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経営者のための聖書講座

永遠のベストセラー、聖書からビジネスのヒントを学ぶ

No.250 内面にあるものを見る

2010-01-01 16:52:51 | マルコ
イエスが経営者なら・・・、

会社はどうなるだろう?

以下の箇所を読んでみよう。

彼の視点は一般の人々とは異なっていたことがわかる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは賽銭箱の向かいに座って、
群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。
大勢の金持ちがたくさん入れていた。

ところが、一人の貧しいやもめが来て、
レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。
「はっきり言っておく。
 この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、
 だれよりもたくさん入れた。
 皆は有り余る中から入れたが、
 この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、
 生活費を全部入れたからである。」

  マルコによる福音書12:41-44
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

神殿の賽銭箱に大勢の人々がお金を入れるシーンを
イエスは座りながらしばらく眺めていた。

金持ちたちがこれ見よがしに大金を納めている中、
一人のみすぼらしいやもめが賽銭箱にお金を納めた。
彼女が納めたのはレプトン銅貨二枚。

この銅貨は当時最小の硬貨だった。
1レプトンは1デナリオンの128分の1。

1デナリオンは1日の労働賃金に相当したので、
仮に日給1万円なら約78円ということになる。
ということは、やもめが納めた金額は
156円にすぎなかったというわけだ。

イエスはそれを見ると弟子たちを呼び寄せて言った。
「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、
 だれよりもたくさん入れた」

彼女より高額の献金をした者たちがたくさんいたはずである。
弟子たちはこれを聞いた瞬間、不思議に思ったかもしれない。

イエスの言葉は続く。
「皆は有り余る中から入れたが、
 この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、
 生活費を全部入れたからである」

イエスが注目したのは金額ではなく人の内面であった。

この前に最も重要な掟は何かと問われ、イエスはこう答えている。

「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
 あなたの神である主を愛しなさい。」(マルコ12:30)

「尽くし」て、主を愛することが大切なのであった。

やもめの献げた金額は少なかったが、
それは彼女の「尽くし」た結果だった。
イエスはそれを見逃さなかったのである。

社員の立場に立ってみてほしい。
目に見える結果よりも内面にあるものを理解して評価してくれる
上司が身近にいてくれたら?

目に見えるもので判断するのは簡単だ。
だがそれだけでは本当に価値のある大切なものを見落とす可能性がある。

イエスの教えは2000年後も健在であり、彼は今も世界中で慕われている。

今年、あなたはどのようなマネジメントを心がけるのだろう?

No.249 基本理念

2009-12-20 22:14:28 | マルコ
会社の「掟」は何?

あなたは、あるいは社員たちは、この問いにはっきりと答えられるだろうか?

迷った時に戻るべき理念がある組織は強い。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、
イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。
「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」

イエスはお答えになった。

「第一の掟は、これである。
 『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
  心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
  あなたの神である主を愛しなさい。』

 第二の掟は、これである。
 『隣人を自分のように愛しなさい。』

 この二つにまさる掟はほかにない。」

  マルコによる福音書12:28-31
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

律法学者から第一の掟は何かと尋ねられたイエスは答えた。

第一は、
「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。」

第二は、
「隣人を自分のように愛しなさい。」

主を愛し、隣人を愛すこと、これにまさる掟はないのだ。

主は唯一の主。
「心」、「精神」、「思い」、「力」という人間を構成する4種類すべてを尽くして
唯一の主を愛することが、隣人愛に優先する。

イエスに従う人々にとっては、
この第一、第二の掟が行動の指針となるのだ。

No.248 ギャップを埋める努力

2009-12-05 19:28:29 | マルコ
ファリサイ派、ヘロデ派、サドカイ派。

これらは福音書に出て来る派閥の数々だ。

意見も立場も違うこれらの一派が入れ替わり立ち替わり
攻撃してくるのだからイエスも大変だっただろう。

今回はサドカイ派である。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。
 『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、
  その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。

 ところで、七人の兄弟がいました。
 長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。
 次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。
 こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。
 復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。
 七人ともその女を妻にしたのです。」

イエスは言われた。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、
 そんな思い違いをしているのではないか。
 死者の中から復活するときには、
 めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。

 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、
 神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。
 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』
 とあるではないか。

 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。
 あなたたちは大変な思い違いをしている。」

  マルコによる福音書12:18-27
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

復活を信じない派閥の彼らが、あるケースを持ちだして、
イエスに論争を挑んできた。(表向きは質問という形を取っているが。)

信念や価値観の違う人といかに接するか?

これはイエスだけが直面した問題ではない。

ほとんどの場合、社長が眺めている風景と、社員が普段見ている景色は異なる。

多くの人は現実的な目の前のことで精一杯だ。

イエスは復活の後の世界にはそもそも婚姻というものが存在しないことを
彼らに言って聞かせた。

さらにはモーセの書の中の記述を持ちだして彼らに説明を試みた。

サドカイ派の人々はまず根本的な部分の理解ができていなかったのだ。
彼らは「大変な思い違い」をしていたのである。

あなたの社員も批判をぶつけて来る時には、
「大変な思い違い」をしているかもしれない。

頭ごなしに排除せず、自らの見ている世界について
丁寧に説明し、意識を共有する努力が必要である。

No.247 いちじく、山、赦し

2009-11-29 10:23:55 | マルコ
仮に、あと三日しか社員と一緒にいられないとしたら、
あなたが彼らに伝えておきたいことは何だろう?

以下に登場するいちじくの木の話しは、
強烈な印象とともに読む人に様々なことを考えさせる。

2000年経った今、我々がこれを読んで立ち止り、自ら考察し、
何かを得ることができるとしたら、
これはとても意味がある出来事だったといえよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、
実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。
いちじくの季節ではなかったからである。

イエスはその木に向かって、
「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われた。
弟子たちはこれを聞いていた。

  マルコによる福音書11:12-14
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
翌朝早く、一行は通りがかりに、
あのいちじくの木が根元から枯れているのを見た。
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。
「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」

そこで、イエスは言われた。
「神を信じなさい。
 はっきり言っておく。
 だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、
 少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

 だから、言っておく。
 祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
 そうすれば、そのとおりになる。

 また、立って祈るとき、
 だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。
 そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

  マルコによる福音書11:20-25
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、
少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」

ダイナミックなメッセージである。

「少しも疑わず」、
「自分の言うとおりになると信じるならば」・・・、

「そのとおりになる」。

常に目標に向かって果敢に挑戦を続ける皆さんにとって、
このメッセージが真理であることは経験的に理解できるはずだ。

「すべて既に得られた」と信じられなければ、そのとおりにならないのである。

これは未来を創造するすべての人が心にとどめておくべきテーマだ。

この教えの前に、いちじくの木の出来事があった。
そして、この教えの後には、もうひとつのメッセージが添えられている。

イエスの言葉をよく聴いてほしい。

イエスはペトロが言うようにいちじくの木を呪ったのだろうか?
恨みを抱いていたのだろうか?

これはイエスが十字架にかかる数日前の出来事である。
イエスは弟子たちとの時間が残り少ないことを知っていたはずだ。

イエスはここで弟子たちに何を伝えたかったのだろう?

No.246 具体的な指示

2009-11-24 23:22:16 | マルコ
体は一つしかない。

一度にいくつものことを行いたければ他の人に動いてもらわねばならない。

特に、ここぞという時に他の人を通して自分の期待通りの結果を残すには、
説明という作業が大事になってくる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにある
ベトファゲとベタニアにさしかかったとき、
イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。

「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、
 まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。
 それをほどいて、連れて来なさい。
 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、
 『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」

二人は、出かけて行くと、
表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。
すると、そこに居合わせたある人々が、
「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。
二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。

二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、
その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

  マルコによる福音書11:1-7
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは二人の弟子を使いに出した。

その際、実に入念なディレクションを与えている。

方向、状況、目的、問題、解決法・・・。

それらを事細かに伝えた。

イエスはここでエルサレム入城に必要なろばの調達に成功する。

二人の弟子が期待通りに動いてくれたからだ。

イエスの具体的な説明が功を奏したわけだ。

部下に対するあなたの指示はどれほど具体的だろうか?

期待通りに動いてくれないと嘆く前に
自分が与えているディレクションについて再確認してみよう。

No.245 バルトロマイ

2009-11-19 23:58:15 | マルコ
願望を成し遂げる人とそうでない人の違いは何だろう?

今日はバルトロマイという人物に注目してみたい。

彼は奇跡を自らの身に呼び寄せた男だ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一行はエリコの町に着いた。
イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、
ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。

ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。

多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、
彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。
人々は盲人を呼んで言った。
「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。
盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

そこで、イエスは言われた。
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

  マルコによる福音書10:46-52
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

盲人はいつものように道端に座り物乞いをしていた。

だがその日は、往来の様子がいつもとは違っているのが感じられる。
聞くとナザレのイエスが町にやって来たという。

奇跡を起こして目の不自由な人や耳の聞こえない人をいやすという
イエスのうわさはこの盲人の物乞いの耳にも届いていた。

盲人はイエスがいるらしい、その方向に向かって叫び始める。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」

周りにいた人々は彼を叱りつけ黙らせようとしたが、
彼はそれにひるまなかった。
そればかりか、ますます大声で
「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けるのだった。

彼の叫び声は町を歩くイエスを立ち止らせる。
「あの男を呼んで来なさい」
イエスに近づく機会を彼は勝ち取ったのである。

躍り上がってやって来た盲人にイエスは開口一番こう質問した。
「何をしてほしいのか」

イエスに声をかけてもらったことで満足してしまい、
この問いにまともに答えられなかったら、彼のその後の人生はまた別のものと
なっていたことだろう。

彼はイエスの質問に迷うことなくこう即答する。
「先生、目が見えるようになりたいのです」

イエスが彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言葉をかけると
またたく間に彼の目は見えるようになった。

あなたは「何をしてほしいのか」と聞かれて即答できるだろうか?

「何をしてほしいのか」と聞かれたら何と答えるのだろうか?

明確な願望、
妨害されてもあきらめずに求め続ける態度・・・。

バルトロマイから学ぶべき点は多い。

No.244 偉い者、一番上に立つ者

2009-11-15 22:01:47 | マルコ
「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」
                                   (マルコ10:41)

自分たちだけでイエスに出世の談判をしたヤコブとヨハネのことで
他の使徒たちは腹を立てた。

イエスはこれを教育に機会として用いる。

重要な教えがここでなされることとなる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、
 支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

 しかし、あなたがたの間では、そうではない。
 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。

 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、
 また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

  マルコによる福音書10:42-45
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


「偉くなりたい者は、皆に仕える者に」
「いちばん上になりたい者は、すべての人の僕に」

イエスは、「偉くなりたい」とか「いちばん上になりたい」ということを
否定してはいない。

ただ、偉い者、いちばん上に立つ者のあり方をはっきりと彼らに伝えたのだ。

これこそイエスが求めるリーダーシップだ。

イエスは自分の人生でそれを実践した。

彼は「仕えられるためではなく仕えるために」来たと自ら語っている。

それだけではない。
多くの人を救い出すために命を献げるとまで言っている。
そして実際にそうしてくれた。

彼の示した価値基準は世間のものとはことなっているだろう。
「支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている」
のが、当時も今も通常見られる光景だ。

しかし、真理はイエスの側にある。

イエスがなぜこれほどまで長きにわたり世界中に影響を与えているのかを
考えてみてほしい。

ぜひとも皆さんにはイエスの基準で
「偉く」、「いちばん上」になっていただきたい。

あなたが会社で、「皆に仕える者」、「すべての人の僕」になるとしたら、
具体的にどのような行動が思い浮かぶだろう?

No.243 猟官運動

2009-11-11 22:34:07 | マルコ
いつの時代も人事は物議を醸し出しやすいテーマだ。

妬みや怒りは組織を汚染する。

イエスはどのようにこれに対処したのだろう?

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。
「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」

イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、

二人は言った。
「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、
 もう一人を左に座らせてください。」

イエスは言われた。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。
 このわたしが飲む杯を飲み、
 このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」

彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。
「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、
 わたしが受ける洗礼を受けることになる。
 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。
 それは、定められた人々に許されるのだ。」

ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。

  マルコによる福音書10:35-41
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

12弟子の中のヤコブとヨハネが願い事を持ってイエスにもとにやって来た。

「何をしてほしいのか」とイエスはきちんと彼らに対応している。

彼らが直訴したのは、自分たちの地位についてであった。
どうも弟子たちはイエスがこの世でイスラエルの王にでもなると
勘違いをしていたようである。

ヤコブとヨハネは、イエスが王の座に就いた暁には
左右に陣取る重臣に取り立ててほしいと、
他の弟子たちを出し抜いていわば猟官運動をしたわけだ。

抜け目のない兄弟である。

「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とイエス。

「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」
と事の違いを悟らせようと質問を投げかけるが、
彼らは無謀にも「できます」と答え、らちが明かない。

彼らの熱意はしっかりと受け止めた上で、イエスは、
「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。
 それは、定められた人々に許されるのだ」
と伝え、彼らを退かせた。

この抜け駆けを知った他の十人は、ヤコブとヨハネのことで腹を立てる。

ヤル気は尊重されていいだろう。
持っている意欲がつぶされるような組織に属している社員は不幸だ。

かといって声の大きい者や、おべっかを使うのがうまい者だけが
出世するのも問題だ。

適材適所であり、かつ周囲もそれを納得するような人事であれば最高だ。

イエスはここで生じた弟子たちの心の動きを見逃さず、
彼らに重要な教訓を与える。

その内容については次回に。

No.242 先頭に立つ

2009-11-07 22:47:29 | マルコ
イエスはリーダーシップの見本である。

彼の教えを実践しようとしている人は、それが実感できるはずだ。

今日紹介する言葉も、自分に当てはめながら読んでみよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。
それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。

イエスは再び十二人を呼び寄せて、
自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。

  マルコによる福音書10:32
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

一行がエルサレムへ向かって旅を続けていた。
イエスはその先頭に立っていた。

先頭に立って進むのがリーダーだ。

先頭に立つイエスを見て、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」とある。

イエスからある種の迫力が発せられていたのだろう。
彼の心の内にあった一つの強い決意が、その源になっていたのかもしれない。

社員たちが驚きと恐れを感じつつもあなたに従っている・・・。
もしそうだとしたら何が存在しているのか?

イエスはここで、自分がこの先、進もうとしている方向性を
弟子たちにオープンに打ち明けている。

リーダーが何をしようとしているのかわからないと従うものは不安である。

現在、周りの社員に自分の考えを伝える努力は十分といえるだろうか?

No.241 百倍、永遠

2009-11-03 22:12:38 | マルコ
イエスの教えは半端なものではない。

世の処世術とは一線を画している。

二千年間変わらず、これからも変わることのない真理である。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは弟子たちを見回して言われた。
「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」

弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。

イエスは更に言葉を続けられた。
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

  マルコによる福音書10:23-25
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

財産のある者、金持ちが神の国に入るのは難しいそうだ。
らくだが針の穴を通るより。
これは一体どういうことなのだろう?

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは言われた。
「はっきり言っておく。
 わたしのためまた福音のために、
 家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
 今この世で、迫害も受けるが、
 家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、
 後の世では永遠の命を受ける。

 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

  マルコによる福音書10:29-31
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスと福音のために持ち物の全てを捨てる者は、
後の世で永遠の命を受けるという。

それだけではない。
この世でも、いったん捨てものが百倍になって返ってくるそうだ。

何という祝福か。

ところが、財産がたくさんある者は、
執着心が強く、一時でもそれを失うことを極度に恐れる。

自分の持ちものを手放せないため、
せっかく百倍になるチャンスが用意されているのに
それを無駄にしてしまう。

そしてまた、永遠の命も受ける機会も失ってしまう。

執着心がもたらす機会損失は計り知れない。

キリストのため福音のため
あなたは全てを捨てられるか?

選択の自由は一人一人に与えられている。

No.240 知的財産権

2009-10-31 00:14:02 | マルコ
知的財産の保護は企業が抱える関心事の一つだ。

せっかく苦心して編み出した製品の模造品が出回ったら、
あなたならどう対応するだろう?

イエスの場合は?

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ヨハネがイエスに言った。
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、
 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

イエスは言われた。
「やめさせてはならない。
 わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

 はっきり言っておく。
 キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、
 必ずその報いを受ける。」

  マルコによる福音書9:38-41
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

弟子のヨハネが由々しき事態を目撃したので、
早速イエスに報告した。

自分たちと縁もゆかりもない者が勝手にイエスの名前を用いて
悪霊を追い出しているシーンに出くわしたのだ。

雷の子とも呼ばれていたヨハネは、いてもたってもいられなかったのだろう。
直接抗議し、その者の活動を停止させるよう働きかけた。

その一部始終を彼はイエスに伝えたわけである。
ヨハネはイエスにほめられることを期待していたのかもしれない。

しかし、それを聞いたイエスの口から出てきた言葉はこうだった。

「やめさせてはならない」

彼は勝手に自分の名前を使われたのに、
あえてそれをやめさせようとはしなかった。

「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」

その者のことを自分の味方であるとイエスは捉えた。
「にっくき商売敵」とはみなさなかったのである。

イエスの見ていたものは何だろう?

あなたは今、この話を読み、どのような感想を抱いているのだろう?





No.239 山登り

2009-10-25 01:46:47 | マルコ
人材は人財だ。

事業の成否は人材育成の如何によると言っても過言ではないだろう。

効果的な人材教育とは?

マルコ9章2節から7節を読んでみよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、
高い山に登られた。

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
 仮小屋を三つ建てましょう。
 一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。
弟子たちは非常に恐れていたのである。

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

  マルコによる福音書9:2-7
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは高い山に登った。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴っていた。
この三人は十二人の中でも明らかに特別であった。(マルコ5:37、14:33参照)

これは登山である。
三人の弟子たちにとって、イエスと一緒に息を切らしながら、山頂をめざした
この時間は特別なものであったに違いない。

だが、特別なのは山登りだけではなかった。
弟子たちは山頂で更に強烈な体験をすることになる。

姿を変えたイエスがモーセとエリヤと語り合っているシーンを目撃したのだ。
これは、まさに頂上会談である。
モーセ、エリヤは言わすと知れた旧約聖書中の大ヒーロー達なのであった。

弟子たちは語る言葉を失った。
かろうじてペトロが意味不明なことを口走ったのみであった。

更には、雲の中からの声を耳にする。

彼ら三人にとって生涯忘れることのできない体験になったことだろう。

イエスがこの頂上会談に一人で臨まなかったのはなぜだろう?

彼の行動には常に教育的意図が含まれていたように思える。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネが後々、指導的立場に立つことを
期待していたイエスは、いわば研修の一環として
彼らをこの場に同席させたのではなかろうか。

直に見て、聞いて、感じることの教育効果は絶大だ。

皆さんはどの社員と一緒に「山登り」をするのだろう?

誰を「頂上会談」に同席させるのだろう?

たとえ、その社員が素っ頓狂なことを言ったとしても気にすることはない。

No.238 周囲の評判と自分の意見

2009-10-21 03:51:13 | マルコ
新聞やテレビにより今日も様々な社会問題が報じられている。
今日のニュースで印象に残っているものは?

それについてのあなたの意見は?
と聞かれたら、あなたはどう反応するだろう?

マルコ8章27節から29節を読んでみたい。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。

その途中、弟子たちに、
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

弟子たちは言った。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

そこでイエスがお尋ねになった。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

ペトロが答えた。
「あなたは、メシアです。」

  マルコによる福音書8:27-29
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


自分の意見をしっかり持つ。

周囲に流されない。

そんな強さを持つ者がリーダーとなる。

イエスは弟子たちに自分について人々が何とうわさし合っているか聞いた。

世の人々は、イエスのことを「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、
あるいは「預言者の一人だ」などと評していた。

しかし、それはあくまで他の人々の意見。

イエスは続けて弟子たちに問いかけた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

あなたがたの意見は?

自分の確信を持たずに風評に流され、あっちに行ったり、こっちに来たり・・・、
そんな人が意外に多い。

表面的な問題点を指摘するのは得意だが、
解決策をどう考えるか?と聞かれると口をつぐんでしまう人もまた多い。

イエスは弟子たちに、自分の意見を持ち、
それをはっきり表現することを期待した。
特にイエスが何者かという重要な問いに対しては。

ペトロが自ら率先して発言した。
「あなたは、メシアです」

後々、彼は十二人の中で指導的立場を託される。

確信の表明はリーダーシップの条件の一つだ。

あなたの確信は?




No.237 パン種とパン屑

2009-10-17 00:21:11 | マルコ
イエスは弟子たちに考えさせる教育をした。

ここでも大事なことを悟らせようとあえて問いを投げかけている。

マルコ8章14節から21節を読んでみよう。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、
舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

そのとき、イエスは、
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」
と戒められた。

弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、
と論じ合っていた。

イエスはそれに気づいて言われた。
「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。
 まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
 覚えていないのか。

 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、
 集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」

弟子たちは、「十二です」と言った。

「七つのパンを四千人に裂いたときには、
集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」

「七つです」と言うと、
イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

  マルコによる福音書8:14-21
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


イエスが弟子たちと舟に乗っている。

イエスはそこで弟子たちに戒めを授けた。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」

折しも、弟子たちは食糧であるパンを舟に持ち込むのを忘れていた。

弟子たちは自分たちの失敗にフォーカスしてしまい、
イエスの戒めの真意を理解することができなかった。

上司と部下の話がかみ合わないのは良くあることだ。
部下が自分の犯した失敗にくよくよし、自信を失っているときに
そのようなことが起こりやすいことを上司は理解したらいいだろう。

イエスが語っていたのは食糧のことではない。
あくまでも「ファリサイ派」のパン種と
「ヘロデ」のパン種について語っていたのだ。

「あなたがたが誇っているのは、よくない。
 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。」
                                 (Ⅰコリント5:6)
             
パン種は練り粉を膨らます力をはらんでいる。
小さいながら影響力は絶大だ。

ここからイエスの質問ラッシュが始まる。

弟子たち自身に考えさせようとしたのである。

実はこのとき弟子たちは、二回に及ぶ、パンの奇跡を目撃した後であった。

イエスは彼らに思い出させようとした。
五つのパンを五千人に分け与えた余りが十二籠。
七つのパンを四千人に分け与えた余りが七籠。

当たり前に考えて理屈に合わない。

だが、理屈を超えたことが起こるのが人生なのだ。

「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、
 刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」
                               (Ⅱコリント9:6)

ここでは、どれだけ失わないようにするかを考えるより、
どれだけ与えるかに焦点を当てることが肝要だ。

もしかしたら、本当の豊かさのカギがここに秘められているのかもしれない。
そして、それを妨げるものが悪いパン種なのだ。

ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種の危険性を悟らせようと
イエスは余ったパンの籠の数を弟子たちに尋ねた。

あなたなりに、ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種とは何か、
よく考えてみてほしい。

そして、あなたの会社がそれら悪いパン種に毒されていないかどうか
確認してみてほしい。

No.236 それほど言うのなら

2009-10-12 21:55:24 | マルコ
人の心に訴えかけるもの、
それは何だろう?

その何かが結果に違いをもたらす。

今回もマルコ7章から。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。
ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、
人々に気づかれてしまった。

汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、
すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、
娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

イエスは言われた。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。
 子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

ところが、女は答えて言った。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

そこで、イエスは言われた。
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。
 悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

  マルコによる福音書7:24-30
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは限られた時間を計画的に行動していた。

ティルス地方に赴いた目的は、大々的な宣教ではなかったようだ。
イエスは人目を忍んでこの地に来ていたが、人々に気づかれてしまう。

うわさを聞きつけたある母親がイエスのもとを訪ねた。
悪霊に取りつかれ苦しんでいた娘を助けてもらいたかったのだ。

彼女はシリア・フェニキア生まれのギリシア人だった。

イエスはすべての人の救いを願っていたが、優先順位があった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
                             (使徒1:8)

上記は、後にキリスト教を全土に布教することになる弟子たちに
イエスが語った言葉である。
『使徒言行録』を読むと、まさにこの順番で福音が伝播していくのがわかる。

偉大な計画を成し遂げるため、イエスはこの時、イスラエル人に集中していた。

長期的なビジョン、選択と集中、実行力を経営者としてまねしたいものである。

人目を避けた旅の途中、ギリシア人の女性に奇跡を求められたイエスは、
彼女に断わりのメッセージを伝えた。

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。
 子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」

小犬にたとえられた母親はどうしただろうか?

ひるんで立ち去ってもおかしくないところだ。

だが、彼女は機転を利かせてイエスに答えた。

「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」

小犬でもかまわない。
食卓からこぼれおちるパン屑でいい。
とにかくいただきたい。

この母親は必死に食い下がったのだ。

イエスは彼女のあきらめない態度を見て彼女に語りかけた。

「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。
 悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」

彼女の娘は特別にいやされた。

イエスは柔軟性も兼ね備えていたのだ。

御社の社員が、そしてあなたが、
この母親のような粘り強さと発想力、その源となる愛をもって
仕事に取り組んだら、どのような変化が生じるだろう?

「それほど言うなら、・・・」

そう顧客に言わせることができるかどうか考えてみたい。