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経営者のための聖書講座

永遠のベストセラー、聖書からビジネスのヒントを学ぶ

No.139 預言者たち~エゼキエル(5):ES(従業員満足)

2008-09-25 10:39:16 | エゼキエル
最近は、CS(顧客満足)だけでなくES(従業員満足)が注目されている。
いくら優れた経営戦略を立てても、
それを実行する社員のやる気が低下していては、
期待する成果を出すことができない。
経営者として普段から従業員をどれほど顧みているだろう?

イスラエルの指導者たちに対し語られた主の言葉がある。
ここでは指導者が牧者、民が羊の群れにたとえられている。
エゼキエルに託された以下の言葉を読んでみよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「人の子よ、イスラエルの牧者たちに対して預言し、
 牧者である彼らに語りなさい。
 主なる神はこう言われる。
 災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。
 牧者は群れを養うべきではないか。
 お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、
 群れを養おうとはしない。
 お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、
 傷ついたものを包んでやらなかった。
 また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、
 かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。

 彼らは飼う者がいないので散らされ、
 あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。
 わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。
 また、わたしの群れは地の全面に散らされ、
 だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない。

 それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。
 わたしは生きている、と主なる神は言われる。
 まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、
 あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、
 わたしの牧者たちは群れを探しもしない。
 牧者は群れを養わず、自分自身を養っている。

 それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。
 主なる神はこう言われる。
 見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。
 わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。
 牧者たちが、自分自身を養うことはもはやできない。
 わたしが彼らの口から群れを救い出し、彼らの餌食にはさせないからだ。

  エゼキエル34:2-10
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


指導者たちは自分自身を養い、民を顧みていなかった。

自分自身は豪奢な生活をしながら、
弱い者、病める者、傷ついた者を助けなかった。
追われた者を連れ戻さず、かえって力ずくで苛酷に民を支配した。

それゆえ主は、指導者たちから民を解放し、
彼らが指導者であることをやめさせた。

主は民を憐れんでおられた。
指導者たちがその本来の役割を果たしていないのを憤っておられた。


国を会社に置き換えてみよう。

主は社員が大切にされていない会社をどう見ておられるだろう?
その経営者に対する仕打ちは何だろう?



No.138 預言者たち~エゼキエル(4):見張りの役目

2008-09-22 11:52:52 | エゼキエル
より遠くが見える人、
より広い視野を持った人、
常人とは異なった「周波数帯」で情報をキャッチする人、
そういう人が稀にいる。

「見張り」について語られている箇所がエゼキエル書の中にある。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
主の言葉がわたしに臨んだ。
「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、彼らに言いなさい。
わたしがある国に向かって剣を送るとき、
その国の民は彼らの中から一人の人を選んで見張りとする。

彼は剣が国に向かって臨むのを見ると、角笛を吹き鳴らして民に警告する。
角笛の音を聞いた者が、聞いていながら警告を受け入れず、
剣が彼に臨んで彼を殺したなら、血の責任は彼自身にある。
彼は角笛の音を聞いても警告を受け入れなかったのだから、血の責任は彼にある。
彼が警告を受け入れていれば、自分の命を救いえたはずである。

しかし、見張りが、剣の臨むのを見ながら、角笛を吹かず、
民が警告を受けぬままに剣が臨み、彼らのうちから一人の命でも奪われるなら、
たとえその人は自分の罪のゆえに死んだとしても、
血の責任をわたしは見張りの手に求める。

人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張りとした。
あなたが、わたしの口から言葉を聞いたなら、
わたしの警告を彼らに伝えねばならない。
わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、
あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、
悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。
しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、
彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、
あなたは自分の命を救う。

 エゼキエル33:1- 9
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


見張りの役目は何だろう?
剣が臨むのを見たら角笛を吹くことだ。
そこまでが彼の責任であり、人々がどう反応するかまでは責任を問われない。

角笛の音を聞いたのに警告を受け入れず剣の餌食になった者がいれば、
その血の責任は警告を受け入れなかった者自身にある。

しかし、剣が臨んでいるのを知っていながら見張りが角笛を吹かず、
警告を受けぬまま剣に倒れる者が出た場合、
その血の責任は角笛を吹かなかった見張りに求められる。


エゼキエルはイスラエルの見張り役に任命された。


皆さんの会社にも「見張り役」がいるかもしれない。
あなた自身かもしれないし、他の人かもしれない。

見張り役がいるなら、その者の役目を尊重しよう。

あなたが見張りなら、角笛を吹かなければならない。



No.137 預言者たち~エゼキエル(3):まだ間に合う

2008-09-19 10:49:41 | エゼキエル
とかく世の中は裁きに満ちている。
一度失敗すると、もう再起するチャンスなどないと思いがちだ。
しかし、神は慈愛に溢れた方で、生きている限りチャンスを与えてくださる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
罪を犯した本人が死ぬのであって、
子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。
正しい人の正しさはその人だけのものであり、
悪人の悪もその人だけのものである。
 エゼキエル18:20
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

前回、紹介した聖句である。
「子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない」。
正しさも悪も引き継がれるものではなく、その人だけのものであるのだ。
上記のことを確認したうえで、個人の人生に焦点を当てながら、
それに続く聖句を読んでみよう。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、
わたしの掟をことごとく守り、
正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。
死ぬことはない。
彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。
わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。
彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。

しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、
悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、
彼は生きることができようか。
彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、
彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。

 エゼキエル18:21-24
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


一度悪を犯したら、もはや生きる望みがないということではない。

もし、過ちから離れて、神の掟に従い、正義と恵みの業を行うなら「生きる」。
しかも、かつて行ったすべての背きは思い起こされることはない。
神は、悪人がその道から立ち帰ることをお喜びになる。


一方、正しい人がかつて何か正しいことをしたからといって
生涯安泰というわけではない。

彼がその正しさから離れて、忌まわしいことを行うなら「死ぬ」。
彼の行ったすべての正義は思い起こされることはない。


私たち「罪人」にとっては、ありがたいメッセージだ。

過去ではない、「今」が大事なのである。

No.136 預言者たち~エゼキエル(2):父の罪、子の罪

2008-09-16 22:39:05 | エゼキエル
何か望ましくない結果に出くわすと、他人のせいにしたがる人が多い。
責任は自分にあると思って生きている人は強い。
自分の人生は自分で選択して生きているのだ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
もし、ある人が正しく、正義と恵みの業を行うなら、
すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、
隣人の妻を犯さず、生理中の女性に近づかず、
人を抑圧せず、負債者の質物を返し、力ずくで奪わず、
飢えた者に自分のパンを与え、裸の者に衣服を着せ、
利息を天引きして金を貸さず、高利を取らず、不正から手を引き、
人と人との間を真実に裁き、わたしの掟に従って歩み、
わたしの裁きを忠実に守るなら、彼こそ正しい人で、彼は必ず生きる、
と主なる神は言われる。

彼に生まれた息子が乱暴者で、これらの事の一つでも行う人の血を流し、
自分自身はこれらすべての事の一つですら行わず、
かえって山の上で偶像の供え物を食べ、隣人の妻を犯し、
貧しい者、乏しい者を抑圧し、力ずくで奪い、質物を返さず、
偶像を仰ぎ見て忌まわしいことを行い、利息を天引きして金を貸し、
高利を取るならば、彼は生きることができようか。
彼は生きることはできない。
彼はこれらの忌まわしいことをしたのだから、必ず死ぬ。
その死の責任は彼にある。

ところで、その人にまた息子が生まれ、彼が父の行ったすべての過ちを見て省み、
このような事を行わないなら、すなわち、山の上で偶像の供え物を食べず、
イスラエルの家の偶像を仰ぎ見ず、隣人の妻を犯さず、
人を抑圧せず、質物を取らず、力ずくで奪わず、飢えた者に自分のパンを与え、
裸の者に衣服を着せ、貧しい者の抑圧から手を引き、
天引きの利息や高利を取らず、
わたしの裁きを行い、わたしの掟に従って歩むなら、
彼は父の罪のゆえに死ぬことはない。必ず生きる。

彼の父は搾取を行い、兄弟のものを力ずくで奪い、
自分の民の中で善くない事をしたので、自分の罪のゆえに死んだのである。
それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。
しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、
行ったのだから、必ず生きる。
罪を犯した本人が死ぬのであって、
子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。
正しい人の正しさはその人だけのものであり、
悪人の悪もその人だけのものである。

 エゼキエル18:5-20
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


ある人、ある人の息子、ある人の息子の息子、
3世代に渡るそれぞれの生き様とそれぞれに対する報いが述べられている。

ある人は正しい人で、「必ず生きる」。
ある人の息子は忌まわしいことをしたので、「必ず死ぬ」。
ある人の息子の息子は正しく生きたので、「必ず生きる」。

ここで言われているのは、
「罪を犯した本人が死ぬのであって、
 子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。」
ということである。


前の世代の負債を背負わされた、あるいは、次代に負債を背負わせる
ということは起こりうるだろうが、神の祝福とは別次元の話である。


自分に降りかかる報いは自分の行いの結果であり、
先代を恨むのはお門違いだ。
それは逆恨みというもの。

また、自分の行いのゆえ、
次の世代が罰を受けるのではないかと心配する必要もない。
それは取り越し苦労というもの。


ただ自分自身を振り返り、自分自身の行く末に心を配ればいい。

自分自身については逆転のチャンスだってあるのだから。


No.135 預言者たち~エゼキエル(1):光との遭遇

2008-09-13 22:35:15 | エゼキエル
人生を変える出会い、
皆さんは体験されたことがあるだろうか。
今回から登場するエゼキエルにも、ある時そんな出会いがあった。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。
カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、
また、主の御手が彼の上に臨んだ。

わたしが見ていると、北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、
火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。
その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。

  エゼキエル1:2-4
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


紀元前593年
捕囚として連行されたバビロニアの河畔で
祭司の息子エゼキエルは、神の顕現に接した。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
彼はわたしに言われた。
「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」
彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、
わたしを自分の足で立たせた。    
わたしは語りかける者に耳を傾けた。
主は言われた。

「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、
 わたしに逆らった反逆の民に遣わす。
 彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている。
 恥知らずで、強情な人々のもとに、わたしはあなたを遣わす。
 彼らに言いなさい、主なる神はこう言われる、と。
 彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、
 彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。
 人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、
 彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。
 彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、
 彼らの前にたじろいではならない。
 たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、
 あなたはわたしの言葉を語らなければならない。
 彼らは反逆の家なのだ。
 人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。
 あなたは反逆の家のように背いてはならない。
 口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい。」

  エゼキエル2:1-8
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


エゼキエルに使命が示された。
それは、イスラエルの人々に神のことばを語ることだった。

神はイスラエルを反逆の家と呼ばれた。

彼らは恥知らずで強情だ。
彼らは簡単には受け入れないかもしれない。
あなたをあざみと茨に押しつけるかもしれない。
蠍の上に座らせるかもしれない。

だが、彼らを恐れるな。
彼らの前にたじろぐな。
わたしの言葉を語り続けよ。

そのようにエゼキエルは語りかけられた。

その使命は決して安易なものではないことが前もって示された。

彼は預言者として選ばれたのだ。


皆さんも何かこの世で成し遂げるべきことをもって今日存在している。

それが何なのかを知ることは幸いである。

その使命から人は逃れることができない。
それに取り組むことがその人にとって真の自由であり喜びだからだ。