経営者のための聖書講座

永遠のベストセラー、聖書からビジネスのヒントを学ぶ

No.187 剣をもたらすために来た

2009-03-30 22:03:18 | マタイ
売り上げを上げたければ、
企業は自らが提供する商品やサービスを
しっかりと顧客に説明(教育)する必要がある。

その際、重要視されるのは誠実さである。
一見マイナスポイントと思われることでさえ包み隠さずオープンにし、
その上で顧客のベネフィットを訴える企業が支持を勝ち取りやすい。


イエスは宣教において、とても誠実だった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 わたしは敵対させるために来たからである。

 人をその父に、 娘を母に、 嫁をしゅうとめに。
 こうして、自分の家族の者が敵となる。

 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
 わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
 
 自分の命を得ようとする者は、それを失い、
 わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

  マタイによる福音書10:34-39
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスはきれいごとを言わなかった。

彼ははっきりと宣言した。
「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と。

イエスの教えを実践したとたん、またたくまに家庭が平和になる、
そんな安易なものではない。

一時的にしろ、家族が敵になることを覚悟する必要があるのだ。

家族のトラブルでがっかりして志を変えるようなら自分にふさわしくない、と
イエスはあらかじめ説明している。

イエスに従うには覚悟が必要なのである。

しかし、従い通したならば、「命を得る」こともイエスは語っている。

忍耐の先には、家族に「敵対」を超えた真の平和がもたらされるだろう。
覚悟をもって従う者へのベネフィットは計り知れないのである。

イエスは実に誠実に宣教した。

彼の教えは2000年経った今も健在である。

No.186 人々を恐れてはならない

2009-03-26 07:38:32 | マタイ
日常生活していると様々な感情が湧き起こってくる。
生きているのだから感情があるのはあたりまえだ。
無理に押し殺すことはない。

しっかりと感情の発するメッセージを受け止め、
プラスのエネルギーに転化すればいいのだ。

時には、恐れが生じることもあるだろう。
しっかり処理しないと大胆な行動を制約してしまう。

以下は、宣教に向かう前に使徒たちが受けたイエスのアドバイスだ。
恐れを感じた際、心を整理するために思い出してほしい。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「人々を恐れてはならない。
 覆われているもので現されないものはなく、
 隠されているもので知られずに済むものはないからである。

 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。
 耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
 むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。
 だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、
 地に落ちることはない。

 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。

 だから、恐れるな。
 あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

  マタイによる福音書10:26-31
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


「人々を恐れてはならない」
とイエスは語っている。

理由は、
「覆われているもので現されないものはなく、
 隠されているもので知られずに済むものはないから」。

相手が悪を行っているのなら、それはいずれあからさまになるし、
あなたが善を行っているのなら、それが知られずに済むことはない。

どんと構えていればいいのだ。

それよりもむしろ、神を恐れよ、とイエスは言う。

当時2羽の雀が1アサリオンで売られていた。
1アサリオンは1日の労働賃金の16分の1。
日給6千円なら、375円というところか。

そんな雀1羽の運命でさえ神の支配下にある。

ましてやあなたは、驚くべきことに、
「髪の毛までも一本残らず数えられている」ほど、大切にされている。

神はあなたとともにいる。
人々を恐れる必要はない。

No.185 蛇のように、鳩のように

2009-03-22 18:36:05 | マタイ
「仕事とは、○○だ。」
あなたなら○○を何で埋めるだろう?

それが比喩であるならば、全体の印象はより強烈になる。

宣教に向かう使徒たちへ、イエスのアドバイスが続く。
イエスは何かを説明するとき比喩を効果的に用いた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
わたしはあなたがたを遣わす。
それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。
だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

  マタイによる福音書10:16
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは、このわずか“一節”の中に、様々な動物を登場させている。
狼、羊、蛇、鳩。

彼は、宣教に遣わす町々を狼の群れに、
そこに向かう弟子たちを羊に例えている。

「狼の群れに羊を送り込む」
その先何が起こるのか、思わずイメージが喚起される・・・。
話を聞いていた弟子たちは、ここで一気に緊張が高まったことだろう。

そこで、イエスは、たたみかけるように次のアドバイスを与えた。
「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」

賢いだけでも、素直なだけでも不十分、
両方が必要だということをイエスは宣教に向かう弟子たちに伝えた。

ところで、「蛇のように賢く」と聞き、何を思い描くだろうか?

「鳩のように素直」では?

あなたなりのイメージが湧いたことだろう。
そこに効果があるのだ。
得てして、この方が長々と説教されるより印象に残りやすい。

大切なメッセージは、シンプルで鮮烈なものの方がいい。
その点、比喩は有効である。

あなたがセールスに向かう社員にアドバイスを与えるなら
どのような比喩を使うのだろう?


「蛇のように賢く、鳩のように素直に」

厳しいビジネスの世界で戦う現代のビジネスマンにも、
イエスのアドバイスは有効に働くのではあるまいか。

No.184 派遣前のアドバイス

2009-03-18 20:40:35 | マタイ
意識するしないにかかわらず、あらゆるビジネスは
マーケティングと切っても切れない関係にあるといえよう。

今日は、イエスの言葉から「マーケティング」を学んでみたい。

十二人の使徒が任命された。
イエスは彼らを方々へ派遣することにした。
派遣にあたり、イエスは使徒たちにアドバイスを与えた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。

 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、
 悪霊を追い払いなさい。

 ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。
 働く者が食べ物を受けるのは当然である。

 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、
 旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。

 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、
 あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。
 もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。

 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者が
 いたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
 はっきり言っておく。
 裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

  マタイによる福音書10:5-15
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスのこのアドバイスからあなたは何を学ぶだろうか?

「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」

異邦人やサマリア人の町ではなくイスラエル人の町へ。
イエスは地域を絞るよう勧めた。

イエスは人を分け隔てしたのか。
いや、できるだけ多くの人を助けるため、
最初は一か所に力を集中する必要があったのだ。


「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい」

イエスは派遣の目的を端的に伝えた。
目的は宣教と癒しだった。


「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」

無料のサービスだった。


「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない」

いわゆるバーターだった。


「ふさわしい人はだれかをよく調べ、
 旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」

やみくもに当たってはならない。
誰がふさわしい人かよく調べるように。
そして一度拠点を定めたら、そこにとどまるように。


「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」

あくまでも相手のため。
自分の営利を訴えるのではない。


「足の埃を払い落としなさい」

みんながみんな受け入れてくれるわけではない。
断られたからといっていちいち落ち込ます、
パッパと足の埃を払い落して、次に向かえばいい。

おもしろいのは、相手に「平和」を願いながら、
それが受け入れられなかった場合、
「その平和はあなたがたに返ってくる」ということである。


これらはマーケティングやセールスのヒントになるかもしれない。

No.183 十二使徒の任命

2009-03-14 09:05:57 | マタイ
歴史を振り返ると、何事かを成し遂げた人の周りには、
強力なチームが形成されていた例を数多く見つけることができる。

「収穫は多いが、働き手が少ない」

この課題に対しイエスはどう対処したか?
イエスが取った行動は次のようなものだった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。
汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。

十二使徒の名は次のとおりである。

まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、
ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
フィリポとバルトロマイ、
トマスと徴税人のマタイ、
アルファイの子ヤコブとタダイ、
熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

  マタイによる福音書10:1‐4
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

それまではイエスが一人で汚れた霊を追い出し、病気をいやしていた。

ここで、イエスは弟子たちの中から十二人を選び出し、彼らに「権能」を授けた。
単純に考えると、同じ時間で十二倍の人たちがいやされることになったのである。

イエスは彼ら十二人を「使徒」と呼んだ。
ここにイエスの特別チームが編成された。
彼らは常に傍にいてイエスの薫陶を受けることになる。

聖書には十二使徒の名前が紹介されている。

ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、フォリポとバルトロマイ、トマスとマタイ
ヤコブとタダイ、シモンとユダ。

性格もバックグラウンドも多岐に富んだ個性的な面々だ。

ここで注目したいのは、二人一組で紹介されていることである。
この後、イエスは彼らをペアで方々の町へ派遣した(マルコ6:7)。
6組のペアを作ったことには何らかの意図があったものと思われる。

イエスは、人々への宣教とともに、使徒たちの教育に情熱を注いだ。
彼の熱心な教育は後に大きく実を結ぶ。
イエスが地上を去った後、キリスト教を世界に宣べ伝えたのは彼らだったのだ。

あなたにはチームがあるだろうか?

No.182 収穫は多いが働き手が少ない

2009-03-10 21:32:26 | マタイ
一人の人間の能力には限界がある。
事業を拡大したければ、人材の登用は不可欠である。
それに伴い人材育成が重要な課題となる。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、
ありとあらゆる病気や患いをいやされた。

また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、
打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。

そこで、弟子たちに言われた。
「収穫は多いが、働き手が少ない。
 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、
 収穫の主に願いなさい。」

  マタイによる福音書9:35-38
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスはフル回転だった。
方々の町や村を訪問しては、教え、宣べ伝え、病気や患いを癒していた。
凄まじいほどの忙しさであったことだろう。

「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、
一同は食事をする暇もないほどであった。」(マルコによる福音書3:20)

イエスの目には、群衆が飼い主のいない羊のように映っていた。
弱り果て、打ちひしがれている・・・。
なんとかして助けてあげたかった。

イエスが自分の周りにいる弟子たちに語った。
「収穫は多いが、働き手が少ない」

ニーズがあるのに供給が追い付かない。

あなたも同じように感じたことがあるだろうか?
ビジネス的には恵まれた状況といえよう。

働き手が増えれば、収獲がさらに増す。
積極的に人材を登用するタイミングにあるのかもしれない。

イエスはこうも語った。
「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」

イエスは一人で行動していたわけではなかった。
このとき、弟子たちを従えていた。
弟子たちはイエスの活動をつぶさに目撃していた。

弟子たちに働き手としての自覚を促したのだろうか。

イエスは彼らに働き手の出現を祈るよう命じた。

十二人の使徒が任命されるのは、この後のことである。

働き手は案外身近な所にいるのかもしれない。

あなたの情熱、使命感を共有できる人材が増えていったら、
一体どんなことが起こるのだろう?

No.181 信じているとおりになる

2009-03-06 20:49:50 | マタイ
あなたが今、理想としていることは何だろう?

それが実現すると信じているだろうか?

イエスのもとには様々な人たちが近づいてきた。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、
「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。

イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、
「わたしにできると信じるのか」と言われた。
二人は、「はい、主よ」と言った。

そこで、イエスが二人の目に触り、
「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
二人は目が見えるようになった。

イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と
彼らに厳しくお命じになった。
しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

  マタイによる福音書9:27-31
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

二人の盲人がイエスに向かって叫んだ。
「わたしたちを憐れんでください!」

彼らの心中やいかに。

イエスは盲人の呼びかけにすぐ対応したか?
そうではなかったようだ。

だが、盲人たちはあきらめずに、叫びながらイエスについて行った。

イエスは家の中に入ってしまった。
盲人たちはあきらめたか。
NOである。

なんと彼らも家に入り、イエスにすがりついた。

そこで、やっとイエスが語りかけてくれた。
だが、出てきた言葉は「わかった。治してあげよう」ではなかった。

「わたしにできると信じるのか」
イエスが発したのは質問だった。

盲人たちは即答した。
「はい、主よ」

返ってきた言葉は「よろしい、見えるようになれ」ではなかった。

イエスは二人の目に触り、言った。
「あなたがたの信じているとおりになるように」

二人の目は見えるようになった。

信じているとおりになったのだろう。

イエスにどれほど力があったとしても
信じているとおりにしかならないようだ。

「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。
 疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。
 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。
 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」
                       (ヤコブの手紙1:6-8)

信じているとおりになるとしたら、
あなたの人生には何が起こるのだろうか?

No.180 新しい革袋

2009-03-02 20:56:49 | マタイ
「イノベーション」という言葉をよく耳にする。
「革新」あるいは「変革」という日本語とともに。
ところで、「革を新しくする」、「革を変える」とはどういうことなのだろう?

実は、固定観念に捕らわれている人に向かって
イエスが次のようなたとえ話をしている。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。
 新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。

 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。
 そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。
 新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
 そうすれば、両方とも長もちする。」

  マタイによる福音書9:16-17
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

服を選ぶときには注意を要する。
ちょうど用意サイズだと思って購入しても、
選択したとたんに縮んでしまうことがあるから。

新しい布はまだ収縮する余地がある。
織りたての布を古い服に継ぎ当てをすると、
新しい布がもう収縮しきった古い服を引っ張り、
破れをいっそうひどくさせる。

もっとも最近は、継ぎ当てされた服をほとんど見かけなくなったが・・・。


イエスは続けてもう一つの例えを話した。

「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない」

当時は水やぶどう酒を革袋に入れて持ち歩いた。

新しいぶどう酒は発酵する。
ガスを発生し容積を膨張させる。

古い革袋はガチガチに硬くなっていて
新しいぶどう酒の膨張に耐えることができない。
しまいには裂けてしまい、ぶどう酒を台無しにする。

一方、新しい革袋には、まだ柔軟性が残っている。
新しいぶどう酒を入れても、その膨張に応じて革を伸ばし、
ぶどう酒をしっかりとキープする。

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものなのだ。


このとき、イエスは自分を新しいぶどう酒に例えたようだ。
古い革袋はイエスを受け入れることができない。
イエスは新しい革袋にとどまることができる・・・。


この言葉は真理である。
様々なことに応用して考えることも可能だ。

あなたのビジネスに置き換えてみるとどうだろう?

「新しい○○は、古い□□には合わないものだ。
 新しい○○のために、□□を新しくしなければならない」


わかっていたとしても、これがなかなか難しい。
革製品は使い込めば使い込むほど愛着が湧いてくるものだ。
なかなか捨てることができない。

しかし、経営者が固定観念にはまって出られなくなると、
時代の流れに対応できず、企業はいずれ破裂してしまう。

経営者には常に柔軟性が求められるということだろう。
自分自身の革袋が古くなっていないかチェックする必要があるかもしれない。