徒然草二三段 『衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ』
「衰へたる末の世とはいへど、なほ、九重の神さびたる有様こそ、世づかず、めでたきものなれ」。
衰えた末法の世とは言うが、今でさえ、九重に造られた皇居の門構えの神々しい有様には少しも世俗化することなく、立派なものだ。
「露台(ろだい)・朝餉(あさがれひ)・何殿(なにでん)・何門(なにもん)などは、いみじとも聞ゆべし。あやしの所にもありぬべき小蔀(こじとみ)・小板敷(こいたじき)・高遣戸(たかやりど)なども、めでたくこそ聞ゆれ。「陣に夜の設(もうけ)せよ」と言ふこそいみじけれ。夜の御殿(おとど)のをば、「かいともしとうよ」など言ふ、まためでたし。上卿(しょうけい)の、陣にて事行へるさまはさらなり、諸司の下人(しもうど)どもの、したり顔に馴れたるも、をかし。さばかり寒き夜もすがら、こゝ・かしこに睡り居たるこそをかしけれ」。
露台(ろだい)・朝餉(あさがれひ)・何殿(なにでん)・何門(なにもん)などは、立派なものだ。庶民の家にもある格子造りの小さな窓や板敷きの廊下、高い所にある引き戸など、結構なものだ。諸卿の詰め所に夜間の灯火を準備せよと言うことはまた重要なことだ。夜の御殿にある灯火を早く灯しなさいという。また結構なことだ。上卿(しょうけい)が詰め所で公務をしている様子は更に身が引き締まる。諸役所の下役人たちの得意顔に場慣れしていることがわかるのも興味深い。さように寒い夜であるにもかかわらずここ、かしこで居眠りしていることも面白いじゃないか。
「
「内侍所(ないしどころ)の御鈴(みすず)の音は、めでたく、優なるものなり」とぞ、徳大寺太政大臣(とくだいじのおほきおとど)は仰せられける」。
三種の神器の一つ、八咫(やた)の鏡を安置している内侍所(ないしどころ)の女官の鳴らす御鈴(みすず)の音は美しく優雅なものだと徳大寺太政大臣(とくだいじのおほきおとど)はおっしゃっておられる。
古代天皇制の支配体制が崩れ、武家政権に取って代わっていく時代に兼好法師は生きていた。この時代に人々の心を捉えた思想が末法思想であった。兼好法師もまた末法思想に染まっていたのかもしれない。法然を開祖とする浄土宗は末法思想に立脚し、末法濁世の衆生は阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとする称名念仏による救済を広めていた。
現代日本もまた大きな時代の変わり目にきているようだ。それは世界的な大きな潮流のようでもある。その底には資本主義経済では、これ以上の経済発展が見込めないような状況が生れてきているようだ。
元ハーバード大学教授スティーブン・ハイマーが次のようなことを言っているという話を聞いた。一八四八年にマルクスが発表した『共産党宣言』の中にある「ブルジュアジー」という言葉を「多国籍企業」に変えるならば、まったくそのまま『共産党宣言』は現代世界に当てはめることができるという。
1991年にソヴィエト政権が崩壊すると社会主義理論は崩壊した。マルクス主義は間違っていたという主張がその後30年間続いて来た。しかし『資本論』にある経済恐慌論なしには現代世界の経済恐慌を正しく分析し、理解することは難しいのではないかと横浜国立大学名誉教授萩原伸次郎さんが述べていた。
私も高校生の頃、初めて物を生産するという行為は誰かが必要としているから社会的なものであるということを学んだ。しかし生産は無政府的に行われる。需要の予測に基づいて勝手に生産されていく。この生産の社会性と無政府性の矛盾が景気変動を生み、場合によっては恐慌が起きるということを学んだ。この資本主義経済の矛盾を解明したのが『資本論』であり、その著者がマルクスであるということを知った。
経済恐慌のようなことは起きないと言われていたが2008年、「リーマンショック」という世界的な金融恐慌が起きた。日本にも大きな影響があった。その時、よく耳にした言葉が「Too big to fail」であった。大きすぎて倒せない。公的資金を私的銀行に注入することによって危機を凌いだ。これは国民の富を強奪するものだとマルクスは言っている。
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