醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより   1176号   白井一道

2019-09-04 11:55:15 | 随筆・小説



    『徒然草第7段』を読む(その2)

 
 
 「あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひならば、いかにもののあはれもなからん。世は定めなきこそいみじけれ」と第6段を兼好法師は書き出している。「あだし野の露消ゆる時」とは、人が亡くなる時ということだ。「鳥部山の煙立ち去らでのみ住み果つる習ひ」とは、火葬場の煙が出ることがなくなり、いつまでも人が生きていることができるようななったらと、いうことだ。そのようなことになったら「もののあはれ」というものがなくなってしまうじゃないか。世は無常であるからこそ良いのだ。人は死ぬ。だから良いと兼好法師は述べている。
 中世社会は死が身近なものであった。死が可視化されていた社会であった。
平安時代、京都では死者を洛外へ運び野ざらしにしする風葬(遺体を埋葬せずに風にさらし風化を待つ)鳥葬が一般である。平安時代は仏教が影響し身分の高い人物は火葬を行うようになっていく。火葬には木材を必要とする。庶民の死者は最も経済的な風葬、鳥葬であった。その風葬の地として有名だったのが嵐山の北にある化野、東山の鳥部山、船岡山の北西一帯の蓮台野(紫野)という地区である。京都嵐山の清滝道を上っていくと竹林がある。平安時代、嵯峨鳥居本という地区は旧名「化野」と呼ばれていた。この場所が風葬、鳥葬の地である。化野(あだしの)の「あだし」は古語で「悲しい」「はかない」という意味があり、「あだしなる野辺」と呼ばれていたものが後に化野と呼ばれるようになった。平安初期の真言宗の開祖・三筆の一人である空海が疫病が流行っていた都を訪れた際人々に土葬を教えた。化野にある無数にある野ざらしにされた遺体を哀れに思い、また疫病の発生を抑える為に遺体、遺骨を埋葬しその上に1.000体の石仏と堂を建て、五智如来寺と称したのが化野念仏寺の始まりのようだ。
今では京都観光の名所の一つ、清水寺もその鳥辺山という風葬・鳥葬の地にあたる。清水寺は宝亀9年(778)それらの霊を供養する為に音羽の滝の近くに社を建てたのが始まりという説がある。本殿が高い所にあるのは、死者の匂いがあまりにも強い為であったという。また「清水の舞台」が突き出しているのは死体を投げ捨てるためだったという。
 人間ほど命の長いものはない。蜉蝣(かげろう) は水中で幼虫を2~3年過ごすが、羽化すると口器が働かなくなって食物が摂取できなくなる。食をとらず自らの遺伝子を伝えるためだけに羽化して交尾して死んでいく。早いものでは羽化して数時間で死んでいくという。普通は数日から1週間くらいには死んでいく。
蝉の成虫は短命で「1週間しか生きられない」という説が広く知られている。
確かに人間は他の動物と比べてみると長生きだ。仮に命を惜しみ、生きることに飽きないなら千年の寿命を得ても一晩の夢と変わることはないだろう。このように兼好法師は述べている。だから人間は生きなければならない。
『生きる』という黒澤明の映画があった。1952年に制作されたものである。市役所の市民課長・渡辺は30年間無欠勤、事なかれ主義の模範的役人である。ある日、渡辺は自分が胃癌で余命幾ばくもないと知る。絶望に陥った渡辺は、歓楽街をさまよい飲み慣れない酒を飲む。自分の人生とは一体何だったのかと。渡辺は人間が本当に生きるということの意味を考え始め、初めて真剣に役所の申請書類に目を通す。そこで彼の目に留まったのが市民から出されていた下水溜まりの埋め立てと小公園建設に関する陳情書だった。この作品は非人間的な官僚主義を痛烈に批判するとともに、人間が生きることについての哲学をも示した名作である。
君は今生きているかと、父は息子に言った。息子は黙っていた。息子は高校の軽音楽部に属し、エレキギターを鳴らしていた。大学受験が迫っているにもかかわらず、勉強するどころか、ギターに夢中になっていた。高校の成績は中位だった。中学生の頃は学校でもトップクラスの成績だった。高校に入り、軽音楽部の演奏を聞き、夢中になってしまったのである。父親は丸の内に勤める大企業の中堅社員である。父親は意を決して言った。君は今、生きていると思ったらそれでいいと。その息子はK大の経済学部に進学した。