ヨーロッパの限りない大地

ヨーロッパの色々な都市を訪問した思い出をつづっていきたいです。

パリ時間旅行 鹿島茂 著 (後半)

2024-02-03 21:05:25 | パリの思い出

Ⅲ 写真、スポーツ

マルヴィルのパリ

現在のパリの街並みは1853年頃から約20年ほどのあいだに、旧来の街並みを人為的にすべて破壊したうえで、綿密な設計図に基づいて建設されたもの。

カルチェ・ラタンやマレ地区に一部過去の街並みが残っているだけ。

 

失われたパリを写した写真家、ウジューヌ・アジェ

彼の作品は大改造後の世紀末からベル・エポックにかけての二十世紀のパリ

 

シャルル・マルヴィルの作品がバルザックやユゴーのパリ、つまり大改造以前の失われたパリを残している。

 

パリ民衆の反抗精神に対してナポレオンⅢ世のとった方法

・中心部と東部の人口密集地区を街区ごと破壊し、ここに大砲を通すことのできるような広い真っすぐな道路を通す

・街はずれに健康的で清潔な低家賃の労働者住宅を建設し、ここに労働者を送る。

 

マルヴィルは、当局の指示に従って、取り壊しの決まっている通りを両端から、工事前、工事中、工事後というように、三段階にわけて撮影している。

当局は工事後の写真を強調したかったが、後世は工事前の写真を賞賛した。

 

オスマンの言う通り、もし、パリが改造されずに、現在も中世そのままの姿で残っていたら、ヴェネツィアのように旧市街は観光客専用として自動車乗り入れ禁止に出もしない限り、都市としては機能しなかっただろう。

しかしマルヴィルに写真を撮らせたことは、オスマンの失策ではなかったか。

 

写真の感動的な点は、しんと静まり返った光景の中に、ぽつんと見える人影である。

 

著者の完全な推量では、もしかすると、マルヴィルはバルザックの《人間喜劇》の熱心な読者ではなかろうか。

バルザックが様々な小説の中で取り上げている路地が、マルヴィルの撮影しているそれとあまりに見事に符合している。

 

 

フランスのスポーツ

普仏戦争の敗北で、フランスも近代的な身体訓練つまり体操を軍隊や学校に積極的に導入しようとした。

 

スポーツを巡る19世紀末の言説

・フランスの軍隊式体育をイギリス風の自由なスポーツ精神によって打破しようとする左派(自由派)

・自我、克己心、民族、祖国などの価値を高めるためにスポーツを利用しようとする右派(国粋派)

 

クーベルタンは第一回オリンピックを1900年のパリ万博に合わせてパリで開催しようと考えたが、間が空きすぎるということで第一回大会はオリンピック発祥の地アテネで行われ、大成功をおさめたが、パリでの第二回はほとんど話題を呼ばなかった。

当初の目論見どおり、第一回がパリで行われていたら、現在オリンピックは存在しなかったかもしれない。

 

日本と違ってフランスの自転車レースはトラックではなくツールドフランスなどのロードレースが主体となっている理由

・古くから長距離の乗合馬車が運航していたおかげで都市間の道路が舗装されていた

・国土が平坦で起伏が乏しい

・自転車は都市生活者が広々とした田園に出てきれいな空気を吸い込むための道具という考え方が根底にあったので、わざわざ狭い競輪場に閉じこもってレースをするという発想が生まれなかった

 

ラグビーは1890年頃イギリスから輸入、1910年創設の五か国対抗の人気の高まり同時にプロスポーツ化が進んだ。

 

サッカーも同じ頃イギリスから導入されたが、その手軽さから現在も国技といえるほどの人気と競技人口をもっている。

 

あとがき

パリという街は、過去と現在が理想的な形で混在している特権的な都市

ヴェネツィアのように過去がそのまま手つかずの状態で残っているわけでもなく、かといって東京のように過去が痕跡もとどめていないというのでもなく、いわば過去と現在が幸福に絡み合って、過去再構築の欲望を喚起してやまない時間のモザイク都市。

 

 

 

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パリ時間旅行 鹿島茂 著 (前半)

2024-02-02 20:53:44 | パリの思い出

パリ時間旅行

鹿島茂 著

筑摩書房 発行

1993年6月1日初版第1刷発行

 

この本では、パリの中に穿たれた、パサージュ、街灯、あるいは単に光、音、匂いなどというタイム・トンネルを通ってこの時間都市に旅をして、たっぷりと十九世紀の空気を吸い込んでいくことを目的としている、とのことです。

 

Ⅰ パリの時間旅行者

パリの時間隧道(パサージュ)

パリの建物は条例により高さが地域で一定している。そのせいか、屋根裏部屋の窓から眺めるとほとんど視界を妨げるものがない。

 

パサージュというのは、通りと通りを結ぶ一種のアーケードの商店街で、十八世紀の末から十九世紀の前半にかけて建設された鉄とガラスの建築

パリのパサージュはどれもいたって小規模で、しかも、例外なく寂れきっている。そして、その寂れ方が尋常ではないのである。それこそ、寂れ寂れて百五十年、というように、寂れ方にも年期が入っている。

 

パサージュは十九世紀の化石だが、左岸ではパサージュはすでに全滅している。

 

パレ・ロワイヤルの寂れ方は、パサージュ以上である。

パレ・ロワイヤルは十九世紀の古戦場である。とにかく、ここには人間の気配すら感じられない。

(この中庭で、のんびり昼休みを過ごしたのは懐かしい思い出です)

 

ボードレールの時代への旅

1853年はボードレールの時代のパリ

 

ベル・エポックの残響

1910年の初め、『失われた時を求めて』の執筆に全力を注ぐことを決意するプルースト

 

当時のガラクタ市を訪れた骨董好きが薄汚れたバイオリンを数フランで買ったが、のちにそれはストラディヴァリウスであることが判明した。

この噂が立って以来、パリ中の人間たちが、さながらゴールドラッシュのように、クリニャンクール門やモンスール門に立つ蚤の市に押し掛けた。

 

トラムウェイは、最初、二階建ての大型乗合馬車を軌道に乗せて、これを馬が牽引する鉄道馬車の形をとっていたが、やがて動力は蒸気や圧縮空気に、ついで電気に変わった。

 

Ⅱ パリの匂い、パリの光

香水の誕生あるいは芳香と悪臭の弁証法

 

清潔の心性史

 

パリの闇を開く光

固定した公共照明がパリに出現するのは、1667年、太陽王ルイ14世が、絶対王政の象徴として二千七百個のランテルヌ灯の街灯設置を命じたときのことである。

ランテルヌ灯はガラスをはめた角灯に一本の蝋燭がともされてるだけの照明

 

1760年頃、あらたにれレヴェルベール灯という灯油ランプによる街灯が発明される。街路をまたいで両側の建物の間に張られた綱の中央に吊るされてた。

 

パリの街路照明に革命をもたらしたのは、1830年頃から公共用街灯として用いられるようになったガス灯である。

 

灯柱はガス灯がレヴェルベール灯に取って代わった時に初めて登場した。

レヴェルベール灯は灯油だったので、ランピストと呼ばれる点灯夫が、毎日一定量を給油していたのだが、ガス灯では、ガス工場で製造したガスを地下のパイプを通して常時ランタンまで運んでいた。そのため灯柱が必要となった。

そして電気照明になっても灯柱が必要となるため、そのままパリ風景が残った。

そしてパリの夜が味気ない蛍光灯で照らされずにすんだ。

 

陰翳礼讃あるいは蛍光灯断罪

 

ミステリー「モーツァルトの馬車」

17世紀の中頃までは、都市交通に最も必要な二つのものが決定的に欠けていた。

・整備された舗装道路

・人間が安楽に乗ることのできる馬車

舗装道路は、17世紀においては、ローマ時代よりはるかに劣っていた。

 

18世紀、馬車もスプリングが改良された。

 

もし、モーツァルトが二十年早く、18世紀の前半に生まれていたら、あれだけの大旅行が物理的に可能だったかどうか。

また、モーツァルトが二十年遅く生まれていたら、石版印刷の出現で楽譜の出版による印税が可能だったから、モーツァルトほど旅行する必要がなかった。

 

モーツァルト親子が残した膨大な書簡は、18世紀後半のヨーロッパ社会を理解する上で、またとない一級の資料となっている。

 

18世紀後半の旅行手段として可能だったもの

・川船

・自家用馬車

・貸し馬車

・駅逓馬車(駅馬車)

・郵便馬車

 

馬車というと、御者と馬が自動的に付いているものと考えるが、これは駅逓馬車のような乗合馬車以外にはありえず、普通は自家用馬車でも貸し馬車でも、馬と御者のセットを宿駅ごとに雇わなければならなかった。

 

貸し馬車は寒さがひどかった。また、安全性もなかった。

 

駅馬車は乗り心地が最低だった。

 

郵便馬車は19世紀の前半には旅客輸送の一翼を担うことになるが、少なくともまだフランスでは、モーツァルトの時代には、郵便の配達が専門で旅客は乗せていなかったようだ。

したがって、モーツァルトの手紙によく登場する「終わりにしなくてはいけません。郵便馬車が出発します」という言葉は、郵便馬車に乗るのではなく、手紙を郵便馬車に託すという意味なのではないか。

 

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