あのとき始まったもの――「心のケア」<上>仮設でマイク向けた記者は自衛隊の臨床心理士になった
山下吏良(りら)(35)は、昨年12月末、広島県江田島市の海上自衛隊幹部候補生学校を卒業した。2か月の訓練期間中、臨床心理士である山下に、上官や同僚がよく話し掛けてきた。何年も前に大災害現場で遺体収容に携わった体験を語り、「今でも涙が出る」「寒気がする」と。ひそめるような声の調子が、弱音を許されず、何年も抑え込んできただろうことを思わせた。
自衛隊が臨床心理士の採用を始めたのは2004年。山下を含め9人が隊員らのカウンセリングに当たる。ひたすら強くあることを求められてきた組織が今、隊員の「心のケア」に目を向ける。「以前なら考えられなかったこと」と、防衛省の担当者がいう。
日本人の「心」を取り巻く環境が、1995年1月17日の阪神大震災を機に一変した。山下はその震災を、テレビ局記者として体験している。
発生当初、神戸大学病院の呼びかけで全国から精神科医が駆け付けた。目的は慢性の精神疾患患者への支援で、一般被災者に起こる事態は想定していなかった。
幹部候補生学校卒業後、山下さんは海上幕僚監部所属となり、自殺した隊員の家族、同僚のケアに当たる(広島県江田島市で)=前田尚紀撮影 突然泣き出す人や余震に震えが止まらぬ人、不眠の人。医師らは、避難所の異変に驚いた。邦訳された数少ない専門書を奪い合うように読み、PTSD(心的外傷後ストレス障害)について学ぶと、まさに目の前で起こっていることが、それだった。
「PTSDについて詳しく知る精神科医はほとんどいなかった」。04年にできたPTSDの研究機関「兵庫県こころのケアセンター」副センター長、加藤寛(49)が打ち明ける。
ましてや一般の人が知るわけはない。
「何をする人たち」と、兵庫県臨床心理士会理事の高橋哲(56)らは避難所でよく質問された。カウンセリングだと説明し、話を聞こうとすると、「病気扱いするな」と煙たがられた。
だが、そんな空気は、急速に変わる。
おびただしい量の震災報道の中で、新聞やテレビはPTSDの事例を詳しく紹介した。「心のケア」というやわらかな言葉とともに、心の傷と癒やしへの関心が一気に高まった。
震災の年、文部省(現文部科学省)は子どもの心に目を配る学校カウンセラーを全国の小・中・高校に配置し始めた。
大きな事件事故や災害の際、自治体が臨床心理士会などに心のケアの専門家の派遣を要請することは、いわば定石となった。緊急時に学校に派遣できる精神科医や臨床心理士、保健師らの「こころの緊急支援チーム」を持つ自治体もある。
震災から10年近く後の04年10月、高橋は中越地震の被災地に駆け付けた。「よく来てくれた」と被災者に歓迎された。あの震災の影響の大きさを、つくづく感じずにはいられなかった。
テレビ局記者時代の山下の、痛恨の思い出。96年1月、震災1年の企画取材をしていた。神戸市内の仮設住宅で被災者にマイクを向けた。「あなたの夢や希望を教えて下さい」
「あるわけないやろ」。震災で妻を失った男性は、涙をうかべた。大きな喪失を体験した人に相対する覚悟も準備も、まるでなかったことを悔いた。
00年10月、別の局のキャスターとして、鳥取県西部地震を取材した。避難所で、今度はカメラを回さず、ぽつんと独りでいる高齢女性の隣に座った。
女性は、余震が怖く涙が止まらないことや、いつ家に帰れるかわからない不安を話し、「聞いてもらってホッとした。ありがとう」と、笑みをうかべた。
「人を癒やす仕事がしたい」。山下がテレビ局を辞めて臨床心理士になるために大学院に入学したのはその3年後。自衛隊を選んだのは、被災地のために黙々と汗を流していた隊員らの姿を思い出したから。
「自衛隊を泣きたいときに泣ける組織にしたい」と思う。
震災後に設置が始まった臨床心理士養成の大学院課程は、今146校。臨床心理士は震災前の4倍の約1万6000人に達する。精神科医や臨床心理士、保健師ら250人で02年に設立した「日本トラウマティック・ストレス学会」の会員は1200人になった。「心のケアバブルのよう」。震災前からPTSDに目を向けてきたある医師は、激変ぶりをそう言い表した。
心の傷に対処しようと策を重ねてきた13年。それは、私たちの心が何と寄る辺のないものかと知る道のりでもあった。
(敬称略)
見回せば、震災を機に生まれ、あるいは大きく変容したものがいくつもある。あの地震はどんな時代に起き、何を変えたのか。
(2008年01月11日 読売新聞)
あのとき始まったもの――「心のケア」<上> 阪神大震災13年 特集 関西発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
山下吏良(りら)(35)は、昨年12月末、広島県江田島市の海上自衛隊幹部候補生学校を卒業した。2か月の訓練期間中、臨床心理士である山下に、上官や同僚がよく話し掛けてきた。何年も前に大災害現場で遺体収容に携わった体験を語り、「今でも涙が出る」「寒気がする」と。ひそめるような声の調子が、弱音を許されず、何年も抑え込んできただろうことを思わせた。
自衛隊が臨床心理士の採用を始めたのは2004年。山下を含め9人が隊員らのカウンセリングに当たる。ひたすら強くあることを求められてきた組織が今、隊員の「心のケア」に目を向ける。「以前なら考えられなかったこと」と、防衛省の担当者がいう。
日本人の「心」を取り巻く環境が、1995年1月17日の阪神大震災を機に一変した。山下はその震災を、テレビ局記者として体験している。
発生当初、神戸大学病院の呼びかけで全国から精神科医が駆け付けた。目的は慢性の精神疾患患者への支援で、一般被災者に起こる事態は想定していなかった。
幹部候補生学校卒業後、山下さんは海上幕僚監部所属となり、自殺した隊員の家族、同僚のケアに当たる(広島県江田島市で)=前田尚紀撮影 突然泣き出す人や余震に震えが止まらぬ人、不眠の人。医師らは、避難所の異変に驚いた。邦訳された数少ない専門書を奪い合うように読み、PTSD(心的外傷後ストレス障害)について学ぶと、まさに目の前で起こっていることが、それだった。
「PTSDについて詳しく知る精神科医はほとんどいなかった」。04年にできたPTSDの研究機関「兵庫県こころのケアセンター」副センター長、加藤寛(49)が打ち明ける。
ましてや一般の人が知るわけはない。
「何をする人たち」と、兵庫県臨床心理士会理事の高橋哲(56)らは避難所でよく質問された。カウンセリングだと説明し、話を聞こうとすると、「病気扱いするな」と煙たがられた。
だが、そんな空気は、急速に変わる。
おびただしい量の震災報道の中で、新聞やテレビはPTSDの事例を詳しく紹介した。「心のケア」というやわらかな言葉とともに、心の傷と癒やしへの関心が一気に高まった。
震災の年、文部省(現文部科学省)は子どもの心に目を配る学校カウンセラーを全国の小・中・高校に配置し始めた。
大きな事件事故や災害の際、自治体が臨床心理士会などに心のケアの専門家の派遣を要請することは、いわば定石となった。緊急時に学校に派遣できる精神科医や臨床心理士、保健師らの「こころの緊急支援チーム」を持つ自治体もある。
震災から10年近く後の04年10月、高橋は中越地震の被災地に駆け付けた。「よく来てくれた」と被災者に歓迎された。あの震災の影響の大きさを、つくづく感じずにはいられなかった。
テレビ局記者時代の山下の、痛恨の思い出。96年1月、震災1年の企画取材をしていた。神戸市内の仮設住宅で被災者にマイクを向けた。「あなたの夢や希望を教えて下さい」
「あるわけないやろ」。震災で妻を失った男性は、涙をうかべた。大きな喪失を体験した人に相対する覚悟も準備も、まるでなかったことを悔いた。
00年10月、別の局のキャスターとして、鳥取県西部地震を取材した。避難所で、今度はカメラを回さず、ぽつんと独りでいる高齢女性の隣に座った。
女性は、余震が怖く涙が止まらないことや、いつ家に帰れるかわからない不安を話し、「聞いてもらってホッとした。ありがとう」と、笑みをうかべた。
「人を癒やす仕事がしたい」。山下がテレビ局を辞めて臨床心理士になるために大学院に入学したのはその3年後。自衛隊を選んだのは、被災地のために黙々と汗を流していた隊員らの姿を思い出したから。
「自衛隊を泣きたいときに泣ける組織にしたい」と思う。
震災後に設置が始まった臨床心理士養成の大学院課程は、今146校。臨床心理士は震災前の4倍の約1万6000人に達する。精神科医や臨床心理士、保健師ら250人で02年に設立した「日本トラウマティック・ストレス学会」の会員は1200人になった。「心のケアバブルのよう」。震災前からPTSDに目を向けてきたある医師は、激変ぶりをそう言い表した。
心の傷に対処しようと策を重ねてきた13年。それは、私たちの心が何と寄る辺のないものかと知る道のりでもあった。
(敬称略)
見回せば、震災を機に生まれ、あるいは大きく変容したものがいくつもある。あの地震はどんな時代に起き、何を変えたのか。
(2008年01月11日 読売新聞)
あのとき始まったもの――「心のケア」<上> 阪神大震災13年 特集 関西発 YOMIURI ONLINE(読売新聞)