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美しくなるためには

2018-06-15 06:32:54 | 日記

【大切な息子たちへのメッセージ】オードリー・ヘップバーンの言葉

オードリー・ヘップバーンが、亡くなる数日前に息子たちに読んで聞かせたという詩が素晴らしい!

『時を越えた美しさの秘密』
"Time Tested Beauty Tips" ―Sam Leveson

魅力的な唇であるためには、美しい言葉を使いなさい。

愛らしい瞳であるためには、他人の美点を探しなさい。

スリムな体であるためには、飢えた人々と食べ物を分かち合いなさい。

豊かな髪であるためには、一日に一度子供の指で梳いてもらいなさい。

美しい身のこなしのためには、決してひとりで歩むことがないと知ることです。

物は壊れれば復元できませんが、人は転べば立ち上がり、失敗すればやり直し、挫折すれば再起し、間違えれば矯正し、何度でも再出発することができます。

誰も決して見捨ててはいけません。

人生に迷い、助けて欲しいとき、いつもあなたの手のちょっと先に助けてくれる手がさしのべられていることを、忘れないで下さい。

年をとると、人は自分にふたつの手があることに気づきます。

ひとつの手は、自分自身を助けるため、
もうひとつの手は他者を助けるために。

女性の美しさは 身にまとう服にあるのではなく、

その容姿でもなく、髪を梳くしぐさにあるのでもありません。

女性の美しさは、その人の瞳の奥にあるはずです。

そこは心の入り口であり、愛情のやどる場所でもあるからです。

女性の美しさは、顔のほくろなどに影響されるものではなく、その本当の美しさは その人の精神に反映されるものなのです。

それは心のこもった思いやりの気持ちであり、時として見せる情熱であり、その美しさは、年を追うごとに磨かれていくものなのです。

何より大事なのは人生を楽しむこと。幸せを感じることそれだけです!


正倉院の謎

2018-06-14 15:17:06 | 日記

由水常雄  『正倉院の謎』

 

1 初唐の独裁女帝 則天皇后は、太宗の死後、仏門に身を置いたが、再び、高宗の後宮に入り、ライヴァルの皇后や妃を次々と殺した。 病弱な高宗に代わり、政治の実権を握った。女傑である。

 

 半面、仏教を敬い、仏教を援助した。

 

光明皇后は、この則天皇后を尊敬。彼女を模範し、自らに反対する陰謀者を痛烈な言辞で罵倒し、杖殺した。

 

光明をモデルにした法華寺の十一面観音像の、あの恐ろしい眼ざしや居丈高な姿は、美談と貞淑な光明皇后とあまりに違いすぎる。果たして、どちらが真実か。

 

2  744年、聖武天皇が難波宮へ行幸したとき、付き添った安積親王が足を痛めたので、恭仁宮に引き返して休息したが、その翌日に急死。このときの、恭

仁宮の留守居役は藤原仲麻呂だった。

 

3 正倉院への献納品の主なものは、武器、武具、薬であり、次に多いのが鏡や屏風などの装厳具。

 

果たして、仏前への供え物にこのようなものを大量施入したのは、当然の行為なのか?

 

当時、疫病が大流行していたにも関わらずに。

 

4 藤原仲麻呂は、光明皇太后をかくれみのに使って、見事に無血革命を行った。

 

東大寺に奉納された宝物がいかに政権に強い関わりをもっていたか。

光明皇太后が聖武遺愛の宝物類の東大寺奉納が、藤原仲麻呂のクーデターのための手段に利用された。

 

 

5 藤原仲麻呂は東大寺への施入した献納物が、自分自身が下す命令で、いつでも取り出せるようにした。

仲麻呂のこうした陰謀を、橘諸兄の退陣、その息子の奈良麻呂の仲麻呂誅求と紫微中台の転覆計画事件で、予想外の展開となる。

密告によって、奈良麻呂の陰謀を未然に防いだ仲麻呂は、反対派の人物を次々と放逐した。最後には、実兄豊成をも連座させを追い、仲麻呂自ら右大臣となり、太政官に移る。

 

そうなると、紫微中台は、皇太后周辺の公事私事を行うだけの官庁にした。

 

仲麻呂は太政大臣なり、その権勢欲を成就した。

 

6 東大寺への献納品は、太政官の管轄していた武器や薬、各種荘厳具、屏風や鏡を取り上げて、一時の委託を図った仲麻呂の巧妙な無血クーデターのためじの謀略だった。

 

7 上皇側は、仲麻呂追討のために、宣を下して、正倉院に仲麻呂が自らのために確保しておいた旧内裏所蔵の武器、武具類を

出させ、それによって官軍を武装させた。

 

このときの追討軍の指揮官は、かつて仲麻呂に冷遇された九州の大宰府に送られた吉備真備だった。官軍は吉備真備の作戦で、仲麻呂の逃亡する背後のルートを遮断。仲麻呂軍を近江の高島郡三尾崎に封じ込め壊滅させた。

仲麻呂は、この地で正倉院に納めていた剣で自殺した。

 

8 正倉院宝物のスタートを形作った『東大寺献物帳』の奉納品は、光明皇后の美しい夫婦愛と篤い崇仏心、病者への慈愛に満ちた施薬などの慈善という美しい仮面をつけていたが、その内実は、藤原仲麻呂の権力奪取のために使われた、巧妙な道具にすぎなかった。

 

オスカー・ワイルドは、「人には仮面を与えよ、そうすれば真実を語るから」と言ったが、『東大寺献物帳』はそうした仮面をつけていたのである。

 

9 735年に疫病が大流行り。藤原四兄弟はあえなく病死。藤原氏ピンチ。

 

 知略にたける藤原仲麻呂は何とか、藤原氏の威力を奪回したい。そのため、使われたのが東大寺。

 藤原氏の血族の聖武天皇が東大寺を建立するが、崩御してしまった。「天下の富を保つものは朕なり」と聖武は言っていたのに。遺言に後継者の皇太子として、中立的な道祖王をたてるという。

 仲麻呂はそんなことになれば、藤原氏の滅亡にもつながりかねないと思う。

 

 藤原勢力挽回を謀った奇策が、藤原氏最後の橋頭堡が光明皇太后を擁立して、聖武帝の富である「国家の珍宝」、武器、薬物を、敵対する皇族勢力に渡さないで、中立である東大寺の正倉院に施入して、彼らの手の届かない所に入れてしまうことだった。

 

合わせて、政令を出せる「天皇御印」を、うまく奪ってしまうことだった。

 

国家珍宝や薬物の正倉院に奉納することと、天皇印を使用して大義名分を保ちたい、そのために、光明皇太后を利用しようと、仲麻呂は考えた。

 

10 常識から言って、疫病が大流行しているのに、大量の貴重薬をなぜ、東大寺に奉納するのか。異常な行為としか言えない。

 

仲麻呂と光明皇太后が窮余の策として、実行した謀略だった。無血革命のクーデターだった。

 

11 仲麻呂は大極殿や朝堂院の荘厳具を、持ち去り、東大寺の正倉院に入れてしまった。床に敷く花毛氈までも運び込まれた。

 

これはどいう意味を持つか。

 明治以後、西洋流の国会議事堂が作られたが、床には赤毛氈が敷かれ、立机や椅子が並べられた。こうせねば、西洋から軽蔑されるからだ。

 奈良時代は、西洋を唐に置き換えればよい。仲麻呂は唐風の調度を奪って、そっくりそのまま、東大寺正倉院に入れてしまったのである。国会議事堂そのまま乗っ取ったのと同様。

 

勅令、政令を出す内外印もなく、病者治療の薬も、討伐する武器も、議会を作る屏風も毛氈もない。そのすべてを、正倉院に。

これほど完璧なクーデタがあろうか。

 

さらに、仲麻呂はクーデタの最後の仕上げとして、平城京の大改築をする。

孝謙天皇を仲麻呂の邸宅田村宮に引っ越しさせる。

すると、国会議事堂にあたる大極殿も朝堂院もただの空堂。

 

そして、仲麻呂邸田村宮と光明皇太后の紫微中台が、政治中枢となる。

 

美しい微笑の樹下美人図の鳥ケ立女屏風も仲麻呂のクーデターの道具になる。

 

これを指摘した歴史家は今まで皆無だった。

 

12 平安時代に、嵯峨天皇がいる。彼は正倉院から屏風と白石を正倉院から出させた。わずかな金銭を払って、買い取ったのである。

 政治の実権を握った者がいかに、正倉院の宝物を私物視したか、自らの文化的厳具とした。

 

13 正倉院への宝物接近には、最高の政治権力者だけが許された。

 

14 平安時代の藤原道長は天皇以外に正倉院の宝物に手を付けることができなかったが、誰の断わりもなく、一介の入道者がこれを開封させた。おそらく、道長の好奇心からだろう。

 しかし、それ以後、天皇よりも政治の実権者が正倉院の扉を開くことになる。

 

 

現在、日本の総理になると、伊勢神宮に参拝するのと同様、真の天下をとった者だけが、正倉院の宝物を見ることができるという暗黙の掟が出来上がった。

 

15 家康の時代に正倉院に盗人が入り、捕まり、奈良の猿沢池のほとりに晒された。

 

16 正倉院には由緒不明の宝物が、厳重な管理下に置かれたのに、収納されているのかが謎だ。

 

17 正倉院は盗難にあったが、それ以上に開封の当事者の権力者が、何の記録も残さないで、持ち出した?

 

18 戸籍のない宝物が、大量に入ったり、増減を繰り返した奇怪な現象が正倉院に起こった。

 

19 正倉院に奉納された物を権力者は奪ったが、反対に納入した人々が大勢いた。誰が一体、納入したのか。

 

20 江戸時代に仏教界の堕落はすさまじい。加えて、江戸幕府は神社に配慮しなかった。神官は仏僧の影に隠れてみじめな存在だった。葬式も仏式のみ。神社側の仏寺仏僧に対する怨念はすさまじかった。

 

21 明治の伊藤博文は愛刀家だったが、正倉院の宝剣を持ち出し、返却しなかった?

 

22 1970年に、正倉院の撥尺の一本が奈良市の古美術商から天理参考館に持ち込まれた。しかし、どうしたことか、天理参考館の所蔵に帰さず、参考館に関係していた高名な考古学者の蔵にあった。現在は神奈川県所在の個人コレクターの手にある。

 

23 明治の権力者は政治的力はあっても、教養が足りない人が多かった。それを正倉院という文化の宝庫を使うことで、即席に高級なイメージを作り上げた。政治家は無教養では衆望を集められないのである。


6月12日(火)のつぶやき

2018-06-13 01:58:35 | 日記

読書方法の参考になった

2018-06-12 10:26:25 | 日記

エドワード・バンカー 『エドワード・バンカー自伝』

 

エドワード・バンカーは、学校へ通い出しひと月たつと、父から、家を出なければならない。借家を借りなければならないが、どこも借りられない。

だから、お前は養護施設かミリタリースクールに入れと言われる。

 

著者が監獄生活を長く送るが、そもそもの原因は 、子供の時に、飼っていた犬を経済的事情で、施設に預けると約束していながら、殺してしまった瞬間からだった、と言う。

 

 十一歳で鑑別所、十三歳で少年院、十七歳でサンクエンテイン刑務所へ。

 

 著者は三度服役し、計十八年の刑務所暮らし。

 

 しかし、エドワード・バンカーは普通の少年と違う能力が生まれつき備わっていた。

 めちゃくちゃな生活を送ったが、読解力は本来より二年上だった。

 

しかし、算数は平均以下で、50年以上たった今でも、算数の知識は子供時代とは変わらない。系統だって学ぶ種類は、ある知識が次の基礎となるからだった。

 

本人は、学校が大嫌いだったので、本を読む方が学校教育より上だ、と考えていた。

 

1  1950年代の監獄とはどんな所か

 

 監獄では、人種ごとに隔離されるが、同性愛者と殺人鬼はひとまとめだった。

 

 監獄では、腕っぷしが強いという評判は自分自身を守ってくれるが、いかれているとかっとなったら何をするかわからないという評判は芳しいものではない。自分の身や利益は自分で守れる人間だと周囲に思わせておくことが肝要なのだ。

 

チェスマンから著者は「刑務所では、誰かをばらすしか方法がなかったら、前から刺せ、背中からは刺すな。前からな正当防衛が主張できるからな」と。

 

十一歳で初めて鑑別所に送られた瞬間から、監獄で生き抜くための教育を受けて来た。

 

刑務所で実権を握るのは腕力ある者だ。人一人が、自分の身を守り,塀の中ではホッブス的闘争をして、刑務所での居場所を確保しなければならない。社会的階級、財産、家名というよろいは取り払われる。

刑務所では権利を侵害されても、名誉を棄損されても、法による救済はない。

 

収監者たちは、監房の鉄格子が解放される間、途切れることなくポーカーのゲームを続けた。配食の準備の間だけは監房が施錠される。

 

 

看守が顔を出す。「バケツの糞の片づけと、水の入れ替えだ」

「すぐ、行きます、ボス」私は看守に嫌われない言葉遣いを先達から叩き込まれた。

 

 カリフォルニア州法では、青酸ガスによる死を目前に控えた囚人は、処刑の前の晩、他の死刑囚と離れた場所に移動させる。世間でいう死刑台まで最後の一マイルは、実際は五歩分しかない。

サンクエンテイン刑務所ではあちこちに緑色の鉄の扉がある。その3フィート奥には、同じ緑色に塗られた扉があり、それを開けると八角形のガス室だ。

 

その時が来ると、モルヒネの注射がいいか、バーボンのダブルの注射がいいか、刑務所の医師が本人に確かめるという。

 

必ず金曜日の午前十時だった。ガス室デーだ。北監房棟の屋上に赤いランプが灯る。無事完了すると、緑のランプが誇らしげに空に輝く。

 

 鐘が鳴り、少し間をおいて、五階の受刑者たちが監房を出て鉄格子を閉める音が息の合わない一斉射撃のように轟いた。

 

 

 

 

2  印象に残ったシーン

 

 死刑を前に食事が運ばれた。ステーキやタマネギ、美味しそうな濃いコーヒーの抗しがたい匂いが漂った。めったに嗅がない匂いだけに、いよいよ強烈だ。ステーキと玉ねぎと挽いたばかりのコーヒーのためなら、どんなこともしただろう。

 

あの二人は美味しいものを食えても、それを消化して、便所に流す間もなく自分が死肉に変るのだ。

 

 死刑を目の前にして、終身刑になった人から著者は聞いた話では、「誰かが下に連れていかれて殺されるたびに、自分もそいつと一緒に死ぬ気がした。夜になるとそのたびにその気持ちが蘇った。そのうちついに観念して、もうこんなゲームはさっさとやめて僕を殺してくれとわめきたくなった」と。

 

3 この著者から学んだ事

 

小学校の七年生を最後に、学校教育を受けていない。貪るように本を読むのと、書くのとでは大違いだ。

 

物書きになるために、ハウツウ本も読んだ。その中で一番役立ったのは、ジャック・ウッドラフの本で、心の中にある場面を思い描き、そこに見たものをそのまま言葉に置き換えなさいと勧めていたことだった。

 

 著者はサマセット・モームの『ある作家の手帳』から多くの教訓を学んだ。少なくともたとえ一つでも実際に使える助言を見つけ出せれば、読んだ価値があると。

 

優れた小説家は道の闇に光を投げかけ、ほかの書物よりも人の心のひだの奥や暗黒を解き明かしてみせる。ドストエフスキーを読めば、フロイトを含めたどんな心理学者の著作よりも、賭博師、殺人者の人々の心理を深く理解できる。

 

 刑務所が鍛錬で幾人かの偉大な作家を生んだ。セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』の大部分は独房で書かれた。ドストエフスキーも死刑宣告され、取り消され、シベリア流刑になるまでは、平凡な作家だった。偉大な作品を残したのは、その体験の後だ。

 

 

 

 

 

 スタインベックが『怒りの葡萄』や『エデンの東』を何もない土地で書けたことから、著者は、朝までいた場所や自分の知っている人々のなかに、物語を探せるという。

 

 書くことこそ、新しいものを生み出せる唯一の手段だ、と気づいた。

 生まれつき負けず嫌いで、倒されても倒されても、意志に体がついてきてくれる限り、私は立ち上がる。

 

たくさんの喧嘩に勝てたのは、決してあきらめなかったからだ。だが同時にあきらめることを知らなかったので、時には手酷い暴行を受けたが。

 

 メセス・ウオリスは、他人の悩みをどうやって、解おい決しようかと考えていると、自分の傷も癒されるという。

 

 

4 はっとさせるシーン

 

 建前が剥がれ落ち、その人間の本質がむき出しになる世界が二つある。

 

一つは、戦場、もう一つは刑務所。

 

 

 刑務所から解放され、世の中にでて、著者は、家の鍵を差し込んで回しながら、ついに笑った。鍵をかけるという行為をしたのは、記憶にある限り、初めてだった。何だかおかしかった。

 

 拘置所に戻るバスの窓から、私は夜の街を食い入るように見入った。酒場の開けっ放しの扉、歩道に漏れ聞こえるバンドの演奏。

 

監獄での暮らしには、少なくとも一つだけ有益な側面があった。まるで芸術家のように新鮮な目で世の中をながめることが出来た

 

私を四人の警官が取り囲んだ。まるでラインバッカーみたいに私に体当たりする。

 

 

追跡劇の末に捕らえられた容疑者に暴行が加えられるのはいつものことだった。それもゲームの一部なのだ。憤りも感じず、感謝の念さえ覚えた

 

 

以上、興味をひいた箇所を書いてみた。

 

この著者は、六十歳を前後にして、子供をもうけ、小さい時から、書いたり、読む知能指数は抜群だった。

 

しかし、これほど多くの犯罪をおかし、よくここまで生き延びることが出来たものだと、思うと同時に、内面を見つめる能力はかなりのものだった。