井上ひさしの『吉里吉里人』には、「チューイングガムのような男」という例が出る。するめなら噛めば噛むほど味が出るはずだが、これはその逆で、「つきあえばつきあうほど味がなくなる」という意味のようだ。
するめになった本は今までどれだけあっただろうか。
自分がいいなあ、と思う表現を見つけた時、パソコンにストックして、いつか、使うように心がけている。
中村明著 『日本語の作法』
1 「大丈夫」と聞かれると、あなたはどう思いますか?
「大丈夫の意味は拡散し、世代間で話が通じにくい。
ある国語学者が髪を洗ってもらっている途中、美容師に「大丈夫ですか」と聞かれ、あわてて「大丈夫です」と叫んで立ち上がった。
店の側では、どこか痒い箇所か洗い足りないところがないかと確認するのが決まり文句だった。
客は自分の様子おかしいので脳か心筋梗塞で心配して声を掛けたのかと思ったようだ」と。
僕も、昔は散髪屋でよくそう聞かれた。しかし、最近は、「かゆい、ところはないですか」が多い。
散髪屋も誤解されると分かったのかも。
2 生きざまに違和感あり?
「大岡信が嫌いな言葉として、生きざま、をあげ、谷川俊太郎も即座に同感する。近年、壮絶な、みごとな、立派な、という称賛の気持ちをこめた形容をともなってやたらに使われている」と。
しかし、これまでは、「何というざまだ」「ざまを見ろ」と、ずっと軽蔑の気持ちをこめて使ってきた「ざま」という意である。
やはり使いたくない言葉だと思う。
3 歴史ある言葉はやはり品格が?
「小津安二郎の映画『宗方姉妹』の中で、古くならないものこそ新しいと主張した。
言葉についても同じだろう。読んでいる中に、一時期はやった新語・流行語が出てくると、その文章自体が、古風というより、いかにも流行遅れという古臭い感じに受け取られる。
もっとずっと古くから長い間使われて来たことばには感じられない黴臭いにおいである。その意味で、斬新なことばほど早く古びる」と。
現代、やたらと省略する言葉が多すぎる。ハイテクとかパソコンとか片仮名用語が目立つ。
しかし、百年たって、それの言葉は使われているだろうか。
物だけでなく、言葉までも使い捨ての時代になったと思う。
歴史ある言葉をどれだけ使っているかで、本を買うかどうか決めるのも面白い。
4 あなたならどうする、自分宛てに往復はがきを出すと?
「往復はがきの返信用に、宛名が印刷されており、「行」とあるのを、返信する側が「様」「殿」などと書き換える慣用があった。
近年、当人が自分の名にあらかじめ「様」をつけておく例も目立つ。相手が描き直す手間を省くが、非常識に見える」と。
「行」のまま敬称なしに投函する相手が増えたのだろう。
「行」のままでいいのではないか。どうしても、自分に「様」はおかしい、と思うが。
5 一つの言葉の選択で感じがまるで違う?
「しみじみとした「秋の夕暮れ」が、「秋の夕方」となると、物思う気分が薄れる。まして、「秋の夕刻」となると、忙しい感じで、忘れていた用事を思い出すかもしれない」と。
修飾語なければ、イメージにさほど変わらないが、秋の、つけるだけで、言葉がカメレオンにみたいに変身する。
そのために、何となく思いついた一語でまかなうよりも、時には辞書を引いて、関連語意の中からこれぞと思う一語を選び出して据える練習をしてはいかがだろうか。何度も引くうちに、自分の意図にぴたりと合致する言葉に近づく。
これが、うまい文章を書くこつだと思うが。
6 出来るだけ同じ言葉は使わないのが上品?
同じことばを何度も使うと、いかにも語彙が貧弱に見える。
井上ひさしは、『自家製文章読本』で、「上品なスペイン語の文章では一頁のなかに同じ単語が二度あらわれてはならない」とされている。「谷崎は文章について語っているつもりで、実は形式について」と書いた後、「語っている」という表現をやめて「云々していた」よ結ぶ」と。
これは、普段の読書力で語彙力を養うしかないようだ。
7 敬称をつけるかどうか問題だ?
「プラトン、ナポレオンのような歴史上の人物に敬称をつけない。藤原道長、徳川家康など。近代以降では「吉田茂」「太宰治」のような著名人は一般に呼び捨て。日ごろ、自分には縁遠いからだろう」と。
しかし、今、生きている人には、敬称をつける。本人が読んだら、失礼だと思うからだろうか。
しかし、余りにも身近な友達は敬称はいらないが。どこで線引きするか難しい。
8 外国語を読む時は速読の方がよく理解できる?
「辞書と首っ引きで長時間読んでいる時はよく理解できない文章が、さっと通読すると案外すっとわかる。
こういう論理的には不可思議な経験を、外山滋比古は残像という映画になぞらえて説明。
一つ一つのことばが静止している間に表現的空白がある状態は、映画のフィルムに似ている。
それを一定の速度で映写すると、残像の働きで画面が動いているように錯覚する。
本を読む場合もある程度のスピードがないと、この残像が働かない。いちいち辞書を引きながら読むようでは、イメージが繋がらない。場面として浮かばないから全体の意味が理解できないのではないか」と。
外国語を読む場合、どうしても、辞書を引いてしまう。そして、さっき何が書いてあったかを忘れてしまう。
しかし、引きたいのを我慢して、推理しながら読むのは脳活性化にとてもいいと思うが。
一つの文章の長さによって、速読できるかどうか判断してはどうだろう。
ちなみに、中村氏によると、一文の長さは
「文芸雑誌は四十字台、硬い総合雑誌は六十字ほど、専門的な学術雑誌は平均七十字を超える結果になる」と。
だから、小説やビジネス本などは、字数がこれよりもっと短い。速読に適しているようだ。
9 自分の鼾が聞こえるようになると、やはり、老人になったということか?
内田百閒の『山高帽子』に自分の鼾を聞く愉快な話がある。音が年々大きくなって、この頃では「毎夜自分の鼾を聞いて眠っている」「咽喉にひっかかるかすかな節も、にぶい調子の高低も、おぼろげながら耳の中に記憶がある」し、起きていてもその節と調子を真似ることができるという。
10 あなたは、どんな時に季節が変わったなと感じますか
詩人の長田弘は「季節は街に、和菓子屋の店先から来る」と。
店の硝子戸に新しい菓子の名を筆で書いて貼ってあるあるのを見ると、「ああ、季節が変わった」と思うというのだ。「うぐいす餅」「若鮎」「水ようかん」「お萩」「切山椒」などと書いた貼り紙に、季節を感じたようだと。
僕は、風の匂い、音に感じますが。
11 禁止の貼り紙などはしない方がいい?
地主が「自動車捨て場」と表示したら効果覿面、一発で問題が解決したという。駐車されればその車の所有権を放棄したことになるから、乗ろうとして車の姿が見えなくなっていても文句の言いようがない。凡人が車を置かせまいとして知恵を絞るのと反対に、むしろ車を置くように誘う、この逆転の発想はすごい。
僕も、普段、街を歩くと、神社マークを柱に貼って、小便禁止とか、よく見かけるが、反対に余計にされてしまうのではないかと思う。