失敗しない人などいない。
誰もが罪びとである。
だからこそ赦しの存在はありがたい。
最高法院ではイエスの死刑が確定した。
弟子たちはそのとき・・・
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ペトロは外にいて中庭に座っていた。
そこへ一人の女中が近寄って来て、
「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
ペトロは皆の前でそれを打ち消して、
「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
ペトロが門の方へ行くと、ほかの女中が彼に目を留め、
居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。
「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、
「そんな人は知らない」と誓い始めた。
するとすぐ、鶏が鳴いた。
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」
と言われたイエスの言葉を思い出した。
そして外に出て、激しく泣いた。
マタイによる福音書26:69-75
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」
数時間前、ペトロはイエスにこう言った。
イエスが捕らえられそうになったとき、
イエスを守ろうとペトロは剣を抜いて応戦した(ヨハネ18:10)。
弟子たちがイエスを見捨てて逃げてしまった(マルコ14:50)後も、
彼はこうして大祭司の屋敷の中庭に入り込み裁判の行方を見守っていた。
ペトロはイエスを人一倍愛していたと言っていいだろう。
だが、このときペトロの心に何ものかに支配されていた。
夜はまだ明けず、あたりは暗闇である。
火に当たらねばならないほど肌寒い(ヨハネ18:18)。
イエスは権力者たちから一方的に死刑を宣告されてしまう。
イエスの顔が打ちたたかれる音が響いてくる。
そんな状況の中で隣にいた人が不意に
「あなたもイエスと一緒にいた」と告発してきた。
ペトロはとっさに言葉を発する。
「何のことを言っているのか、わたしには分からない」
恐れは人の心を崩す。その後はいとも簡単に転んでしまう。
ペトロは立て続けに、イエスについて
「そんな人は知らない」と人々の前で強く誓った。
そこで鶏が鳴く。
我に返ったペトロは、外に出て激しく泣くのであった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
そのころ、イエスを裏切ったユダは、
イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、
銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と言った。
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
マタイによる福音書27:3-5
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一方、イエスを祭司長たちに売り渡したユダは、
イエスが有罪になったと聞いて急に後悔の念に襲われる。
こんなにあっさり捕まり有罪になるとは思っていなかったのだろうか。
彼は銀貨三十枚を返しに祭司長、長老のもとを訪れ、
素直に自分が罪を犯したことを告白した。
しかし、祭司長、長老らの対応はつれないものだった。
絶望したユダは首をつって死ぬ。
この日の早朝、イエスを知らないと言ったペトロは激しく泣き、
イエスを売ったユダは後悔し自暴自棄となった。
両者をイエスが直接責めたわけではない。
彼らは自ら心に痛みを覚えたのだ。
人間には良心というものが備えられている(ローマ2:15)。
罪を犯すと良心が責められ、
人に言われずとも自分の過ちを自覚できるように造られているのだ。
実は、十字架に架けられた後、イエスは三日目に復活する。
復活したイエスが最初に会った弟子はペトロだった。
(ルカ24:34、Ⅰコリント15:5)
イエスはペトロに何を語りかけたのだろう?
ユダに対した祭司長、長老たちとは違った接し方をしたはずだ。
おそらくペトロは赦しと励ましを受けたのではあるまいか。
ペトロはその後、熱心にイエスの愛を宣べ伝える者となる。
それは反対者から死を宣告されても変わることがなかった。
仮にユダが自殺していなければ、復活したイエスは彼に対してどう接しただろう。
もしかしたら、彼も人一倍熱心にイエスを愛する弟子になっていたかもしれない。
何も自ら命を絶つ必要などないのだ。
赦しには人生を変える力がある。
あなたは普段、社員たちにどのように接しているのだろうか?
接し方次第で社員の熱意に変化が生じる可能性がある。
だが、その前に、赦しを必要としているのは自分自身だと
自覚症状をお持ちの方もおられるかもしれない。
ご安心を。
グッドニューズ(福音)がある。
キリストによる赦しはそんなあなたのためにも用意されているのだ。
誰もが罪びとである。
だからこそ赦しの存在はありがたい。
最高法院ではイエスの死刑が確定した。
弟子たちはそのとき・・・
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ペトロは外にいて中庭に座っていた。
そこへ一人の女中が近寄って来て、
「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言った。
ペトロは皆の前でそれを打ち消して、
「何のことを言っているのか、わたしには分からない」と言った。
ペトロが門の方へ行くと、ほかの女中が彼に目を留め、
居合わせた人々に、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」と言った。
そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。
しばらくして、そこにいた人々が近寄って来てペトロに言った。
「確かに、お前もあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれが分かる。」
そのとき、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、
「そんな人は知らない」と誓い始めた。
するとすぐ、鶏が鳴いた。
ペトロは、「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」
と言われたイエスの言葉を思い出した。
そして外に出て、激しく泣いた。
マタイによる福音書26:69-75
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「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」
数時間前、ペトロはイエスにこう言った。
イエスが捕らえられそうになったとき、
イエスを守ろうとペトロは剣を抜いて応戦した(ヨハネ18:10)。
弟子たちがイエスを見捨てて逃げてしまった(マルコ14:50)後も、
彼はこうして大祭司の屋敷の中庭に入り込み裁判の行方を見守っていた。
ペトロはイエスを人一倍愛していたと言っていいだろう。
だが、このときペトロの心に何ものかに支配されていた。
夜はまだ明けず、あたりは暗闇である。
火に当たらねばならないほど肌寒い(ヨハネ18:18)。
イエスは権力者たちから一方的に死刑を宣告されてしまう。
イエスの顔が打ちたたかれる音が響いてくる。
そんな状況の中で隣にいた人が不意に
「あなたもイエスと一緒にいた」と告発してきた。
ペトロはとっさに言葉を発する。
「何のことを言っているのか、わたしには分からない」
恐れは人の心を崩す。その後はいとも簡単に転んでしまう。
ペトロは立て続けに、イエスについて
「そんな人は知らない」と人々の前で強く誓った。
そこで鶏が鳴く。
我に返ったペトロは、外に出て激しく泣くのであった。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
そのころ、イエスを裏切ったユダは、
イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、
銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ。」と言った。
そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
マタイによる福音書27:3-5
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一方、イエスを祭司長たちに売り渡したユダは、
イエスが有罪になったと聞いて急に後悔の念に襲われる。
こんなにあっさり捕まり有罪になるとは思っていなかったのだろうか。
彼は銀貨三十枚を返しに祭司長、長老のもとを訪れ、
素直に自分が罪を犯したことを告白した。
しかし、祭司長、長老らの対応はつれないものだった。
絶望したユダは首をつって死ぬ。
この日の早朝、イエスを知らないと言ったペトロは激しく泣き、
イエスを売ったユダは後悔し自暴自棄となった。
両者をイエスが直接責めたわけではない。
彼らは自ら心に痛みを覚えたのだ。
人間には良心というものが備えられている(ローマ2:15)。
罪を犯すと良心が責められ、
人に言われずとも自分の過ちを自覚できるように造られているのだ。
実は、十字架に架けられた後、イエスは三日目に復活する。
復活したイエスが最初に会った弟子はペトロだった。
(ルカ24:34、Ⅰコリント15:5)
イエスはペトロに何を語りかけたのだろう?
ユダに対した祭司長、長老たちとは違った接し方をしたはずだ。
おそらくペトロは赦しと励ましを受けたのではあるまいか。
ペトロはその後、熱心にイエスの愛を宣べ伝える者となる。
それは反対者から死を宣告されても変わることがなかった。
仮にユダが自殺していなければ、復活したイエスは彼に対してどう接しただろう。
もしかしたら、彼も人一倍熱心にイエスを愛する弟子になっていたかもしれない。
何も自ら命を絶つ必要などないのだ。
赦しには人生を変える力がある。
あなたは普段、社員たちにどのように接しているのだろうか?
接し方次第で社員の熱意に変化が生じる可能性がある。
だが、その前に、赦しを必要としているのは自分自身だと
自覚症状をお持ちの方もおられるかもしれない。
ご安心を。
グッドニューズ(福音)がある。
キリストによる赦しはそんなあなたのためにも用意されているのだ。