由水常雄 『正倉院の謎』
1 初唐の独裁女帝 則天皇后は、太宗の死後、仏門に身を置いたが、再び、高宗の後宮に入り、ライヴァルの皇后や妃を次々と殺した。 病弱な高宗に代わり、政治の実権を握った。女傑である。
半面、仏教を敬い、仏教を援助した。
光明皇后は、この則天皇后を尊敬。彼女を模範し、自らに反対する陰謀者を痛烈な言辞で罵倒し、杖殺した。
光明をモデルにした法華寺の十一面観音像の、あの恐ろしい眼ざしや居丈高な姿は、美談と貞淑な光明皇后とあまりに違いすぎる。果たして、どちらが真実か。
2 744年、聖武天皇が難波宮へ行幸したとき、付き添った安積親王が足を痛めたので、恭仁宮に引き返して休息したが、その翌日に急死。このときの、恭
仁宮の留守居役は藤原仲麻呂だった。
3 正倉院への献納品の主なものは、武器、武具、薬であり、次に多いのが鏡や屏風などの装厳具。
果たして、仏前への供え物にこのようなものを大量施入したのは、当然の行為なのか?
当時、疫病が大流行していたにも関わらずに。
4 藤原仲麻呂は、光明皇太后をかくれみのに使って、見事に無血革命を行った。
東大寺に奉納された宝物がいかに政権に強い関わりをもっていたか。
光明皇太后が聖武遺愛の宝物類の東大寺奉納が、藤原仲麻呂のクーデターのための手段に利用された。
5 藤原仲麻呂は東大寺への施入した献納物が、自分自身が下す命令で、いつでも取り出せるようにした。
仲麻呂のこうした陰謀を、橘諸兄の退陣、その息子の奈良麻呂の仲麻呂誅求と紫微中台の転覆計画事件で、予想外の展開となる。
密告によって、奈良麻呂の陰謀を未然に防いだ仲麻呂は、反対派の人物を次々と放逐した。最後には、実兄豊成をも連座させを追い、仲麻呂自ら右大臣となり、太政官に移る。
そうなると、紫微中台は、皇太后周辺の公事私事を行うだけの官庁にした。
仲麻呂は太政大臣なり、その権勢欲を成就した。
6 東大寺への献納品は、太政官の管轄していた武器や薬、各種荘厳具、屏風や鏡を取り上げて、一時の委託を図った仲麻呂の巧妙な無血クーデターのためじの謀略だった。
7 上皇側は、仲麻呂追討のために、宣を下して、正倉院に仲麻呂が自らのために確保しておいた旧内裏所蔵の武器、武具類を
出させ、それによって官軍を武装させた。
このときの追討軍の指揮官は、かつて仲麻呂に冷遇された九州の大宰府に送られた吉備真備だった。官軍は吉備真備の作戦で、仲麻呂の逃亡する背後のルートを遮断。仲麻呂軍を近江の高島郡三尾崎に封じ込め壊滅させた。
仲麻呂は、この地で正倉院に納めていた剣で自殺した。
8 正倉院宝物のスタートを形作った『東大寺献物帳』の奉納品は、光明皇后の美しい夫婦愛と篤い崇仏心、病者への慈愛に満ちた施薬などの慈善という美しい仮面をつけていたが、その内実は、藤原仲麻呂の権力奪取のために使われた、巧妙な道具にすぎなかった。
オスカー・ワイルドは、「人には仮面を与えよ、そうすれば真実を語るから」と言ったが、『東大寺献物帳』はそうした仮面をつけていたのである。
9 735年に疫病が大流行り。藤原四兄弟はあえなく病死。藤原氏ピンチ。
知略にたける藤原仲麻呂は何とか、藤原氏の威力を奪回したい。そのため、使われたのが東大寺。
藤原氏の血族の聖武天皇が東大寺を建立するが、崩御してしまった。「天下の富を保つものは朕なり」と聖武は言っていたのに。遺言に後継者の皇太子として、中立的な道祖王をたてるという。
仲麻呂はそんなことになれば、藤原氏の滅亡にもつながりかねないと思う。
藤原勢力挽回を謀った奇策が、藤原氏最後の橋頭堡が光明皇太后を擁立して、聖武帝の富である「国家の珍宝」、武器、薬物を、敵対する皇族勢力に渡さないで、中立である東大寺の正倉院に施入して、彼らの手の届かない所に入れてしまうことだった。
合わせて、政令を出せる「天皇御印」を、うまく奪ってしまうことだった。
国家珍宝や薬物の正倉院に奉納することと、天皇印を使用して大義名分を保ちたい、そのために、光明皇太后を利用しようと、仲麻呂は考えた。
10 常識から言って、疫病が大流行しているのに、大量の貴重薬をなぜ、東大寺に奉納するのか。異常な行為としか言えない。
仲麻呂と光明皇太后が窮余の策として、実行した謀略だった。無血革命のクーデターだった。
11 仲麻呂は大極殿や朝堂院の荘厳具を、持ち去り、東大寺の正倉院に入れてしまった。床に敷く花毛氈までも運び込まれた。
これはどいう意味を持つか。
明治以後、西洋流の国会議事堂が作られたが、床には赤毛氈が敷かれ、立机や椅子が並べられた。こうせねば、西洋から軽蔑されるからだ。
奈良時代は、西洋を唐に置き換えればよい。仲麻呂は唐風の調度を奪って、そっくりそのまま、東大寺正倉院に入れてしまったのである。国会議事堂そのまま乗っ取ったのと同様。
勅令、政令を出す内外印もなく、病者治療の薬も、討伐する武器も、議会を作る屏風も毛氈もない。そのすべてを、正倉院に。
これほど完璧なクーデタがあろうか。
さらに、仲麻呂はクーデタの最後の仕上げとして、平城京の大改築をする。
孝謙天皇を仲麻呂の邸宅田村宮に引っ越しさせる。
すると、国会議事堂にあたる大極殿も朝堂院もただの空堂。
そして、仲麻呂邸田村宮と光明皇太后の紫微中台が、政治中枢となる。
美しい微笑の樹下美人図の鳥ケ立女屏風も仲麻呂のクーデターの道具になる。
これを指摘した歴史家は今まで皆無だった。
12 平安時代に、嵯峨天皇がいる。彼は正倉院から屏風と白石を正倉院から出させた。わずかな金銭を払って、買い取ったのである。
政治の実権を握った者がいかに、正倉院の宝物を私物視したか、自らの文化的厳具とした。
13 正倉院への宝物接近には、最高の政治権力者だけが許された。
14 平安時代の藤原道長は天皇以外に正倉院の宝物に手を付けることができなかったが、誰の断わりもなく、一介の入道者がこれを開封させた。おそらく、道長の好奇心からだろう。
しかし、それ以後、天皇よりも政治の実権者が正倉院の扉を開くことになる。
現在、日本の総理になると、伊勢神宮に参拝するのと同様、真の天下をとった者だけが、正倉院の宝物を見ることができるという暗黙の掟が出来上がった。
15 家康の時代に正倉院に盗人が入り、捕まり、奈良の猿沢池のほとりに晒された。
16 正倉院には由緒不明の宝物が、厳重な管理下に置かれたのに、収納されているのかが謎だ。
17 正倉院は盗難にあったが、それ以上に開封の当事者の権力者が、何の記録も残さないで、持ち出した?
18 戸籍のない宝物が、大量に入ったり、増減を繰り返した奇怪な現象が正倉院に起こった。
19 正倉院に奉納された物を権力者は奪ったが、反対に納入した人々が大勢いた。誰が一体、納入したのか。
20 江戸時代に仏教界の堕落はすさまじい。加えて、江戸幕府は神社に配慮しなかった。神官は仏僧の影に隠れてみじめな存在だった。葬式も仏式のみ。神社側の仏寺仏僧に対する怨念はすさまじかった。
21 明治の伊藤博文は愛刀家だったが、正倉院の宝剣を持ち出し、返却しなかった?
22 1970年に、正倉院の撥尺の一本が奈良市の古美術商から天理参考館に持ち込まれた。しかし、どうしたことか、天理参考館の所蔵に帰さず、参考館に関係していた高名な考古学者の蔵にあった。現在は神奈川県所在の個人コレクターの手にある。
23 明治の権力者は政治的力はあっても、教養が足りない人が多かった。それを正倉院という文化の宝庫を使うことで、即席に高級なイメージを作り上げた。政治家は無教養では衆望を集められないのである。