経営者には意志決定が迫られる場面は日常的にある。
その際、人々の意見に耳を傾けるのも悪くはないだろう。
だが、最終的な決断は誰が下すのか?
そして、その責任は誰が取るのか?
最高法院で死刑を宣告されたイエスは総督のもとに送られた。
当時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤでは、
総督の許可なしで死刑執行はできなかったからである。
当時の総督としてユダヤに赴任していたのはピラトという男だった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
さて、イエスは総督の前に立たれた。
総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、
イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
祭司長たちや長老たちから訴えられている間、
これには何もお答えにならなかった。
するとピラトは、
「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、
総督は非常に不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、
総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
ピラトは、人々が集まって来たときに言った。
「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。
それともメシアといわれるイエスか。」
人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。
「あの正しい人に関係しないでください。
その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
しかし、祭司長たちや長老たちは、
バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、
人々は、「バラバを」と言った。
ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」
と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、
群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、
かえって騒動が起こりそうなのを見て、
水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
そこで、ピラトはバラバを釈放し、
イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
マタイによる福音書27:11-26
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ピラトは尋問の末、イエスが引き渡されたのは、
祭司長、長老らの「ねたみのためだ」と察知した。
イエスには死刑に当たるような罪はないと判断したのだ。
彼はその場でイエスを釈放する権限を持っていた。
しかし、ここでピラトは民衆に判断を委ねようとする。
人気取り、あるいは事なかれ主義に走ったのだろうか?
その日はちょうど過越祭という祭りの日だった。
ピラトは祭りのたびに、民衆の希望する囚人を釈放することにしていた。
ピラトは、暴動と殺人の罪で収監されていたバラバ・イエス
という囚人を引き合いに出し、人々に問いかけた。
イエスとバラバ、どちらを釈放してほしいかと。
ここで祭司長、長老らは群衆を扇動する。
「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」ピラトの問いかけに対し、
なんと群衆は「バラバを」と答えた。
「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と問うと、
群衆は「十字架につけろ」と答えた。
「いったいどんな悪事を働いたというのか」とピラトが呼びかけても、
群衆は、ますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けるのだった。
「それ以上言っても無駄」、「騒動が起こりそう」
との思いに駆られたピラトは、群衆の圧力に押し切られてしまう。
その結果、バラバ・イエスを釈放し、
キリスト・イエスを十字架につけることにした。
何たることか。
もし、彼が自分の判断に自信を持ち、敢然と行動していたら、
イエスはこの日、十字架にかからずにすんだであろう。
ねたみに燃えた祭司長、長老たち、
彼らの扇動に無責任に乗ってしまった群衆、
群衆の圧力に屈した総督。
それぞれの罪により、イエスは十字架にかかった。
ピラトは罪の悪循環を断ち切る最後の砦であったのにもかかわらず、
見事に流されてしまった。
「わたしには責任がない」とは言えないはずだ。
他人の目を気にした日和見主義的なリーダーシップは組織を迷走させる。
あなたはピラトのようなリーダーか?
もしそうならば、汚名を後世に残す覚悟をしておいた方がいいだろう。
その際、人々の意見に耳を傾けるのも悪くはないだろう。
だが、最終的な決断は誰が下すのか?
そして、その責任は誰が取るのか?
最高法院で死刑を宣告されたイエスは総督のもとに送られた。
当時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤでは、
総督の許可なしで死刑執行はできなかったからである。
当時の総督としてユダヤに赴任していたのはピラトという男だった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
さて、イエスは総督の前に立たれた。
総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、
イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
祭司長たちや長老たちから訴えられている間、
これには何もお答えにならなかった。
するとピラトは、
「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、
総督は非常に不思議に思った。
ところで、祭りの度ごとに、
総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
ピラトは、人々が集まって来たときに言った。
「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。
それともメシアといわれるイエスか。」
人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。
「あの正しい人に関係しないでください。
その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
しかし、祭司長たちや長老たちは、
バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、
人々は、「バラバを」と言った。
ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」
と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、
群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、
かえって騒動が起こりそうなのを見て、
水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
そこで、ピラトはバラバを釈放し、
イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
マタイによる福音書27:11-26
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ピラトは尋問の末、イエスが引き渡されたのは、
祭司長、長老らの「ねたみのためだ」と察知した。
イエスには死刑に当たるような罪はないと判断したのだ。
彼はその場でイエスを釈放する権限を持っていた。
しかし、ここでピラトは民衆に判断を委ねようとする。
人気取り、あるいは事なかれ主義に走ったのだろうか?
その日はちょうど過越祭という祭りの日だった。
ピラトは祭りのたびに、民衆の希望する囚人を釈放することにしていた。
ピラトは、暴動と殺人の罪で収監されていたバラバ・イエス
という囚人を引き合いに出し、人々に問いかけた。
イエスとバラバ、どちらを釈放してほしいかと。
ここで祭司長、長老らは群衆を扇動する。
「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」ピラトの問いかけに対し、
なんと群衆は「バラバを」と答えた。
「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と問うと、
群衆は「十字架につけろ」と答えた。
「いったいどんな悪事を働いたというのか」とピラトが呼びかけても、
群衆は、ますます激しく「十字架につけろ」と叫び続けるのだった。
「それ以上言っても無駄」、「騒動が起こりそう」
との思いに駆られたピラトは、群衆の圧力に押し切られてしまう。
その結果、バラバ・イエスを釈放し、
キリスト・イエスを十字架につけることにした。
何たることか。
もし、彼が自分の判断に自信を持ち、敢然と行動していたら、
イエスはこの日、十字架にかからずにすんだであろう。
ねたみに燃えた祭司長、長老たち、
彼らの扇動に無責任に乗ってしまった群衆、
群衆の圧力に屈した総督。
それぞれの罪により、イエスは十字架にかかった。
ピラトは罪の悪循環を断ち切る最後の砦であったのにもかかわらず、
見事に流されてしまった。
「わたしには責任がない」とは言えないはずだ。
他人の目を気にした日和見主義的なリーダーシップは組織を迷走させる。
あなたはピラトのようなリーダーか?
もしそうならば、汚名を後世に残す覚悟をしておいた方がいいだろう。