徒然草十八段 『人は、己れをつゞまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、
世を貪らざらんぞ、いみじかるべき』
「人は、己れをつゞまやかにし、奢りを退けて、財を持たず、世を貪らざらんぞ、いみじかるべき。昔より、賢き人の富めるは稀なり」。
人間は、己の生活を簡素にし、奢ることなく、蓄財することなく、世の名声や名誉、利益を求めることなく生きることが大事である。昔から賢い人が贅沢することは稀なことである」。
「唐土(もろこし)に許由(きょいう)といひける人は、さらに、身にしたがへる貯へもなくて、水をも手して捧げて飲みけるを見て、なりひさこといふ物を人の得させたりければ、ある時、木の枝に懸けたりけるが、風に吹かれて鳴りけるを、かしかましとて捨てつ。また、手に掬びてぞ水も飲みける。いかばかり、心のうち涼しかりけん。孫晨(そんしん)は、冬の月に衾(ふすま)なくて、藁一束ありけるを、夕べにはこれに臥し、朝には収めけり」。
中国古代時代の許由という人は、これという身につけた家財道具もなく、水をも手で掬って飲んでいたのを人が見て、瓢箪というものを与えると、ある時、木の枝に掛けてある瓢箪が、風に吹かれて音が鳴ることをやかましいといって捨ててしまった。また、手で水を掬っては飲んでいる。どんなにか、彼の心の内は清々しかったであろう。孫晨(そんしん)は冬、夜着がなかったので一束の藁に包まって夜は寝た。朝になると一束の藁をかたづけた。
「唐土の人は、これをいみじと思へばこそ、記し止めて世にも伝へけめ、これらの人は、語りも伝ふべからず」。
古代中国の人は、これらのことを大事なことだと考えるからこそ書き留めて後世に伝えたのであろうが、わが国の人々は語り伝えることもしない。
我が国の篤実な農民の発言である。私は贅沢をしたいとは一度も思ったことがない。私が言いたいことは正当な対価を得たいということだ。米作農家は優遇されているという話がある。とんでもないことだ。米作りにどれだけの時間と労働がかかるのか、考えてもらいたい。時間給にすると最低賃金時給、八〇〇円にいくか、どうかだ。正当な対価が得られるような仕組みをつくってもらいたい。
こうした農民の声を無視する政治が続いた結果、日本の食料自給率は低下し続けている。
「平成三〇年度の食料自給率は、カロリーベースでは、米の消費が減少する中、主食用米の国内生産量が前年並みとなった一方、天候不順で小麦、大豆の国内生産量が大きく減少したこと等により、37%となりました」。このように農林水産省は発表している。
確かに豊かな生活をしている農民がいる一方貧困化していく農民がいる。貧困化していく農民は農業を辞めていく。少数の豊かな農民がいることによって日本の食糧自給率が上がることはない。豊かな農民の絶対数が少ないからである。高品質の野菜や果物を生産する農家は確実な市場を得てそれなりの生活が成り立っているようだが、それによって日本の食料自給率が上昇することはない。
基本は日本国民の主食となる米の生産農家の生存が保障されるような状況にならないと食料自給率は上がらないのではないか。
農地の大規模化による米作は日本の気候風土に合っていないようだ。日本には大規模な平らな農地が絶対的に少ない。急峻な地域の多い所での農業が成り立つような状況を創り出す以外に日本の食料自給率を上昇させることはできないのではないかと思う。儲からない農業を成り立たせるためには、農業保護政策しかないであろう。農業を保護することは農業の発達を疎外するというような政策は間違っている。条件の悪い状況の中で農業が成り立つような政策を立案することが大事なのではないか。基本は農民の生活が安定し、決して貧困化するような状況を創り出さないことが大事だ。
質素、勤勉、正直に生活する農民の暮らしが実現することを私は願う。豊かな生活をする農民がいる一方、質素、勤勉、正直に暮らす農民が貧困化していくような社会であってはならないと私は痛切に思うのだ。