経営者のための聖書講座

永遠のベストセラー、聖書からビジネスのヒントを学ぶ

No.179 罪人と一緒に食事

2009-02-26 23:04:50 | マタイ
生きている間に何を成し遂げるか?
この世に何を残すか?

これらは自分の存在意義にかかわる壮大な問いである。

イエスは自分の存在意義を明確に把握していた。

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イエスはそこをたち、通りがかりに、
マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、
「わたしに従いなさい」と言われた。
彼は立ち上がってイエスに従った。

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。
徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。

ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、
「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

イエスはこれを聞いて言われた。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とは
 どういう意味か、行って学びなさい。
 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

  マタイによる福音書9:9-13
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イエスが収税所の前を通りかかった。
マタイという徴税人がそこに座っていた。

当時イスラエルはローマ帝国に支配されており、
人々はローマ帝国に税金を納めることになっていた。

民衆にとって収税所の徴税人は、
同胞から税金をむしり取るローマ帝国の手先だった。
しかも、徴収金額からかなりの利幅を自分の懐に入れており、
人々からは罪人と同等にみなされていた。

イエスはマタイを見ると彼に声をかけた。
「わたしに従いなさい」

マタイは立ち上がってイエスに従った。

イエスの人を見抜く目、
人を瞬時に従わせてしまう魅力には
驚くばかりだ。

イエスは人々から忌み嫌われている徴税人の中から逸材を見つけ出したのだ。
マタイに何かを感じ取ったのだろう。
経歴だけで人を判断してしまう採用担当者にはとうていできない芸当だ。

マタイは嬉しかったのだろう。
仲間を家に呼んで食事会を始めた。
もちろんイエスも弟子たちも招待されていた。

イエスは徴税人であろうと罪人であろうと人をわけ隔てすることはなかった。
大勢の罪人たちと一緒に食事を楽しむイエス。

ファイリサイ派の人々は、そのシーンをいぶかしげに見つめていた。
ファリサイ派とはユダヤ人の律法を厳格に守ろうという一派である。
徴税人とは対極にあった人々と言っていいだろう。

ファリサイ派の人々はたまらずイエスの弟子に問いかけた。
「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」

それに答えるイエスの言葉は深い。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」

「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』
 とはどういう意味か、行って学びなさい」

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」

イエスは人間の内面を見ていたのである。
愛情をもって。

この徴税人マタイは後に十二弟子の一人となるマタイであり、
『マタイによる福音書』を書いたマタイである。
世界一のベストセラー作家になったと言っても過言ではあるまい。

イエスと出会い、マタイの人生は大きく変わったのだ。


皆さんが人材育成で心がけていることは何だろう?

何を基準に人を判断しているだろう?

憐れみといけにえ。重要視しているのはどちらだろう?

No.178 一言で動く部下

2009-02-22 20:54:46 | マタイ
プロジェクト成功の裏には、優れたチームワークが存在する。
そしてそんなチームには、必ずと言っていいほど優れたリーダーの存在がある。

イエスはカファルナウムという町を訪問した。
当時イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、
町にはローマ軍が駐留していた。
イエスの噂はローマ軍の指揮官の耳にも届いていた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
さて、イエスがカファルナウムに入られると、
一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。
そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。

すると、百人隊長は答えた。
「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下に
 お迎えできるような者ではありません。
 ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。

 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、
 一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。
 また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」

 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。
 「はっきり言っておく。
  イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。
  言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、
  天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。
  だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。
  そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

そして、百人隊長に言われた。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」
ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

  マタイによる福音書8:5-13
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ローマ軍の百人隊長がイエスに近づいてきた。

この百人隊長の部下の一人が病気で苦しんでいた。
百人隊長は、部下を憐れみ、何とかして助けてやりたいと思っていた。

噂を耳にした百人隊長は、部下の病気を癒してもらおうと
イエスのもとを訪れたのだった。

「わたしが行って、いやしてあげよう」
百人隊長の求めを快く受け入れたイエス。
祖国を蹂躙する敵国の兵隊にも彼は援助の手を差し伸べた。

だが、百人隊長はイエスの来訪を慇懃に断った。
来ていただくには及ばない、というのである。

百人隊長には一つの自信があった。
自分の部隊では命令は絶対だ、と。

百人隊長がしようとしていたことはこうだ。
1.自分がイエスから言葉をもらう。
2.それを一字一句漏らさず病気の部下に伝える。
3.部下はそれを受け止める。

伝言ゲームのようである。

百人隊長は、自分がイエスの言葉となることで、
あたかもイエスが直接、病気の部下に語りかけたかのような
効果をもたらすと信じていたのだ。

イエスはこれに感心した。

「あなたの信じた通りになるように」
イエスはこう百人隊長に語りかけた。
ちょうどその時、部下の病気がいやされたのだった。

イエスを感心させた百人隊長の部隊。
完全に意志統一がなされ、あたかも一つの体のようになっていた。

軍隊だからあたりまえなのか。

それだけならばイエスを感心させることはなかっただろう。

信頼関係で結ばれた集団が作られたのは
この百人隊長の人徳によるところが大きそうだ。

病気の部下を憐れみ、何とかして助けたいと願う心。

そんなリーダーの思いが、部下達に伝わっていたのではあるまいか。

人間は機械ではない。感情を備えている。
一枚岩の集団は、最新理論に基づいた制度改革によってなされるものではない。
リーダーの熱い心が源となって出来上がるのだ。

あなたはイエスを感心させてしまうようなチームを作っているだろうか?

No.177 「触れ」て癒す

2009-02-18 22:05:22 | マタイ
「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、
 更に、温和で、優しく、従順なものです。
 憐れみと良い実に満ちています。
 偏見はなく、偽善的でもありません。」
               (ヤコブの手紙3:17)

「山上の説教」を終え、イエスが山を後にした。

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イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。

すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

イエスが手を差し伸べてその人に触れ、
「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。

イエスはその人に言われた。
「だれにも話さないように気をつけなさい。
 ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、
 人々に証明しなさい。」

  マタイによる福音書8:1-4
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重い皮膚病に苦しんでいる人がイエスに近寄って来た。

当時、この病気の治療法はなく、
患者は、人々から汚れていると忌み嫌われ、
隔離されて生活していたそうだ。

この人は一縷の望みを抱いてイエスにひれ伏した。
「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」

イエスの取った行動は何か?

彼は、手を差し伸べると、
その重い皮膚病を患っている人に触れた。

自分の身が汚れることを恐れ、
誰も重い皮膚病患者に触れようとはしなかった時代に
イエスはその人に直接触れた。

そして、言葉を発した。
「よろしい。清くなれ」
すると、たちまちその人の皮膚が治った。

イエスが奇跡で病人をいやした話だ。


我々にはイエスのように奇跡を起こすことはできないかもしれない。
だが、そんな我々にもまねできることがある。

それは、イエスの憐れみだ。

慰めを必要としている人に「触れる」こと。
温かい励ましや慰めが癒しをもたらすこともあるだろう。

プレッシャーに押しつぶされそうになっている社員、
自信を失いかけている社員、
悩みを抱えている社員・・・

そんな社員はいないだろうか?

経営者がそんな社員に対し、
少しでも「触れる」態度を持つなら、
社員はどれほど励まされるだろう?
会社はどんな雰囲気になるだろう?

名経営者として名を残した人々は、
得てして、このような性質を兼ね備えていたように思える。

これは人がついていきたくなるような指導者に共通の特色なのかもしれない。

No.176 驚愕のスピーチ

2009-02-14 21:53:49 | マタイ
一人のスピーチが政治の潮流を変えることがある。
経営者ともなれば、人前で話す機会も多いことだろう。
人の心を動かすスピーチはどこが違うのだろう?

家と土台のたとえ話で、イエスは「山上の説教」を終えた。
大勢の人々がイエスの話を聞いていた。

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イエスがこれらの言葉を語り終えられると、
群衆はその教えに非常に驚いた。

彼らの律法学者のようにではなく、
権威ある者としてお教えになったからである。

  マタイによる福音書7:28-29
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群衆はイエスの教えに非常に驚いた。

あなたは誰かのスピーチを聞いて
「非常に驚いた」経験があるだろうか?
あるとすればいつだろう?

群衆がイエスの教えに非常に驚いたのはなぜか。

「彼らの律法学者のようにではなく、
 権威ある者としてお教えになったからである。」

律法学者には知識があったはずだ。
だが、それだけで人々を驚かすことはなかった。
彼らのスピーチには権威が感じられなかったのだ。

それに反し、聴衆はイエスの説教から圧倒的なパワーを感じた。


イエスの使徒パウロはテサロニケという街の教会に宛てた手紙でこう言っている。

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、
 ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。
 わたしたちがあなたがたのところで、
 どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。」
                     (テサロニケの信徒への手紙一1:5)

パウロはなぜ自分の説教が人々に受け入れられたかを語っている。
「ただ言葉だけ」ではなかった、
「力と、聖霊と、強い確信とによったから」。


聴衆に訴えるスピーチに必要なもの。
それは知的で立派な台本ではない。

心から伝えたいメッセージを、魂を込めて訴える。
聴衆は話し手の熱意に打たれるのである。

あなたが本当に伝えたいメッセージは?

No.175 岩の土台、砂の土台

2009-02-10 22:34:48 | マタイ
街には斬新なデザインの豪華マンションが立ち並んでいる。
しかし、外見だけで物件の価値を判断してはいけない。
「地盤マップ」をご覧になったことがあるだろうか?
賢い人は地盤までしっかりチェックする。

今日は、「山上の説教」の最後の部分を取り上げる。
イエスはこの例え話で一連の説教を締めくくった。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、
 岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。

 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。
 岩を土台としていたからである。

 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、
 砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。

 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、
 倒れて、その倒れ方がひどかった。」

  マタイによる福音書7:24-27
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


ここに二種類の家が登場する。

一つは岩の上に建てられた家、
そして、もう一つは砂の上に建てられた家。

ある日、大雨が降り、川が氾濫。
洪水と強風が二つの家を襲った。

岩を土台とした家はびくともしなかった。
砂を土台とした家は無残にも倒壊した。

そういう話だ。


この例え話は味わい深い。

「家」を様々なものに置き換えることができる。

会社、事業計画、人材育成、自分の人生・・・


ならば、「雨」や「風」は何だろう?

ビジネスにも人生にも、時に「大雨」や「洪水」、「強風」が襲いかかる。

一見同じような「家」も「災害」の後に違いがはっきりと表れる。

あなたの「家」は今、どんな土台の上に建てられているだろう?


砂の土台は建設が容易でコストも比較的かからないだろう。
しかし、プレッシャーに対しては脆弱である。

岩を土台に選ぶと、おそらく時間と労力がよりかかってしまうだろう。
だが、長期的に見るとそれは賢い選択だ。

安易に建てられたものはもろいものだ。

「災害」の後にもしっかり建っていられるために、
しっかりとした土台が必要だ。


イエスは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」を
岩の上に自分の家を建てた賢い人のようだと言っている。

対して、「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者」を
砂の上に自分の家を建てた愚かな人のようだと言っている。

行う者が岩、行わない者が砂。

勘違いしないでほしい。
どちらも話は聞いているのだ。
違いはそれを行うか、行わないか。

学習だけでは不十分。行動が必要だ。
何事も実践するのは容易ではないが、それによって強固な土台が築かれる。


最初に説明したとおり、これは「山上の説教」の締めくくりの話である。

皆さんも、これまで、いくつか「イエスの言葉」を聞いてきたはずだ。

聞いて終わり?
実践する?

どちらを選ぶかは一人一人の自由だ。

賢い人は岩を土台にする。

No.174 良い木は良い実を結ぶ

2009-02-06 22:56:47 | マタイ
あなたが尊敬する人物は誰だろう?

なぜ、その人に憧れるのか?

あなたは、その人物のどこを見ているのだろう?


今日も「山上の説教」を通し、イエスから教えを授かろう。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「偽預言者を警戒しなさい。
 彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、
 その内側は貪欲な狼である。

 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。
 茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。

 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
 良い木が悪い実を結ぶことはなく、
 また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。

 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」

  マタイによる福音書7:15-20
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

偽預言者についてイエスが語っている。
彼らは、外見は羊だが、内面は貪欲な狼だ。
だから警戒せよ、と。

人を見分けるのはなかなか難しい。
それは偽預言者に限ったことではない。

イエスは見分け方をアドバイスしてくれている。

「その実で彼らを見分ける。」

実は正直だ。

茨からぶどうはならない。あざみからいちじくが出ることはない。
ぶどうはぶどうの木から、いちじくはいちじくの木からなる。

また、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。

実を見れば、木が何なのか、良い木なのか悪い木なのかがわかるのである。

人間も同じだ。
「実」で、人物の良し悪しを見分けることができるのだ。

人間の「実」とは何だろう?

その人の人生から生じた結果、
粉飾しようがない人生の影響力・・・。
それは一体どこに表れるのか?

商談、採用、人材配置等、
経営者は人を見分けねばならぬ機会が多い。

外面だけ判断し、後で悔いることがないよう、
しっかりと「実」に注目したいものである。

ところで、あなた自身の「実」はいかがなものだろう?

No.173 狭い門から入れ

2009-02-02 20:13:26 | マタイ
ビジネスは人生と同じく選択の連続である。
意思決定に迷った時に、
活用できる判断基準があれば便利だ。

「山上の説教」の言葉が参考になるかもしれない。
今日もイエスの教えに耳を傾けてみよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「狭い門から入りなさい。
 滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。

 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。
 それを見いだす者は少ない。」

  マタイによる福音書7:13-14
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

広き門。
その道は広々としている。

見るからに「ウェルカーム」と両手を広げてあなたを待っている感じだ。

実際、そこから入る者が多い。
その中には、周りのみんなが入るから自分も、という人も当然いるだろう。

だが、それは滅びに通じる門なのだ。

イエスはアドバイスしている。
「狭い門から入りなさい」と。

狭き門。
その道も細い。

残念ながら、それを見いだす者は少ない。

しかし、その門は「命」に通じているのだ。

今、選択に迷っていることがあるだろうか?

どちらが「広い門」でどちらが「狭い門」か、考えてみたらいいかもしれない。