「何かをやりたいと願い、それが実現するときというのは、不思議なくらい他人が気にならない。意識のなかから他人という概念がそっくりそのまま抜け落ちて、あとはもう、自分しかいない。自分がなにをやりたいかしかない。だれが馬鹿だとか、だれが実力不足だとか、だれがコネでのしあがったとか、だれが理解しないとか、だれが自分より上でだれが下かとか、本当にいっさい、頭のなかから消え失せる。それはなんだか、隅々まで陽にさらされた広大な野っぱらにいるような、すがすがしくも心細い、小便を漏らしてしまいそうな心持ちなのだ。自分を認めない誰かをこき下ろしているあいだはその野っぱらに決していくことはできないし、野っぱらをみることがなければほしいものはいつまでたっても手に入らない」
角田光代(くまちゃんより)
志木駅への往来に、取り壊しにただ一件最後まで残っていた金物屋が更地になっていた。
ウチの近所でも、病院が取り壊されて更地になっていたり。
昨日まであたりまえに存在していたものが取り壊され、なくなってしまうと、人の記憶からはおそらく急速に消えていってしまうものなのかもしれない。
存在しなければ、あたかも最初からなかったことが、既成事実のごとく。
人の一生も、ひょっとするとそのようなものなのかもしれない。
「両親が亡くなってみると、いままでそこに隠されていた、自分ではまだ直接見ることのなかった、「死」というものの地平が一気に開けて見える」
のだとか。
取り壊され、なくなって一気に開ける地平。
無と死
の、あいだのつかの間の生が
地平の彼方への旅路は
瞬く間に過ぎ行く夢か
紡いでゆく
ということなのだな
夢、希望、挫折、苦渋、
喜びも悲しみも
感動も絶望も
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