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カール・ヒルティ  『幸福論』

2018-07-01 05:25:29 | 日本古代史

 カール・ヒルティ  『幸福論』

「日常の小さな時間の断片の利用と、今日はもう始めても無駄だ、という考えを取り除くことが、ある人の生涯の業績の半ばを決定する。

 時間節約の方法の一つは、仕事の対象を変えることである。仕事の変化は完全な休息と同様の効果がある。この方法を日々習慣によって、得られれば、一日中、働き続けることができるのである」

語学の上達した人は、細切れの時間を活用している。電車の中で単語を暗記したり、スマートフォンで英会話を聞いている。語学は覚える時間で上達度が決まる。何時間も暗記作業は難しい。十分か二十分が暗記に最適である。

まとまった時間は読書をしたり、ものを書いたりすればいい。

一つの勉強に飽きたら、別のものに目先を変えるのが非常に有効だ。学校の試験勉強をしている時に、いつも読まない小説をふと読んでみたくなることがあった。そんな時読んだ小説をわりとよく覚えている。

こうしたことを、普段から続ければいい。いつもやっている仕事が飽きれば、別のことをする。これをできれば、本来の仕事も飽きず、しかも、自分の関心を広げることができる。

画家の中には、たくさんのキャンパスを並べて、いろいろな絵を同時に描く。一つの絵を描いていて、疲れると、今度は別のキャンパスに描く。この作業を休みなしにやるという。目先の仕事を変えることは、休息に勝る休息となる。


6月29日(金)のつぶやき

2018-06-30 01:58:46 | 日本古代史

高森明勅著 『謎とき「日本」誕生』

2018-06-29 17:07:45 | 日本古代史

高森明勅  『謎とき「日本」誕生』

 新羅は、大国の唐との戦争を有利にするために、自国背後の日本が唐に味方する事態は避けたい。そこで、新羅は日本を上位においた朝貢外交を展開した。

 天武朝になると、唐と交渉は途絶え、もっぱら新羅との提携へ傾斜する。



 「日本」という国号は、おそらく対外的にはまず新羅にしめすことを念頭に置いたのだろう。
676年に、新羅は唐の拠点を撤退させ、半島の統一を実現する。

 「日本」との国号は、我が国が「日神」の加護する優れた国であることを対外的に表明しようとする意図の下に制定された、はじめに通告対象となったのは、日本に臣従外交を展開した新羅であろう。


 「日本」国号が持統天皇時代の『浄御原令』で公定された。

 「日本」国号の制定は西暦689年らしいのに対して、唐王朝が滅亡して、「周」の国号が採用されるのは、その翌年の690年だった。時期的に接近していた可能性がある。「日本」なる国号の提案者も栗田真人だったかもしれない。

 


 栗田真人は『浄御原令』の編纂メンバーの一人だった。だから、唐に「日本」国号をも伝える遣唐使の責任者に選ばれたのかもしれない。


6 遣唐使の一行に山上憶良が選ばれた。その憶良が唐にあたって母国を偲んでうたった歌が


いざ子ども  早く日本へ
大伴の    み津の浜松
待ち恋ひぬらむ



『万葉集』中、国号として、「日本」の語がつかわれているのは、おそらくこれが唯一の例だろう。


 わが国の君主の称号は、ふるくは「王」だった。いつから「天皇」になったのか。

 和歌山県橋本市の隅田八幡神社につたわる人物画像鏡の銘文に「日十大王」とあるのも、注目されてきた。


9シナ皇帝から「王」に冊封された事実こそ、君主号が「王」とされた第一義的な規定要因だったであろう。

 「王」とはシナ周代までは天下を統率する君主の称号だった。しかし、春秋戦国時代になって、諸侯もこれを称する。秦王の政が天下を統一すると、「王」より優越する君主の称号として「皇帝」を採用した。秦の始皇帝だ。

 一旦、中国で統一君主の称号として「皇帝」が使われると、それまでの君主号の「王」はそれに次ぐものとなった。

 わが国もシナ王朝と冊封関係を結び、倭の王に任命された。シナ皇帝と同一の皇帝号や、その別号となる天子号は許されないことだった。


 ヒミコというのは王に擁立された一女子の個人名ではないようだ。はじめてたてられた女王の地位あるいは役職の称号だった可能性がある。


  わが国は南朝の宋(420―479)から冊封を受け、そのころのわが国の王としてシナの史書に名前があるのは、讃、珍、済、興、武の五人。いわゆる「倭の五王」だ。倭王武がワカタケルの雄略天皇はほぼ間違いない。珍はミヅハワケの反正天皇(はんぜい)、済は允恭、興は安康の可能性が高い。讃は履中天皇だろう。


 日本は五世紀後半の雄略朝を最後に、中国の冊封体制から離れる。



 天武・持統朝説では、「天皇」号が初めて使われたのは674年より遡れないと考えていた。
 根拠は。唐の高宗が674ン年に初めて「天皇」号を用いたからだ。

 もし、これ以前に日本で「天皇」号が使われていたとすれば、「高宗は承知の上で採用したことになる。中国人の自尊心が許さない」(渡辺茂氏)という考え方だ。

 しかし、妥当ではないという説も。というのも、高宗の皇后である則天武后は、高宗が天皇を称するにあたり「天后」と称したが、「天后」号はすでに周辺諸国で先行していた。

 雄略朝前後のころの日本は百済等に対して優越せる地位に立とうとして、特に天王号を採用したのではないか。(宮崎市定説)


 「王」号は六世紀後半の敏達朝まで維持されたが、次の用明朝では、「帝王」ないし「帝皇」号へ移ったのではないか。


 672年の国書では倭王。これはほば信じて良い。だが、このころの唐は日本を自分の臣下と見ていた。
 しかし、日本国号制定後、702年に入唐した使者に授けられた国書になると、「日本国王」としている。これは、「日本」への国号の変化を唐は受け入れた。このときの使者の粟田真人らの功績だ。


 継体天皇は応神天皇五世の孫として皇統につながる人物だった。


  継体天皇即位をめぐる局面で、イニシャチヴをとったのは武烈朝から大連の重責にあった大伴金村だった。その即位の際、前朝の大臣・大連ら三人がそのまま再任された。

 天皇を補佐する重臣に視点を置いて、この時代を見ると、武烈から宣化の頃まで、一貫したものがあり、武烈と継体の間に断絶はない。

これらの事実により、継体天皇の即位が王朝交替などとは、ほど遠い実態だった。


 朝廷を構成する重臣・氏族の推移をみると、そこに一定の連続性を確認できる。大伴金村は武烈―継体―安閑―宣化―欽明の五朝に仕え、物部尾輿は安閑―宣化―欽明に三朝にわたって朝廷で重きをなした。
蘇我稲目は宣化―欽明にかけて在任した。
 
 だから、武烈―継体―安閑―宣化―欽明の各朝の間に、有力氏族の交代はあっても、王朝や朝廷に断絶はなかった。

 だから、五世紀に「二つの王系があった」との仮説は、支持できない。

 初期大和朝廷の君主の墓は巨大な前方後円墳だが、3世紀から4世紀中頃まで、奈良盆地の東南部に作られた。それらはおおやまと古墳集団に含まれる。

 4世紀半ば以降に、盆地北部の佐紀盾列古墳群に移る。さらに、4世紀末から5世紀になると大阪平野南部の古市古墳群、あるいは、百舌鳥古墳群へ移動。しかも、五世紀代の大王墓は古市―百舌鳥―古市―百舌鳥―古市と二つの古墳群を交互にうつった。

 弥生時代の墳丘墓には、地域性が目立つ。
古墳は近畿も、吉備も、九州北部も、画一性がはっきり。前方後円墳で、墳丘の形は共通。後円部に対して前方部が低く、その先が三味線のバチの形。

 大和の箸墓古墳は吉備の浦間茶臼山古墳のちょうど二倍。それぞれの古墳の間に共通の築造プランあり。
 出現期の古墳は埋葬施設や、副葬品の組み合わせまで統一的。埋葬施設は、竪穴石室に割竹形木棺を納めるのが基本。

 副葬品は、死者が生前身に着けていた玉類の他、頭部近くに鏡が二、三面置かれる。棺の外回りには邪気を防ぐために、多くの三角神獣鏡を立て並べ、鉄剣や、銅鏃、鉄鏃、をつけた矢をおさめた楯、甲、などの武器、その他、鉄製の農工具、漁具などが納められる。


 出現期古墳の年代は早くて三世紀中頃、遅くても三世紀後半の中頃だろう。

 古墳出現の場所はどこか。
奈良盆地東南部、奈良県桜井市の三輪山のふもとからその周辺のあたり。

 巨大な纏向遺跡。三世紀初めにあらわれ、三世紀前半には一キロ四方、最盛期の三世紀後半には、1・5キロ四方。4世紀前半まで約百年存続。ほとんど都市的様相だった。


 纏向遺跡は列島の各地から大量の土器が運び込まれた。通常の遺跡は外来系の土器の割合が5パーセント前後。纏向遺跡は15パーセント。しかも持ち込まれた土器の製作地は、南関東から九州南部に及ぶ広範囲。

 外来系土器は三重・愛知両県の東海系が全体の49パーセント。山陰・北陸が17パーセント。河内が10パーセント、吉備が7パーセント、関東系の土器が5パーセント。

特に、東海系の勢力が大和朝廷の成立に大きな役割を果たした。


 大和朝廷が纏向の地で誕生したが、大和盆地の勢力が王権を成立させたのではない。東日本の厚い支持を背景に、西日本諸勢力を糾合した。

 ヒミコは247年か248年に亡くなった。

 邪馬台国が女王ヒミコの都であり、当時、倭国の首都だった。ヒミコは倭国の王で、邪馬台国はその首都だった。


 邪馬台国は大和か、筑紫か。

著者は大和派。
根拠は、
(1) シナから流入した鏡の分布状況。
前漢や後漢初期の中国鏡の分布は北部九州に。
後漢末の画文帯神獣鏡や、三角縁神獣鏡の中心は畿内。
三世紀初頭を境に、中国鏡の分布の中心は九州から畿内へ。


(2) 列島内での人や物の交流範囲。
三世紀の日本列島における人と物の交流、そして政治関係は九州から関東の広範囲。九州の中だけで政治や交流が完結していない。九州説ではこの説明ができないから。

(3) 三世紀中頃から定型化以前の前方後円墳が大和の纏向の地にあらわれたこと。
ヤマト王権の王都纏向に造られた纏向型前方後円墳が最も古く、最も巨大。纏向型前方後円墳が纏向を震源として列島各地へ広まった。


 180年前後に、ヤマト政権はキビ政権との連携でツクシ政権を統御した。
簡単に言えば、大和の勢力が吉備との協力で、九州北部の勢力を制圧した。