経営者のための聖書講座

永遠のベストセラー、聖書からビジネスのヒントを学ぶ

No.240 知的財産権

2009-10-31 00:14:02 | マルコ
知的財産の保護は企業が抱える関心事の一つだ。

せっかく苦心して編み出した製品の模造品が出回ったら、
あなたならどう対応するだろう?

イエスの場合は?

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ヨハネがイエスに言った。
「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、
 わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」

イエスは言われた。
「やめさせてはならない。
 わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。

 はっきり言っておく。
 キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、
 必ずその報いを受ける。」

  マルコによる福音書9:38-41
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

弟子のヨハネが由々しき事態を目撃したので、
早速イエスに報告した。

自分たちと縁もゆかりもない者が勝手にイエスの名前を用いて
悪霊を追い出しているシーンに出くわしたのだ。

雷の子とも呼ばれていたヨハネは、いてもたってもいられなかったのだろう。
直接抗議し、その者の活動を停止させるよう働きかけた。

その一部始終を彼はイエスに伝えたわけである。
ヨハネはイエスにほめられることを期待していたのかもしれない。

しかし、それを聞いたイエスの口から出てきた言葉はこうだった。

「やめさせてはならない」

彼は勝手に自分の名前を使われたのに、
あえてそれをやめさせようとはしなかった。

「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。
 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」

その者のことを自分の味方であるとイエスは捉えた。
「にっくき商売敵」とはみなさなかったのである。

イエスの見ていたものは何だろう?

あなたは今、この話を読み、どのような感想を抱いているのだろう?





No.239 山登り

2009-10-25 01:46:47 | マルコ
人材は人財だ。

事業の成否は人材育成の如何によると言っても過言ではないだろう。

効果的な人材教育とは?

マルコ9章2節から7節を読んでみよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、
高い山に登られた。

イエスの姿が彼らの目の前で変わり、
服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。
エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

ペトロが口をはさんでイエスに言った。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。
 仮小屋を三つ建てましょう。
 一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。
弟子たちは非常に恐れていたのである。

すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。
「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

  マルコによる福音書9:2-7
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは高い山に登った。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴っていた。
この三人は十二人の中でも明らかに特別であった。(マルコ5:37、14:33参照)

これは登山である。
三人の弟子たちにとって、イエスと一緒に息を切らしながら、山頂をめざした
この時間は特別なものであったに違いない。

だが、特別なのは山登りだけではなかった。
弟子たちは山頂で更に強烈な体験をすることになる。

姿を変えたイエスがモーセとエリヤと語り合っているシーンを目撃したのだ。
これは、まさに頂上会談である。
モーセ、エリヤは言わすと知れた旧約聖書中の大ヒーロー達なのであった。

弟子たちは語る言葉を失った。
かろうじてペトロが意味不明なことを口走ったのみであった。

更には、雲の中からの声を耳にする。

彼ら三人にとって生涯忘れることのできない体験になったことだろう。

イエスがこの頂上会談に一人で臨まなかったのはなぜだろう?

彼の行動には常に教育的意図が含まれていたように思える。

ペトロ、ヤコブ、ヨハネが後々、指導的立場に立つことを
期待していたイエスは、いわば研修の一環として
彼らをこの場に同席させたのではなかろうか。

直に見て、聞いて、感じることの教育効果は絶大だ。

皆さんはどの社員と一緒に「山登り」をするのだろう?

誰を「頂上会談」に同席させるのだろう?

たとえ、その社員が素っ頓狂なことを言ったとしても気にすることはない。

No.238 周囲の評判と自分の意見

2009-10-21 03:51:13 | マルコ
新聞やテレビにより今日も様々な社会問題が報じられている。
今日のニュースで印象に残っているものは?

それについてのあなたの意見は?
と聞かれたら、あなたはどう反応するだろう?

マルコ8章27節から29節を読んでみたい。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。

その途中、弟子たちに、
「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。

弟子たちは言った。
「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。
ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

そこでイエスがお尋ねになった。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

ペトロが答えた。
「あなたは、メシアです。」

  マルコによる福音書8:27-29
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


自分の意見をしっかり持つ。

周囲に流されない。

そんな強さを持つ者がリーダーとなる。

イエスは弟子たちに自分について人々が何とうわさし合っているか聞いた。

世の人々は、イエスのことを「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、
あるいは「預言者の一人だ」などと評していた。

しかし、それはあくまで他の人々の意見。

イエスは続けて弟子たちに問いかけた。
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

あなたがたの意見は?

自分の確信を持たずに風評に流され、あっちに行ったり、こっちに来たり・・・、
そんな人が意外に多い。

表面的な問題点を指摘するのは得意だが、
解決策をどう考えるか?と聞かれると口をつぐんでしまう人もまた多い。

イエスは弟子たちに、自分の意見を持ち、
それをはっきり表現することを期待した。
特にイエスが何者かという重要な問いに対しては。

ペトロが自ら率先して発言した。
「あなたは、メシアです」

後々、彼は十二人の中で指導的立場を託される。

確信の表明はリーダーシップの条件の一つだ。

あなたの確信は?




No.237 パン種とパン屑

2009-10-17 00:21:11 | マルコ
イエスは弟子たちに考えさせる教育をした。

ここでも大事なことを悟らせようとあえて問いを投げかけている。

マルコ8章14節から21節を読んでみよう。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、
舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。

そのとき、イエスは、
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」
と戒められた。

弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、
と論じ合っていた。

イエスはそれに気づいて言われた。
「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。
 まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。
 覚えていないのか。

 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、
 集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」

弟子たちは、「十二です」と言った。

「七つのパンを四千人に裂いたときには、
集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」

「七つです」と言うと、
イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

  マルコによる福音書8:14-21
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イエスが弟子たちと舟に乗っている。

イエスはそこで弟子たちに戒めを授けた。
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」

折しも、弟子たちは食糧であるパンを舟に持ち込むのを忘れていた。

弟子たちは自分たちの失敗にフォーカスしてしまい、
イエスの戒めの真意を理解することができなかった。

上司と部下の話がかみ合わないのは良くあることだ。
部下が自分の犯した失敗にくよくよし、自信を失っているときに
そのようなことが起こりやすいことを上司は理解したらいいだろう。

イエスが語っていたのは食糧のことではない。
あくまでも「ファリサイ派」のパン種と
「ヘロデ」のパン種について語っていたのだ。

「あなたがたが誇っているのは、よくない。
 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。」
                                 (Ⅰコリント5:6)
             
パン種は練り粉を膨らます力をはらんでいる。
小さいながら影響力は絶大だ。

ここからイエスの質問ラッシュが始まる。

弟子たち自身に考えさせようとしたのである。

実はこのとき弟子たちは、二回に及ぶ、パンの奇跡を目撃した後であった。

イエスは彼らに思い出させようとした。
五つのパンを五千人に分け与えた余りが十二籠。
七つのパンを四千人に分け与えた余りが七籠。

当たり前に考えて理屈に合わない。

だが、理屈を超えたことが起こるのが人生なのだ。

「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、
 刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」
                               (Ⅱコリント9:6)

ここでは、どれだけ失わないようにするかを考えるより、
どれだけ与えるかに焦点を当てることが肝要だ。

もしかしたら、本当の豊かさのカギがここに秘められているのかもしれない。
そして、それを妨げるものが悪いパン種なのだ。

ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種の危険性を悟らせようと
イエスは余ったパンの籠の数を弟子たちに尋ねた。

あなたなりに、ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種とは何か、
よく考えてみてほしい。

そして、あなたの会社がそれら悪いパン種に毒されていないかどうか
確認してみてほしい。

No.236 それほど言うのなら

2009-10-12 21:55:24 | マルコ
人の心に訴えかけるもの、
それは何だろう?

その何かが結果に違いをもたらす。

今回もマルコ7章から。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。
ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、
人々に気づかれてしまった。

汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、
すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、
娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。

イエスは言われた。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。
 子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」

ところが、女は答えて言った。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」

そこで、イエスは言われた。
「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。
 悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」

女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

  マルコによる福音書7:24-30
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは限られた時間を計画的に行動していた。

ティルス地方に赴いた目的は、大々的な宣教ではなかったようだ。
イエスは人目を忍んでこの地に来ていたが、人々に気づかれてしまう。

うわさを聞きつけたある母親がイエスのもとを訪ねた。
悪霊に取りつかれ苦しんでいた娘を助けてもらいたかったのだ。

彼女はシリア・フェニキア生まれのギリシア人だった。

イエスはすべての人の救いを願っていたが、優先順位があった。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。
 そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、
 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
                             (使徒1:8)

上記は、後にキリスト教を全土に布教することになる弟子たちに
イエスが語った言葉である。
『使徒言行録』を読むと、まさにこの順番で福音が伝播していくのがわかる。

偉大な計画を成し遂げるため、イエスはこの時、イスラエル人に集中していた。

長期的なビジョン、選択と集中、実行力を経営者としてまねしたいものである。

人目を避けた旅の途中、ギリシア人の女性に奇跡を求められたイエスは、
彼女に断わりのメッセージを伝えた。

「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。
 子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」

小犬にたとえられた母親はどうしただろうか?

ひるんで立ち去ってもおかしくないところだ。

だが、彼女は機転を利かせてイエスに答えた。

「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」

小犬でもかまわない。
食卓からこぼれおちるパン屑でいい。
とにかくいただきたい。

この母親は必死に食い下がったのだ。

イエスは彼女のあきらめない態度を見て彼女に語りかけた。

「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。
 悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」

彼女の娘は特別にいやされた。

イエスは柔軟性も兼ね備えていたのだ。

御社の社員が、そしてあなたが、
この母親のような粘り強さと発想力、その源となる愛をもって
仕事に取り組んだら、どのような変化が生じるだろう?

「それほど言うなら、・・・」

そう顧客に言わせることができるかどうか考えてみたい。

No.235 人間の言い伝え

2009-10-08 19:37:41 | マルコ
目的を達成するために作られたルールが、いつの間にか金科玉条となってしまい、
ルールを守ること自体が目的になってしまうパターンを方々で見かける。

手段と目的が逆転しているのだ。

そのような人の集まりは、思考が膠着化していて
状況の変化に柔軟に対応するのに困難を極める。

イエスの時代にもそんな頭の固い人たちが存在した。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、
イエスのもとに集まった。
そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、
つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。

――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、
昔の人の言い伝えを固く守って、
念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、
また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。
そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、
昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。――

そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、
汚れた手で食事をするのですか。」

イエスは言われた。
「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。
 彼はこう書いている。

 『この民は口先ではわたしを敬うが、
  その心はわたしから遠く離れている。
  人間の戒めを教えとしておしえ、
  むなしくわたしをあがめている。』

 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」

  マルコによる福音書7:1-8
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ファリサイ派の人々と律法学者たちは、イエスの弟子たちを見て驚いた。

なぜなら、彼らが手を洗わずに食事をしていたから。

当時、彼らが手を洗わずに食事をすることはなかった。
それは衛生面の観点からというより、
恐怖心からと言っていいだろう。

それは儀式のようなものだった。
他にも、市場から帰ったら体を洗うとか、食器や寝台を洗うこととか、
「昔から受け継いで固く守っていること」が彼らにはたくさんあった。

ちなみに、それらは神の律法の書には存在していない教えであった。
そもそも神の律法は、愛に基づいたものである。

「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
  あなたの神である主を愛しなさい。』
 これが最も重要な第一の掟である。
 第二も、これと同じように重要である。
 『隣人を自分のように愛しなさい。』
 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」
                   (マタイ22:37-40)

では、単なる人間の言い伝えに過ぎないものを
なぜ彼らは頑なに守っていたのだろう?

おそらく、ルールから外れるのが怖かったのだろう。

彼らの思考は人間の作り出したルールでがんじがらめになっていた。
自由で柔軟な発想ができなくなっていたのだ。

残念なことに、当時、イエスの言うことを素直に受け入れられなかった人々は、
このグループに多かった。

あなたの会社にも固く守っている掟というものがあるかもしれない。

それらは何のためにあるのか?

それが社員の自由な行動を縛りつけ、柔軟な発想を妨害しているとしたら、
思い切って見なおすことを考慮した方がいい。

ちっぽけなこだわりのために、
本当に大事なものを見失ってしまうかもしれないからだ。

「愛には恐れがない。」 (Ⅰヨハネ4:18)。

No.234 恐れることはない

2009-10-06 00:08:57 | マルコ
現在、あなたと社員たちとの関係は良好だろうか?

「なんでこんな簡単なことができないんだ」と
社員にイライラすることはないだろうか?

気をつけないと溝はどんどん広がっていく。

今日もマルコ6章から学んでいきたい。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
皆はイエスを見ておびえたのである。

しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。

  マルコによる福音書6:50
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

弟子たちを舟に乗りこませ、イエスは祈るため一人山へ入った。

弟子たちは湖を舟で渡ろうとしたが、逆風のために漕ぎ悩んでいた。
湖の真ん中あたりに舟は出たが、一晩かけてもなかなか前進しない。

イエスはそれを見ると、なんと湖の上を歩いて弟子たちの舟に近づいた。
自分たちの思考の限界を超えた現象に直面し、弟子たちはイエスにおびえた。

レベルの差こそあれ、このようなことは日常、社内でも起こり得る。

社員らが「逆風」に遭い、仕事に「漕ぎ悩む」。
ところが、経験豊富なあなたはそんな荒波をいとも簡単に乗り切ってしまう。
社員たちはあなたに対し、ある種の恐れを抱く・・・。

実力に差があるのはあたりまえだ。

だが、人はあまりにも自分とかけ離れた存在に触れたとき
恐れを感じてしまうことがある。

おびえる弟子たちにイエスは何をしたか?

「イエスはすぐ彼らと話し始め」た。

「安心しなさい・・・」

仕事に「漕ぎ悩む」社員に対し、自分の方から
声をかけてあげるということをあなたはしているだろうか?

緊張の最中、あなたから安らぎの言葉をかけられた社員は、
どんな気持ちになるだろう?

経営者が心がける何気ないコミュニケーションが、
余計なコンプレックスや軋轢から社員を守り、
ヤル気を醸成させたりすることもあるのだ。