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聖母の都市シエナ 第一部 都市国家

2023-10-06 20:39:01 | ヨーロッパあれこれ

 

聖母の都市シエナ

中世イタリアの都市国家と美術

石鍋真澄 著

吉川弘文館 発行

昭和63年4月10日 初版発行

 

本書は、まず十三世紀末から十四世紀前半のシエナの都市国家体制とその市民たちの姿を生き生きと語り、つづいてシエナの市民たちがいかにして都市を整備し、大聖堂や市庁舎を建設したかを詳説し、最後にドォッチョ、シモーネ・マルティーニ、アンブロジオ・ロレンツェッティというシエナの生んだ三人の偉大な画家とその作品を、社会との関連において考察しています。

 

まえがき

中世のシエナは、三つのすぐれた「作品」を創造した。

すなわち、美術作品と都市そのもの、そして「ノーヴェ」体制による都市国家、という作品である。

 

第一部 都市国家

第一章 モンタペルティの戦い

ダンテの時代、つまり大小の都市国家(コムーネ)が拮抗しあった中世後期のイタリアは、奴隷制度の有無などいくつかの基本的な違いはあるものの、多数の都市国家(ポリス)が拮抗しあった古典期(前六ー前四世紀)のギリシャと類似していた。

 

十三世紀のシエナとフィレンツェの抗争の天王山であった、1260年のモンタペルティの戦い。

この戦いは中世シエナ史上最も名高いばかりでなく、一時代を画する出来事だった。

 

シエナの人々は愛国心から都市の起源を、ローマ建国の神話に関係するおおかみの神話に結びつけようとした。

 

またセノーネス族の傭兵隊長が、今日シエナのあるところに老兵と負傷兵を残していったというシエナの起源説がある。

おそらくシエナのライヴァル都市、たぶんフィレンツェで作られた話に基づくのだろう。

実際の史実はよくわからない。ひとまず古代においてはシエナはさして重要な都市ではなかった。

しかしランゴバルド時代(568-774)、シエナが重要性を持つようになる。

 

教皇グレゴリウス9世(1227-41在位)が、十字軍の戦費に充てるため、アルプス以北の十分の一税の徴収をシエナの銀行家にまかせたことである。

その後のシエナは、13世紀後半になって、フィレンツェに凌駕されるまで、ヨーロッパにおける金融業の一大中心地となって栄えた。

ローマまで220キロあまり、歴代の教皇が好んで滞在したヴィテルボまで120キロというシエナの地の利も大きかった。

 

モンタペルティの戦いシエナとフィレンツェの戦いであったと同時に、トスカナにおけるグエルフィ(教皇党)とギベッリーニ(皇帝党)の争いの天王山でもあった。

中世史の黒幕は教皇と神聖ローマ皇帝である。

 

シエナの人々はモンタペルティの戦いに先立って市を聖母に捧げたことを忘れず、勝利を聖母の加護のおかげと考えた。

だから戦いの後に新しい銀貨が鋳造されたとき、従来の銘「古きシエナ」に「聖母の都市」と付け加えた。

この時からシエナは聖母の都市となった。

 

第二章 「ノーヴェ」体制

イタリアの成り立ちの重要なポイント

・古代ローマの統一的支配

・対立しあう中世都市国家群の興隆

・19世紀のリソルジメントによる統一国家の形成と近代化

 

コムーネはそもそも、近代の民族国家からは想像もできないほどの矛盾をはらんでいた。

コムーネはその内部にグエルフィやギベッリーニといった党派や、騎士団、町人団などの結社、あるいは諸ギルドといったように、独自のコンソリと司法権を持つ、ある意味でコムーネ自体とよく似た組織構造の諸団体を抱えていたため、最もうまく治められている時でさえ、事があればたちまち無政府状態におちいる危険性をはらんだものだった。

 

このようなコムーネそのものがもつ不整合性のために、中世の都市国家においては政権が目まぐるしく変わるのを常とした。

1287年から1355年まで、ほぼ70年続いたシエナの「ノーヴェ(九人)」体制は、むしろ例外的だった。

「総督」を中心とする独特な体制を維持し続けたヴェネツィア共和国を除けば、この「ノーヴェ」体制は中世およびルネッサンスをとおして最も長期間続いた共和体制だった。

 

かのモンタペルティの英雄として、カリスマ的にシエナとトスカナに君臨したプロヴェンツァーノ・サルヴァーニが、捕らえられた友人の身代金を集めようと裸足でカンポ広場に立った姿を、ダンテは『神曲』の煉獄編で歌っている。

栄耀栄華をきわめていたころ

 彼は恥も外聞もいっさい捨てて

 自ら進んでシエナの広場に立った

シャルルの獄中に呻吟する友を

 救い出すために〔彼は皆に喜捨を乞い〕

 しまいには全身の血管が〔恥ずかしさに〕ふるえた

このあわれなプロヴェンツァーノ・サルヴァーニの姿そのままに、トスカナにおけるシエナの覇権は崩れきったのである。

(この場面、ダンテはプロヴェンツァーノ・サルヴァーニの姿を、ある意味称賛していたようにも思えるのですが)

 

どんなに大商人や銀行家の活動が目立とうとも、中世経済の基盤は農業にあったということを示しているように思われる。

つまり、イタリア中世の都市国家の原動力は、まずもってコンタードの豊かさにあったのだ。

大商人たちの国際的活動は派手で資料も豊富なために、いささか強調されすぎたきらいがある。だが、それでさえ、基本的には、地域の経済活動の延長上に成り立っていたことを忘れるべきではない。

 

第三章 市民たち

シエナは人も知る宗教活動のメッカで、教皇庁をアヴィニョンからローマへ連れ戻したことで名高い聖女カテリーナをはじめ、多くの聖人・福者を輩出し、またルネッサンスの人文主義教皇として有名なピウス二世やベルニーニの偉大なパトロンだったアレクサンドル七世など、少なくとも9人の教皇を生んでいる。

 

1348年の春、黒死病の襲来により、シエナの政治経済活動はほぼ完全に停止し、羊毛業の生産はほとんどゼロに落ち込む。