実高ふれ愛隊日記

-石川県立大聖寺実業高校情報ビジネス科課題研究ブログ-

「実盛塚」・800年も語り継がれているドラマ

2013年11月23日 | 日記

隊員NO.5いくので~す

11月16日(土)の加賀市観光ボランティア大学16回講座で、片山津にお住まいの

枷場達雄さんから、「実盛塚」にまつわるお話をいっぱい教えていただきました。

 実盛塚」にはとっても大きな松の木が立っていました。「首掛けの松」というそうです。

平成のはじめ頃に、もっとも木の勢いがあったそうですが、今は松の枝を守るための

添え木がたくさん立っています。案内板には、「実盛塚」を訪れた歌人・与謝野晶子が

詠んだ歌が紹介されていました。

「北海が盛りたる砂にあらずして 木曽の冠者がきづきつる塚」

そして解説には、「康應2年(1390)時宗総本山(相模藤沢の清浄光寺)14世遊行上人

太空が此の地へ来錫の節、実盛の亡霊が現われ上人の回向を受けて妄執をはらし、

上人は実盛に「真阿」という法名を与えられたと伝えている。以来歴代の遊行上人が

加賀路を巡錫(じゅんしゃく)の節には必ず立ち寄って此の塚に回向された。

謡曲「実盛」はこれらの伝説に基づいて作られたものである。」と書かれていました。

ここに書かれている「実盛」という謡曲は、能の大成者・世阿弥(1363?~1443?)が

つくったもので、『平家物語』に忠実に従って、ストーリーが描かれています。そして

遊行上人とは、「踊り念仏」で有名な一遍が開いた時宗の僧で、時宗は鎌倉時代

後期から南北朝時代にかけて、とても隆盛していたそうです。

謡曲「実盛」では、次のようなドラマが語られています。

篠原の戦いの200年後、ここ篠原の地で、一人の上人が数日説法していると、

不思議なことに、他の人には見えなくて、その上人だけが見ることができる一人の

老人があらわれます。毎日その説法を熱心に聞いているので、上人がその名を尋ねた

ところ、老人は周囲の人を遠ざけたあと、「わたしは実盛の幽霊である。木曽義仲と

対決する前に、手塚太郎光盛に討たれてしまったことが無念で、わたしの魂は今も

漂ったままなのだ」とその思いを語りました。

そこで上人は実盛の首を洗ったという池のほとりで、一生懸命に弔いをしたところ、

実盛の幽霊が今度は甲冑に身を固めた武将姿で再びあらわれ、篠原の戦いのありさまを

語り、跡を弔って下さいと願い出た後、「南無阿弥陀仏」の声のうちに、その姿を静かに

消していくのでした。」

きっと実盛の幽霊の無念は遊行上人の弔いによって、鎮められたのでしょうね。

毎年8月の片山津温泉「湯のまつり」の際に、地元片山津中学校の女子生徒が

ここ「実盛塚」の前で、「篠原慕情」の踊りを披露し、実盛の供養を行っているそうです。

800年以上前の斎藤実盛の武士らしい気概は、いついつまでも「実盛塚」で

語り継がれていくのでしょうね。

〈追伸〉11月23日(土)11時15分から放送される石川テレビの『ふれあい空間 いしかわ

という番組で、わたしたち実高ふれ愛隊加賀市観光ボランティア大学の活動が紹介され

ます。よろしければ、番組を見てください!お願いしま~す!!

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