徒然草二四段 『斎宮(さいぐう)の、野宮(ののみや)におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか』
「斎宮(さいぐう)の、野宮(ののみや)におはしますありさまこそ、やさしく、面白き事の限りとは覚えしか。「経(きょう)」「仏(ほとけ)」など忌みて、「なかご」「染紙(そめがみ)」など言ふなるもをかし」。
「斎宮(さいぐう)、天皇の未婚の皇女が野宮(ののみや)、斎宮(さいぐう)に選ばれた内親王が伊勢に下る前に、一定期間、斎戒される仮宮におられる有様ほど優しく、興味深いこと限りない。伊勢信仰は仏教の経典やお仏さまを嫌い、お経のことを染紙(そめがみ)といい、仏さまを『なかご』などと言っているのも面白いことだ。
「すべて、神の社こそ、捨て難く、なまめかしきものなれや。もの古りたる森のけしきもたゞならぬに、玉垣しわたして、榊に木綿懸けたるなど、いみじからぬかは。殊にをかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮」。
すべて神社のたたづまいは捨て難く、みずみずしく美しいものはない。どことなく古びた森の雰囲気にもただならぬ重々しさしさがある。社は垣根で囲まれ、榊は木綿(ゆう)で飾られているなど、厳かでないはずがなかろう。ことに趣きのある神社は伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田・大原野・松尾・梅宮の諸社である。
21世紀になった今になっても斑鳩、法隆寺に行くと伽藍の在り方に浸っていると中国に来ているのではないかという不思議な感覚に襲われることがある。特に金堂内の暗い所に安置されている釈迦三尊像などを拝観しているとその感が深い。また回廊の色に中国的なものを感じるのだ。
また宝物殿の百済観音を見ているとこの仏さんは日本人とかけ離れているなと眺めている時間を忘れてしまう。日本の古代社会にはまだ日本の文化が成り立っていないことを実感する。百済観音は日本文化の中から生まれた仏さんではないと感じてしまう。ただ当時の日本人は百済観音を見てひたすら拝み、国の安泰と幸福を願ったのだろうと想像する。
薬師寺の薬師三尊像や聖観音像を拝観してもそこに日本的なものを発見することはできない。白鳳時代を代表する薬師寺の諸仏像に日本人を発見することはできない。圧倒的に中国文化の影響下に仏像が造られていることを感じる。
天平時代を代表する諸仏像が安置されている唐招提寺の諸仏像を拝観してもそこに日本文化のようなものの形跡を発見することはできない。昔、講堂に安置されていた仏頭はヘレニズム文化の影響が表れている。『如来形立像(にょらいぎょうりゅうぞう)』を拝観した人の言葉が今も忘れられない。この仏さんの前に来るとこの場所から離れられなくなる。マイヨールの『イル・ド・フランス』を思わせると言っていた。この仏さんは当時の日本文化の中で創作されたものではない。圧倒的に中国文化の影響下にこれらの諸仏像は創作されている。飛鳥・白鳳・天平時代に創作された仏像は当時の日本で創作されたものに違いはないが、日本のものではない。
では平安時代になると日本のものが創作されるようになるのかというと、そこに難しさのようなものがあるように感じる。確かに平安時代に国風文化が花開いたと高校時代に日本史の時間に教わったような記憶が残っているが、果たしてそうなのだろうか。確かに国風文化を代表するものとして「かな文字」がつくられた。その結果として紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』が生れたと言われているが中国から輸入した宗教文化としての仏教が日本化し、日本民衆の宗教として日本人の心を捉えているのかというとまだそうではないように感じる。『徒然草』を書いた兼好法師が生きた14世紀前半の時代になってもまだ仏教が日本化していく過程になっている。仏教が日本人の魂を捉えたのは一向宗ではなかったかと私は考えている。15世紀後半、一向宗徒が越中や加賀において根強く戦国大名と戦い抜く中で親鸞の唱えた浄土真宗の教えが蓮如の指導の下に日本民衆の魂を捉えたのではないかと考えている。
古代日本に仏教が朝鮮から、そして中国から伝えられ、戦国時代の末期に織田信長の支配に頑強に戦った一向宗において仏教は日本人の宗教になった。
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