隊員NO.1あさので~す(^_^)v
課題研究の時間に勉強したことをもとに「加賀の一向一揆」についてレポートします。
1488年、加賀にできた「百姓の持ちたる国」は加賀周辺の守護大名にとって、
やっかいな存在でした。越前の朝倉氏、能登の畠山氏、越中を支配する越後の長尾氏などは、
「一向一揆」が自分たちの領土に拡大するのをとても警戒しました。というのも、
これらの国にも蓮如の教えを信じる本願寺の門徒がいっぱいいて、いつ自分の国の百姓が
加賀の人たちと手を結んで一揆を起こしてもおかしくなかったからです。
一方、これら有力大名に囲まれていた「加賀の一向一揆」は、
「よ~し、まわりの国も奪って、もっと百姓の持ちたる国を大きくしようぜ!」と
勢い込んでいたにちがいありません。
当時の日本は、中央政界において足利将軍家の跡取りをめぐって細川氏と畠山氏の二大勢力が
激しく対立していました。そして中央政界の動きは、蓮如の跡を継いだ
本願寺9世法主・実如(蓮如の五男)に大きく影響をおよぼしました。
実如は、権力闘争に巻き込まれる形で、全国各地にいる「一向一揆」につぎつぎと戦闘の指示を
出すことになります。ですから、「加賀の一向一揆」も周辺の大名たちと戦い続けます。
中でも越前(現在の福井県)一帯を支配していた朝倉氏とはいくどともなく死闘を重ねました。
越前の朝倉氏は、足利将軍に協力的であったことから、将軍家から破格の待遇をうけ、
のちに「名門」戦国大名に成長していきます。そして朝倉氏がつくりあげる城下町があの「一乗谷」で、
越前には「第二の京」とよばれるような薫り高い文化が花開いたといいます。
朝倉氏は、もともと室町時代後期に大きな力を持っていた斯波(しば)氏の一家臣にすぎませんでした。
しかし朝倉氏は世の中の混乱に乗じ、越前の守護代・甲斐氏を激戦のすえ破り、
文明年間(1471~88年)には越前の国を奪い取ります。朝倉氏はまさしく「下克上(げこくじょう)」の
時代を象徴する戦国大名だったのです。そんな朝倉氏のことを越前の武士たちの中には
「主君を裏切った最低のヤツだ!」とうらむ人もいました。このとき破れた甲斐氏の残党は
加賀の国に逃げ、「加賀の一向一揆」と協力し、越前の奪還をねらったといいます。
1506(永正3)年7月、「一向一揆」と朝倉氏の大激突が起こります。加賀・能登・越中からやってきた
「一向一揆」の数はなんと30万人。関ヶ原の戦いでさえ16万人だったといいますから、
とんでもない数です。「一向一揆」は、蓮如ゆかりの越前の藤島超勝寺と和田本覚寺の二寺を助けて、
「吉崎御坊」のある越前にも「百姓の持ちたる国」をつくろうとしました。
この戦いを「九頭竜川の戦い」というそうです。
しかし、このたたかいで「一向一揆」は大敗北を喫します。死者の数は約20万人。
朝倉方はたった1万2千人の兵力であったにもかかわらず、九頭竜川の流れを巧みに計算し、
奇襲攻撃を仕掛けて「一向一揆」に圧勝したのでした。
この戦いで、朝倉氏は吉崎御坊や本願寺派の寺院を徹底的に破壊しました。越前では厳重な
本願寺派の禁止政策をとり、和田本覚寺、藤島超勝寺は加賀国に亡命することになりました。
(おまけ)
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