美しさも人への恋しさもつのるものだと世間が云うのも最もなことである。五月、菖蒲が咲くころ、早苗取る頃になると水鶏が戸を叩くように鳴き始めるとどこか心寂しく感じられないだろうか。六月の頃、貧しい家にも夕顔が白く咲くのが見え、蚊遣り火がくすぶっているのも情緒がある。夏越祓もまた趣きがある。

 「七夕祭るこそなまめかしけれ。やうやう夜寒になるほど、雁鳴きてくる比、萩の下葉色づくほど、早稲田刈り干すなど、とり集めたる事は、秋のみぞ多かる。また、野分の朝こそをかしけれ。言ひつゞくれば、みな源氏物語・枕草子などにこと古りにたれど、同じ事、また、いまさらに言はじとにもあらず。おぼしき事言はぬは腹ふくるゝわざなれば、筆にまかせつゝあぢきなきすさびにて、かつ破り捨つべきものなれば、人の見るべきにもあらず」。

 七夕まつりほど艶めかしい祭りはない。しだいに夜の寒さが感じられ始めるにしたがって雁が渡って来て鳴き始める。萩の下葉が色づいてくると、早稲を刈り取り、干すことなどが始まる。取り扱う仕事が多いのは秋が一番だ。また台風の朝ほど情趣がある。書き続けるとすべて源氏物語や枕草子などに言い古されてしまったことになるが、同じことをまた今更に言ってはならないと言うことでもない。同じようなことを言わないでいると腹ふくるることになるので書いたが、筆に任せてつまらないことだと破り捨てるべきものなので人に見せられるようなものではない。

 「さて、冬枯のけしきこそ、秋にはをさをさ劣るまじけれ。汀の草に紅葉の散り止りて、霜いと白うおける朝、遣水より烟の立つこそをかしけれ。年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへるころぞ、またなくあはれなる。すさまじきものにして見る人もなき月の寒けく澄める、廿日余りの空こそ、心ぼそきものなれ。御仏名(おぶつみょう)、荷前(のさき)の使(つかひ)立つなどぞ、あはれにやんごとなき。公事ども繁く、春の急ぎにとり重ねて催し行はるるさまぞ、いみじきや。追儺(つゐな)より四方拝(しほうはい)に続くこそ面白けれ。晦日(つごもり)の夜、いたう闇きに、松どもともして、夜半過ぐるまで、人の、門叩き、走りありきて、何事にかあらん、ことことしくのゝしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂(たま)祭るわざは、このごろ都にはなきを、東のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」。

 さて、冬枯れの景色は秋の景色に劣るものは何もない。川岸の草原に紅葉の葉が散りつもり、霜が白く輝く朝、遣水から水蒸気が立つことほど驚くことはない。年の瀬がせまり、人々が新年の準備で急いでいる頃もまた趣きがある。驚嘆するものとして見る人もいない寒さに凍り付いた澄み切った月、二十日過ぎの空にはどこか心細いものがある。清涼殿では三世諸仏の名を読み上げて一年の罪障を払う法会、御仏名(おぶつみょう)が行われ、諸陵墓に奉幣する荷前(のさき)の使(つかひ)が出発するなどと身の引き締まるお思いがする。公の行事がいくつも執り行われる。新春の忙しい時に重ねて行われるさまほど大事なことはない。十二月の晦日、宮中で行われる鬼祓いの儀式、追儺(つゐな)より正月元旦の早暁、天皇が清涼殿の前庭で天地・四方・属星・山陵を拝し、五穀の豊穣、天皇の位がいつまでも続くよう祈る四方拝(しほうはい)に続く時期こそ意義深い。晦日の夜、真っ暗の中に松明を灯して夜中過ぎるまで人家の戸を叩き、走り、歩いて何事であるかのように大業に大声をあげる。足が空に惑うかのようだ。明け方になるとさすがに静かになっていくことこそ、年の名残も心細く感じられる。亡くなった人の亡霊が訪ねて来る魂(たま)祭は、このごろ都では行われなくなってきているが関東地方ではまだ行われていることに意味深いものがある。

 芭蕉が季節の言葉、季語を発見した。万葉の時代から季節の言葉はあった。大伴家持は春愁三首といわれる季節の歌を詠んでいる。
「春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影にうぐひす鳴くも」、
「我がやどのい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも」、
「うらうらに照れる春日に雲雀上がり心悲しもひとりし思へば」と春の愁いを詠んでいる。「春愁」を発見したのは大伴家持のようだ。しかし「春愁」が春の季語として定着するのは芭蕉以後のことだ。
 和歌は確かに季節を詠っている。しかし季節を詠うことが和歌ではない。「春の愁い」は和歌を詠むことによって発見された。和歌を詠むことなしに「春愁」を発見することはなかったであろう。
 家持は一人、春の日に言葉を苦吟していた。自分の気持ちを分かってくれる友人や知人、家族がいないことに苦しんでいた。なぜこんなに苦しんでいる私の気持ちが分かってもらえないのかと嘆いていた。その気持ちが言葉になった。春の野を眺めていると霞がたなびき、私の気持ちを誰にも分ってもらえない悲しみがふつふつと湧きあがってきた。春の日永の夕日に鶯が鳴いている。鶯が鳴けば鳴くほど私の気持ちは哀しみでいっぱいになる。春は何かをしたいという思いが強くなる季節だ。したいと思っていることをまわりの人に言うと皆、黙って聞いていてくれるが目が輝く人は誰もいない。私はこの世にただ一人きりなのだという思いが胸に迫ってくる。この苦しい気持ちを言葉にしたものが歌だった。
 大人になった若者が世の中に出ていくのが春と言う季節だ。大人の世界に入った若者の心の中には自分は一人きりだという思いが強くなる季節が春だ。それは大伴家持の生きた万葉の時代も今も基本的に変わることはない。大伴家持は春の愁いを言葉にしたことによって「春愁」を発見した。
春愁はそれぞれの時代の歌人たちによって詠い続けられてきた。そのことによって「春愁」という季題の意味が豊かになった。この豊かな意味内容を継承し、季語として定着させたのが芭蕉に始まる俳諧の発句を詠んだ俳人たちである。江戸、元禄時代以後、皇族や武士に独占されていた言語文化を農民や町人たちが継承することによって季節を表現した言葉を農民や町人の言葉として換骨奪胎したものが季語である。
和歌が表現した季節の表現と俳諧が表現する季節の言葉は本質的に違っている。和歌の言葉は貴族や武士の言葉であるのに対して俳諧の言葉は農民や町人の言葉である。
「春愁や恥ずかしながら腹がへり」。この句は『万葉集』以来の和歌が培ってきた季節を表現した言葉と同じ言葉ではない。俳諧の伝統の上に詠まれている俳句なのだ。日々の暮らしに追いまくられる庶民には「春愁」はない。

醸楽庵だより   1190号   白井一道

2019-09-19 11:45:47 | 随筆・小説



  徒然草十八段 『人は、己れをつゞまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、
               世を貪らざらんぞ、いみじかるべき』




 「人は、己れをつゞまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり」。

 
 人間は、己の生活を簡素にし、奢ることなく、蓄財することなく、世の名声や名誉、利益を求めることなく生きることが大事である。昔から賢い人が贅沢することは稀なことである」。

「唐土(もろこし)に許由(きょいう)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり」。

 中国古代時代の許由という人は、これという身につけた家財道具もなく、水をも手で掬って飲んでいたのを人が見て、瓢箪というものを与えると、ある時、木の枝に掛けてある瓢箪が、風に吹かれて音が鳴ることをやかましいといって捨ててしまった。また、手で水を掬っては飲んでいる。どんなにか、彼の心の内は清々しかったであろう。孫晨(そんしん)は冬、夜着がなかったので一束の藁に包まって夜は寝た。朝になると一束の藁をかたづけた。

「唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記し止めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず」。

 古代中国の人は、これらのことを大事なことだと考えるからこそ書き留めて後世に伝えたのであろうが、わが国の人々は語り伝えることもしない。

 我が国の篤実な農民の発言である。私は贅沢をしたいとは一度も思ったことがない。私が言いたいことは正当な対価を得たいということだ。米作農家は優遇されているという話がある。とんでもないことだ。米作りにどれだけの時間と労働がかかるのか、考えてもらいたい。時間給にすると最低賃金時給、八〇〇円にいくか、どうかだ。正当な対価が得られるような仕組みをつくってもらいたい。
 こうした農民の声を無視する政治が続いた結果、日本の食料自給率は低下し続けている。
 「平成三〇年度の食料自給率は、カロリーベースでは、米の消費が減少する中、主食用米の国内生産量が前年並みとなった一方、天候不順で小麦、大豆の国内生産量が大きく減少したこと等により、37%となりました」。このように農林水産省は発表している。
 確かに豊かな生活をしている農民がいる一方貧困化していく農民がいる。貧困化していく農民は農業を辞めていく。少数の豊かな農民がいることによって日本の食糧自給率が上がることはない。豊かな農民の絶対数が少ないからである。高品質の野菜や果物を生産する農家は確実な市場を得てそれなりの生活が成り立っているようだが、それによって日本の食料自給率が上昇することはない。
 基本は日本国民の主食となる米の生産農家の生存が保障されるような状況にならないと食料自給率は上がらないのではないか。
 農地の大規模化による米作は日本の気候風土に合っていないようだ。日本には大規模な平らな農地が絶対的に少ない。急峻な地域の多い所での農業が成り立つような状況を創り出す以外に日本の食料自給率を上昇させることはできないのではないかと思う。儲からない農業を成り立たせるためには、農業保護政策しかないであろう。農業を保護することは農業の発達を疎外するというような政策は間違っている。条件の悪い状況の中で農業が成り立つような政策を立案することが大事なのではないか。基本は農民の生活が安定し、決して貧困化するような状況を創り出さないことが大事だ。
 質素、勤勉、正直に生活する農民の暮らしが実現することを私は願う。豊かな生活をする農民がいる一方、質素、勤勉、正直に暮らす農民が貧困化していくような社会であってはならないと私は痛切に思うのだ。

醸楽庵だより   2189号   白井一道   

2019-09-18 12:06:53 | 随筆・小説



    徒然草十七段  『山寺にかきこもりて』



 「山寺にかきこもりて、仏に仕(つこ)うまつるこそ、つれづれもなく、心の濁りも清まる心地すれ」。

 山寺に籠り、仏への勤行三昧の日をおくると暇を持て余すこともなく、心の濁りがなくなり、清くなるような気持ちになるものだ。

 兼好法師は四〇字に満たない文章を書いている。この短い文章に人間の真実が表現されている。今も山寺にわざわざ籠る人がいる。
 一冬、月山に籠った経験を書いた小説がある。森敦が書いた『月山』である。人間の真実を求めていた若者が月山の麓にある寺に一冬世話になる話である。厳しい寒さに耐える生活の中で精神が純化していく過程が描かれていると私は解釈した。
 大声で経を読む。この行為が心を清くする。精神を集中させることなしには寒さに耐えることができない。寒さと孤独が仏への思いを強くさせる。小さなことへの感謝の気持ちが生れてくる。毎日、変わることのない大根の味噌汁と漬物、ごはんだけの食事。このシンプルな生活が濁った心を清くする。
 きっと勤行は濁った心を洗い流すに違いない。このことは今も生きている。羽黒山の勤行、山伏の勤行に参加する人が今も大勢いるようだ。

醸楽庵だより   2188号   白井一道

2019-09-16 11:29:03 | 随筆・小説



    徒然草十六段  『神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ』



 「神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。
おほかた、ものの音には、笛・篳篥(ひちりき)。常に聞きたきは、琵琶・和琴(わごと)』。

 神楽ほど上品で優美なものはなく、情趣が深い。一般に楽器の音の中では、笛と篳篥(ひちりき)がいい。常に聴きたいのは琵琶と和琴である。

 灯籠に導かれ、階段を上っていくと春日大社本殿の前に出た。月の光の中で笙(しょう)・篳篥(ひちりき)の音が夜空に響いていた。月の光が笙(しょう)・篳篥(ひちりき)の音が青白く輝くようだった。中学生だった私はこの日の夜の音を忘れることはないだろう。それ以来、私は雅楽が好きになった。特に笙(しょう)の音色が好きになった。
 春日大社では今でも雅楽会を催しているようだ。 
文化の日に因んで、日本の古典芸能である雅楽が演奏されている。
萬葉植物園の中央にある池の水面に設置された浮舞台において、奈良時代より絶えることなく春日大社に伝承されてきた「管絃」および「舞楽」の数々が、春日古楽保存会・南都楽所により奉納されているようだ。

醸楽庵だより   1187号   白井一道

2019-09-15 11:23:57 | 随筆・小説



徒然草十五段 『いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ』



 「いづくにもあれ、しばし旅立ちたるこそ、目さむる心地すれ」。

 どこであろうと、しばらく旅に出てみると、目のさめるような新鮮な気持ちになることがある。

「そのわたり、こゝかしこ見ありき、ゐなかびたる所、山里などは、いと目慣れぬ事のみぞ多かる。都へ便り求めて文やる、「その事、かの事、便宜に忘るな」など言ひやるこそをかしけれ」。

 そのあたりをあちらこちらと見歩いていると田舎びた所や山里などは、特に見慣れないことが多い。都へのつてを求めて手紙を送る。「あの事やかの事を都合をつけ忘れずにやっておいてくれ」と書き送ることもおもしろい。

「さやうの所にてこそ、万に心づかひせらるれ。持てる調度まで、よきはよく、能ある人、かたちよき人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ」。
 
 旅先にいてこそいろいろなことに心配りができるというものだ。身の回りの道具類まで良いものは一層良く思え、知力や芸のある人、姿かたちの美しい人もなほ一層常日頃より引き立って見えるものだ。
 「寺・社などに忍びて籠りたるもをかし」。

 寺や社などにひっそり隠れて籠るのも興味深いものだ。

 
 旅と旅行は同じか
 「可愛い子には旅をさせよ」という諺があった。私が子供だった頃、よく聞いた言葉だった。最近めっきり聞く機会がなくなった。今や旅行は慰安になっている。羽田午前八時集合、行き先は札幌、札幌に着くと有名なラーメン店を三軒梯子した。こんなことかと思って朝食は抜いて来てよかった。札幌の街にはまだ街路に雪が残っていた。ラーメンを食べ終わると解散だった。午後六時宿舎に集合ということになった。参加集団に女性職員は一人もいなかった。男たちは三々五々分かれて慰安を求めて札幌の街中に散っていった。宿舎に午後六時に集合し、宴会が始まった。これが男たち中心の職員旅行の実態であった。日常の制約から解放され、好き勝手なことをして楽しむことが旅行なのだ。今の旅は旅ではない。歩く辛さのようなものが何もない。知らない街を歩く楽しみのようなものもない。東京の繁華街と違うことのない地方都市の繁華街に慰安を求めているだけである。羽田から札幌に行く時間より自宅から羽田に行く時間の方が長い。
 しかし定年退職後、旅をしている知人がいる。四国八十八か所を巡る遍路旅を一人で歩いた知人がいる。その後東海道、中山道、奥の細道を一人で歩き通した。これはまさに現代の旅に違いないだろう。毎日、宿に着くと足裏にできたマメの手入れをして休むという。宿で出会った人と一献を交わす楽しみがあったという。街道沿いに発見した造り酒屋で唎酒する。蔵の歴史を聞き、昔の街道沿いの住民たちの日常生活がどのようなものであったのか、話を機会があった。一期一会の出会いと別れ、これが楽しみであったという。
今も旅は存続している。団体で行く旅が旅行であり、一人で行く旅が旅のようだ。高校生の男の子が一人、夏休みに北海道を自転車で走ったという話を聞いたことがある。彼は自転車を船に持ち込み、フェリーで北海道に渡った。それから一人自転車で苫小牧から根室を目指したという。いろいろな人との出会いがあり、楽しい旅であったという。怖かったのは熊との出会いであった。彼は鐘を鳴らし、フルスピードで走り抜けた。
 また昔、こんな友人がいた。鹿児島から来た友人は、夏休み自転車で故郷まで帰った。箱根の山越えが一番苦しかったという話を今でも覚えている。電車で帰るより楽しかったと言っていた。ただ旅費は電車で帰った方が遥かに安くつくという話だった。これもまた立派な旅のように思う。現代にあっても旅は健在している。時間を得られる人、お金の工面が付く人に旅の神様は微笑むようだ。お金と時間の余裕を得ることのできる人に旅の神様は付いてくる。
人間は誰でも日常生活からの解放を求めて旅立つ。健康とお金と時間に余裕のある人に旅はいろいろな刺激を与えるようだ。

醸楽庵だより   1186号   白井一道

2019-09-14 11:42:33 | 随筆・小説



    徒然草十四段 「和歌こそ、なほをかしきものなれ」



 「和歌こそ、なほをかしきものなれ。あやしのしづ・山がつのしわざも、言ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪のししも、「ふす猪の床」と言へば、やさしくなりぬ」。
 和歌ほど情趣深いものはないだろう。身分の低い襤褸をまとっている者や木こりを歌に詠んでみれば趣きが出てくる。恐ろしい猪も「ふす猪の床(冬、猪が枯れ草を集めて寝るところ)」と詠むと優しい猪になる。

 「この比の歌は、一ふしをかしく言ひかなへたりと見ゆるはあれど、古き歌どものやうに、いかにぞや、ことばの外に、あはれに、けしき覚ゆるはなし」。
 この頃の和歌は一か所ほど、これはというところはあるが、昔の和歌のように言葉の醸す内容が豊かに想像力を刺激するものはない。
「貫之が、『糸による物ならなくに』といへるは、古今集の中の歌屑とかや言ひ伝へたれど、今の世の人の詠みぬべきことがらとは見えず。その世の歌には、姿・ことば、このたぐひのみ多し。この歌に限りてかく言ひたてられたるも、知り難し。源氏物語には、『物とはなしに』とぞ書ける。新古今には、『残る松さへ峰にさびしき』といへる歌をぞいふなるは、まことに、少しくだけたる姿にもや見ゆらん。されど、この歌も、衆議判の時、よろしきよし沙汰ありて、後にも、ことさらに感じ、仰せ下されけるよし、家長が日記には書けり」。
「糸によるものならなくに別れ路の心ぼそくも思ほゆるかな」と紀貫之が詠んだ歌は『古今集』の中の屑のような歌だと言い伝えられているけれども、今の人が詠みおおせるような歌ではない。『古今集』時代の歌には、その姿や言葉遣いに同じようなものが多い。貫之のこの歌に限ってこのように言われるのかがわからない。「物ならなくに」という言葉を『源氏物語』には「物とはなしに」と、書いている。『新古今和歌集』にある「冬の来て山もあらはに木の葉降り残る松さへ峯にさびしき」という歌を歌屑だと言われているようだ。確かに少しすらりと読み下されていないようにもみえる。されど、この歌も歌合せの席での衆議判の時、なかなか良いではないかという判定が下った。後になっても更に分かりますとおっしゃって下さったと「源家長日記」にある。

「歌の道のみいにしへに変らぬなどいふ事もあれど、いさや。今も詠みあへる同じ詞・歌枕も、昔の人の詠めるは、さらに、同じものにあらず、やすく、すなほにして、姿もきよげに、あはれも深く見ゆ」。

歌の道に限って昔と変わることはないということがあるが、さて、どうだろうか。今も良く詠まれている同じ言葉や歌枕は昔の歌人が詠んだものとは同じものではない。言葉は分かりやすく、率直であり歌の姿は清く、趣きが深い。

「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)の郢曲(えいきょく)の言葉こそ、また、あはれなる事は多かンめれ。昔の人は、たゞ、いかに言ひ捨てたることぐさも、みな、いみじく聞ゆるにや」。

「梁塵秘抄の謡ものの言葉にこそ、情趣の深いものが多い。昔の人は、ただ無造作に使った言葉でさえも、みな素晴らしいなぁー。
「梁塵秘抄」は、平安末期の歌謡集。
「郢曲(えいきょく)」は当時の謡もの。

最近、戦前、戦中、戦後の歌謡曲を歌う楽団があることを知った。「東京大衆歌謡楽団」である。浅草や上野の街頭で歌っている楽団である。私が子供だった頃、聞いたことがあるような歌謡曲である。そのうちの一つが「上海帰りのリル」である。

船を見つめていた
ハマのキャバレーにいた
風の噂はリル
上海帰りのリル リル
あまい切ない 思い出だけを
胸にたぐって 探して歩く
リル リル 何処に居るのかリル
だれかリルを 知らないか

今、流行の歌謡曲に比べて「あはれなる事多く、いみじく聞ゆる」ようにも感じるな。昭和26年にヒットした歌謡曲のようだ。古き歌には哀れ深い趣きがあるように感じる。

醸楽庵だより   1185号   白井一道   

2019-09-13 11:45:41 | 随筆・小説



    「徒然草第十三段」『ひとり、燈のもとに文をひろげて』



 「ひとり、燈のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」。
 一人、灯のもとに本を広げて、昔の人を友にすることほど楽しいことはない。
 「文は、文選(もんぜん)のあはれなる巻々、白氏文集(はくしのもんじゅ)、老子(らうし)のことば、南華(なんくわ)の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり」。
 広げた本は古代中国の文学の数々だ。唐の詩人、白楽天の詩文集や春秋戦国時代の『老子経』、『荘子』。日本の文章博士(もんじょうはかせ)たちが書いたものにも、昔のものには趣き深いものがある。

 兼好法師は知識人であった。古代中国の漢文を読むことができた。日本においては第二次世界大戦まで知識人と言われた人々は漢文が読めた。漢文が読めるということが知識人の常識だった。明治の知識人、夏目漱石は漢文や英語が読めた。
 東アジア世界には共通な文化的紐帯かある。その一つが漢字である。日本、モンゴル、満州、朝鮮、ベトナム、チベット、西域といった地域である。これらの国々では漢字が通用する。儒教や仏教の文化がある。古くは律令がこれらの地域にはあった。
 日本は中国文明の影響下に国家形成をしてきた。中国文化を受け入れることによって日本古代国家は成立している。奴の国王が奴隷を貢物にして後漢の皇帝に挨拶に行った。後漢の皇帝、光武帝はよく来てくれたと「漢倭奴国王」という金印を貰って帰ってきた。このようなことを冊封(さくほう)といった。このような政治体制があったことによって漢字が日本に伝わってきた。
 日本は絶えず外国の政治体制の影響下に新しい政治体制が成立すると同時に文化の影響を受けてきた。戦後日本は圧倒的にアメリカの政治体制の影響下に新しい日本を建国してきた。だから戦後日本の知識人とは英語の読める人であった。日本古代、奈良時代のエリートたちが遣唐使として中国に行ったように戦後日本のエリートたちはフルブライト奨学金を得てアメリカ留学をした。
 兼好法師もまた古代中国の漢詩文を読み、教養を身に着けた人だったのであろう。

醸楽庵だより   1184号   白井一道

2019-09-12 13:06:20 | 随筆・小説



 「徒然草第十二段」を読む 『同じ心ならん人としめやかに物語して』


 「同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、たゞひとりある心地やせん」。
 同じ気持ちの人と静かに話していると面白いことも世の中のつまらないことも心の隔てなく話しあい、心やすまることほど嬉しいことはないが、そのような人がいるわけもないので、相手と少しも違うことのないよう気を使って話しているのは自分一人でいるような気持ちだ。
 「たがひに言はんほどの事をば、『げに』と聞くかひあるものから、いさゝか違ふ所もあらん人こそ、『我はさやは思ふ』など争ひ憎み、『さるから、さぞ』ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少し、かこつ方も我と等しからざらん人は、大方のよしなし事言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや」。
 互いに言いたいことを言い合い、「ほんとにそうだ」と言い合える関係もあるが僅かに意見の異なる人とは「私はそう思う」などと言い争い、憎しみをもつことがある。「そうだから、そうだ」と語り合えるなら幾分かは心休まる思いだ。実際、私と気持ちが同じでない方と、大方どうでもいいようなことを話している分にはいいが、本当の心の友とは、大きく隔たっているのはやりきれない。

 言葉は通じるのか。ごはん論争と命名された国会での質問と答弁である。

長妻衆議院議員と加藤厚労大臣とのやりとり。2018年2月26日衆議院厚生労働省委員会における問答である。

Q「朝ごはんは食べなかったんですか?」
A「ご飯は食べませんでした」
Q「何も食べなかったんですね?」
A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・」
Q「では、何か食べたんですか?」
A「お尋ねの趣旨が必ずしもわかりませんが、一般論で申し上げますと、朝食を摂る、というのは健康のために大切であります」
Q「いや、一般論を伺っているんじゃないんです。あなたが昨日、朝ごはんを食べたかどうかが、問題なんですよ」
A「ですから・・」
Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。ご飯、白米ですね、それは食べましたか」
A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の食生活をすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、大臣とし
ての業務に支障をきたしますので」

 言葉は通じるようで通じない。発言者の意図をすべて言葉で表現することはできない。質問者に対し
て答弁者が質問者の意図を理解しない限り、言葉は相手に伝わらない。
 話し合いが成立するためには互いが相手を理解しようという気持ちがなければ成立しない。良好な人
間関係があるところでなければ言葉は通じない。国と国との関係においても同じことが言えるのではな
いか。
 日本政府は韓国の大法院の徴用工判決を認めない。韓国政府は自国の大法院の判決を受け入れる。話し合いによって解決できないものなのか、疑問である。

醸楽庵だより   1183号   白井一道

2019-09-11 11:11:25 | 随筆・小説



    「徒然草第十一段」を読む



 高校一年生の古文の教科書に載せてある箇所が「徒然草第十一段」であったような記憶がうっすらとある。半世紀ぶりにこの段を読んでみることにする。生れて初めて古文に出会った文章だ。
 「神無月のころ、栗栖野といふ所を過ぎて、ある山里に尋ね入る事侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心ぼそく住みなしたる庵あり。木の葉に埋もるゝ懸樋の雫ならでは、つゆおとなふものなし。閼伽棚(あかだな)に菊・紅葉など折り散らしたる、さすがに、住む人のあればなるべし」。
 神無月(かみなづき)とは、陰暦の十月のことだと古語辞典にある。当時の支配階級の人々が十月のことを神無月と呼んでいたのであろう。当時の貴族の人々は日本古来の神々を信仰していた。兼好法師もまた日本古来の神々を信仰していた。日本全国から各地の神々が出雲大社に集まるため、諸国に神がいなくなる月の意からという説は『奥儀抄』にあると『ベネッセ全訳古語辞典』にある。人間の意志ではどうにもならない月日や気象、月の満ち欠けは神の領域のことだと考えていたのであろう。
 神無月のころ、兼好法師は栗栖野(京都山科の辺り)という所を過ぎて、ある山里を尋ねることがあった。どこまでも続く苔の生えた細い道を歩いて行くと、心細そうに暮らしている庵があった。飲料水を通す懸樋(かけひ)には木の葉がたまり、そこを流れてくる雫では、音をたてるものとてない。水や花などを仏前に供える棚、閼伽棚(あかだな)に菊や紅葉が折り重なり散らかっている。これはさすがに住む人がいればこそなのであろう。
 「かくてもあられけるよとあはれに見るほどに、かなたの庭に、大きなる柑子(かうじ)の木の、枝もたわゝになりたるが、まはりをきびしく囲ひたりしこそ、少しことさめて、この木なからましかばと覚えしか」。
 このような状況にあっても人は暮らしていけるのだなぁーと感心していると、向こうの庭にある大きな蜜柑の木の枝にはたわわに実がなっている。周りをかっちり囲ってあるのに気が付くと少し気持ちが覚めてしまった。この蜜柑の木がなければよいのになぁー。

 営業部長は関東地方の各営業所の所長を集めた集会が終わった後、近所の赤ちょうちんに部下を集め、自慢話をひとしきりした。皆黙って話を聞いていた。中には「さすが凄いですね」なとど追従する者がいた。部長は猪首の上の赤ら顔を勝ち誇ったようにがなり立てていた。部長は出身大学の頃の話まで始めた。語学が得意だったという話だ。もうすでに何回か、聞かされている話だった。しかし部下たちは初めて聞くような顔をして聞いていた。
 頃合いを見て課長が「今日はこのへんで」と発言した。さらに「一人、千円出してくれ」と課長は発言した。参加者は皆、無表情のまま千円を課長に差し出した。課長は参加者から千円を受け取ると自分の財布を開き、レジに向かった。
 このような飲み会に初めて参加した新任者は部長が奢ってくれるものだとばかり思っていたのがあてがはずれがっかりしたという話を後で聞いた。

醸楽庵だより   1182号   白井一道

2019-09-10 12:11:32 | 随筆・小説



    「徒然草第十段」を読む



 兼好法師は住いについて一家言の持ち主だった。第十段は住いについてである。鎌倉時代から南北朝時代にかけての社会において自分の家を持てたのは貴族や武士たちだけであったろう。当時の住民の大半は家らしい住いに住んでいたとは思えない。当時京都に住んでいた貴族たちの住まいについて兼好法師は述べている。
 「家居のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思へど、興あるものなれ」。
 住まいはそこに住む人に似つかわしいものであってこそ、この世は仮の宿りではあっても興味のつきないものであろう。
 「よき人の、のどやかに住みなしたる所は、さし入りたる月の色も一きはしみじみと見ゆるぞかし。今めかしく、きらゝかならねど、木立もの古りて、わざとならぬ庭の草も心あるさまに、簀子・透垣のたよりをかしく、うちある調度も昔覚えてやすらかなるこそ、心にくしと見ゆれ」。
 位の高い方が長閑に住んでおられるところは住いに入る月の光もひときわしみじみと感じられるものだ。今をときめく煌びやかさはないけれども屋敷を取り巻く木立は古びてわざとらしさのない庭の草花にも趣きがあり、簀や透かした垣根には風情がある。さりげなく置いてある道具類も昔から親しみ心落ち着くものばかりであるからこそ心憎い。
 「多くの工(たくみ)の、心を尽してみがきたて、唐の、大和の、めづらしく、えならぬ調度ども並べ置き、前栽の草木まで心のままならず作りなせるは、見る目も苦しく、いとわびし。さてもやは長らへ住むべき。また、時の間の烟ともなりなんとぞ、うち見るより思はるゝ。大方は、家居にこそ、ことざまはおしはからるれ」。
 多くの木工職人さんたちが心を込めて磨き立てた舶来品や日本製の珍しい言いようもない素晴らしい調度品などを並べ置き、植え込みの草木にまで手を入れて作ってあるのは見苦しく、侘しい限りだ。そうしたままで、この人はいつまでここに住み永らえるつもりなのだろう。人の命は時の間のもの。煙となって消えてしまうものぞ。ちょっと考えてみればわかるものを。おおかたは住いにこそそこに住む人の様子を推し量ることができるものだ。
 「後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の、寝殿に、鳶(とび)ゐさせじとて縄を張られたりけるを、西行が見て、『鳶のゐたらんは、何かは苦しかるべき。この殿の御心さばかりにこそ』とて、その後は参らざりけると聞き侍るに、綾小路宮の、おはします小坂殿の棟に、いつぞや縄を引かれたりしかば、かの例思ひ出でられ侍りしに、『まことや、烏の群れゐて池の蛙をとりければ、御覧じかなしませ給ひてなん』と人の語りしこそ、さてはいみじくこそと覚えしか。徳大寺にも、いかなる故か侍りけん」。
 後徳大寺大臣(ごとくだいじのおとど)の寝殿の屋根に鳶がとまるのを嫌って縄を張ったのを西行は見て、「鳶が屋根にとまっていたら何が見苦しいのかと、この屋敷の殿の心はこの程度のものか」と、その後は参ることはなかったと聞いている。綾小路宮のおはします小坂殿の棟に、いつのことだったか、縄が張り巡らされたことがありましたが、かの例を思い出されて「まことに烏の群れが池の蛙を捕るのを見て悲しまれていた」と人に語っていることこそ、大事なことだと思う。徳大寺にはどのような理由があったのであろう。
 現代日本社会においては大工さんがいない。大工さんの仕事が失われている。家は工場で生産されるものになってきている。現場では組み立てるだけになった。昔に比べて建築期間が大幅に短縮されてきている。昔に比べて同じような家がどこにも建っている。日本中どこにいっても同じような家が建っている。画一化が進んでいる。効率化が豊かな建築文化を損ねている。
 日本建築の美しさは軒の深さにあると奈良や京都の寺院建築を見て感じる。東京都心から50キロ以内の通勤圏内の家々の大半には軒はないのがほとんどだ。遠くから見るとマッチ箱のような家々ばかりである。軒の深い家など作ることができない。狭い土地にぎっしり詰まって建っている。
 軒が深く、屋根裏の垂木が見えるような家を探すことが困難な状況である。建築とはその土地の風土にあったものであった。日本の建築は日本の風土にあったものがつくられてきた。日本は雨が多い。だから軒が深く取られるような家づくりが図られた。気温が高く、湿度が高いから兼好法師が述べているように夏向きの家が良い。日当たりが良いように南向きの家が好まれた。しかしそのような贅沢がいえない状況に今の日本はあるようだ。