隊員NO.4まこで~す
10月10日(木)の加賀市観光ボランティア大学第13回講座 「『奥の細道』加賀路の
芭蕉-芭蕉と山中温泉-」で、講師の西島明正先生から、松尾「芭蕉」の名前の由来に
ついて教えていただきましたので、レポートします。
1644(正保元)年に今の三重県上野で生まれた松尾芭蕉は、29歳の時江戸へ出て、
専業の俳諧師を目指しました。31歳のときに、桃青(とうせい)を名乗り、33歳で、
俳諧師の師匠となりました。芭蕉は、俳諧の中心地・日本橋に居を定め、多くの弟子を
集めるようになります。しかし、当時の江戸の俳壇は、滑稽や華やかさなど、言葉遊びを
競う句ばかりが持てはやされ、師匠たちも弟子の数を競い合う状況だったそうです。
芭蕉は李白・杜甫らの漢詩に興味を持ち、自然や人生を織り込んだ、より芸術性の高い
俳諧を理想とするようになりました。そこで、彼はあえて江戸の中心地を離れ、町はずれの
静かな深川に粗末な草庵を結びました。そして草庵に「バショウ」の木を植えたところ、
見事な葉がつき評判となったことから、この草庵を「芭蕉庵」に改称したのでした。
松尾芭蕉は、この「バショウ」の木を自分に例えたといいます。
「バショウ」の幹は柱にもならないし、葉は全く役に立たない。わたしもこの「バショウ」と
同じような存在である。「夏炉冬扇(かろとうせん)」というが、わたしも夏の火鉢や冬の扇の
ように、日常生活には何の役にも立たない人間である。しかし、人生に役に立つ「無用の用」
のような俳人でありたい。
41歳のとき、「この旅で死んで悔いなし」という思いで、江戸→郷里・伊賀を旅し、
『野ざらし紀行』を著した芭蕉は、46歳になった1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)に
『奥の細道』の旅をスタートさせます。その『奥の細道』の有名なはじまりが、
「月日は百代の過客(くわかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり」
(月日は永遠の旅人であり、われわれの命というのも、旅人の命である)です。
尊敬する西行をしのび、旅の途中で死んだ先人(とくに源平合戦で亡くなった古人)の跡を巡り
ながら、各地の俳諧グループの仲間との「一期一会」を目的とする、門人曽良との二人旅が
始まりました。金沢で仲間と会い、小松市の多太神社で、篠原の合戦で亡くなった
斎藤別当実盛の遺品の兜(かぶと)を見て、
「むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす」
(もう秋です。実盛の兜の下で、コオロギが一匹鳴いていますが、このコオロギは実盛の霊かも
しれない。ああ、おいたわしい。)と詠んだ松尾芭蕉は、7月27日(新暦9月10日)に山中温泉に
入ります。串茶屋→七曲辻→動橋→庄→山代→二天を経て、4ヶ月近い旅の疲れを癒すために、
松尾芭蕉は8泊9日間もの間、山中温泉で過ごすのでした。