経営者のための聖書講座

永遠のベストセラー、聖書からビジネスのヒントを学ぶ

No.233 あなたがたが、与えなさい

2009-09-30 23:09:59 | マルコ
「顧客満足」とはよく聞く言葉だ。
しかし、ただ聞いているだけでは絵に描いた餅。

社員一人一人の心掛けがあって初めてそのような現象が生じる。

日頃の社員教育とリーダーたる経営者の模範が不可欠といえよう。

与えることにおいてイエスが抱いていた期待に触れてみよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは、
「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」
と言われた。
出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、
すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、
飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
 人々を解散させてください。
 そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」

これに対してイエスは、
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。

弟子たちは、
「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、
 みんなに食べさせるのですか」と言った。

イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」
弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」

そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、
青草の上に座らせるようにお命じになった。
人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。

イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、
パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
すべての人が食べて満腹した。

そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
パンを食べた人は男が五千人であった。

  マルコによる福音書6:31-44
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスの弟子たちは忙しい生活を送っていた。
出入りする人が多く、食事をする暇もなかった。

ある日、イエスはそんな彼らに言った。
「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」

弟子たちの歓声が聞こえてきそうである。

さっそく一同は舟に乗り、人里離れた所へ向かった。

あたかも、日常の業務を離れ、リゾート地で社員旅行を楽しむような感じだ。
舟の中の弟子たちは、既にリラックスしながら、
人里離れた場所でのバカンスを夢見ていたのではなかろうか。

しかし、一行を乗せた舟が「人里離れた所」に近づいたとき、
弟子たちは、信じられない光景を目の当たりにする。

岸辺には、イエスの行き先を嗅ぎ付け、先に到着した群衆がひしめいていたのだ。
既にそこは、「人里離れた所」ではなかった。

弟子たちはそこで、引き返したい衝動にかられたかもしれない。

上陸したイエスは、大勢の群衆を見て、彼らを憐れんだ。
そして、いろいろと教え始める。

「飼い主のいない羊のような」状態の群衆を
無視することができなかったのである。

休暇中のはずの弟子たちは夕方まで
イエスのサポートをしなければならなくなった。

大分時間がたったころ、弟子たちはイエスに進言する。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。
 人々を解散させてください。
 そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」

一見、群衆に対し、細かい心配りをしているようにも見えるが、
早く仕事から解放されたいがゆえにそう言っているように思えるのは気のせいか。

これに対してイエスは何と答えたか?

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」

弟子たちは反応した。
「わたしたちが・・・?」

どこまで与えなければならないのか?

弟子たちはこのとき、気が遠くなるような思いにとらわれていたかもしれない。

しかし、この後である。
有名な奇跡が起きるのは。

五つのパンと二匹の魚を用いて、
イエスは、五千人の男を満腹させ、さらに十二籠の余りを生じさせる。

どこまでも与える姿勢から奇跡が生まれたのである。

休暇中に群衆を見た時点で与えることを拒否することもできた。
長い時間をかけて群衆を教えた後で与えることをやめてもよかった。

しかし、イエスは休暇中であろうが、十分に教えた後であろうが、
与えることをやめずに、更にまた与えた。

あなたの会社の与える限界はどこか?

あなたは社員が顧客に対し、どこまで与えることを期待しているのだろう?

顧客にとっての「満腹」とは、どのような状態を指すのだろう?

「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」(ルカ6:38)

奇跡的な成果は、限界を超えた「与える心」から生じるのかもしれない。


No.232 非常に心を痛めたが

2009-09-26 17:31:33 | マルコ
今日はマルコ6章14節から29節を読んでみたい。

意志決定に焦点を当てながら。

イエスの活躍は国中で話題になっていた。
うわさはヘロデ王の耳にも入る。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。
人々は言っていた。
「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。
 だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、
「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。

ところが、ヘロデはこれを聞いて、
「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

  マルコによる福音書6:14-16
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

人々はイエスのことを「洗礼者ヨハネが生き返った」とか
「エリヤだ」とか「預言者だ」とかうわさし合っていた。

様々な意見がある中で、ヘロデは、
「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と口にする。

おそらく彼の傷ついた良心がそういった反応を起こさせたのだろう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、
そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。
ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と
ヘロデに言ったからである。

そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、
彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。
なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、
彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、
なお喜んで耳を傾けていたからである。

ところが、良い機会が訪れた。
ヘロデが、自分の誕生日の祝いに
高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、
ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。

そこで、王は少女に、
「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、
更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。

少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、
母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。
早速、少女は大急ぎで王のところに行き、
「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。

王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、
また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。
そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。

衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、
盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、
やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

  マルコによる福音書6:17-29
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ヘロデは自分の兄弟の妻と結婚していた。

それが律法では許されていないことを直接彼に指摘したヨハネを、
ヘロデは捕らえ、牢に入れる。

とはいうもののヘロデ自身、ヨハネが正しい聖なる人であることを認めており、
非常に当惑しながらも彼の教えに喜んで耳を傾けたりしていた。
ヨハネのことを恐れるヘロデは、彼を殺すことができずにいたのだ。

ところがヘロデの誕生祝いの宴席で、彼自身予期していなかっただろう
方向へと事態が展開する。

踊りをおどって客席を喜ばせたへロディアの娘に、
上機嫌のヘロデは、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」、
更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と誓ってしまったのだ。
たぶん少々酔っぱらっていて気が大きくなっていたのだろう。
軽い気持ちで口走ったのではないか。

ヘロディアから入れ知恵された娘の願いはおぞましいものだった。
「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」

それを聞いたヘロデは、非常に心を痛めた。

しかし、高官や将校、ガリラヤの有力者など宴席の出席者の前で
面子を保ちたかったのだろう。
結局、ヨハネの首をはねるよう衛兵に命じる。

この判断は彼の心に後味の悪さを残したに違いない。

イエスのうわさを耳にしたとき、
ヘロデは、真っ先にヨハネのことを思い浮かべたのだ。

人目を気にし、自分の意に反した判断を行った彼は、
自らの良心が作り出す「ヨハネの亡霊」に
一生悩まされたのではないだろうか。

それなりの権能を持ち、日々様々な意志決定をする経営者の方々。
わきまえておいた方がいい。
人目を気にし、流されて自分の価値観とは逆の決定を下すようなことがあれば、
後々、苦しむことになりかねないと。

良心は素直に反応しているのである。

「こういう人々は、律法の要求する事柄が
 その心に記されていることを示しています。
 彼らの良心もこれを証ししており、
 また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、
 同じことを示しています。
 
 そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、
 人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、
 明らかになるでしょう。」
      (ローマの信徒への手紙 2:15-16)

No.231 信仰と奇跡

2009-09-22 22:32:53 | マルコ
信仰とは?

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」
                        (ヘブライ人への手紙11:1)

目に見えないからといって存在しないとはいえない。
実際、目に見えないのにその存在を確信しているものは数多くあるだろう。
あなたにとってそれは何か?

多かれ少なかれ人々は信仰を持って生きているのだ。

「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
 神に近づく者は、神が存在しておられること、
 また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、
 信じていなければならないからです。」
                        (ヘブライ人への手紙11:6)

マルコによる福音書6章を読んでみたい。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。
安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。

多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。
「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。
この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

この人は、大工ではないか。
マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。
姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」

このように、人々はイエスにつまずいた。

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」
と言われた。

そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
そして、人々の不信仰に驚かれた。

それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

  マルコによる福音書6:1-6
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは弟子たちと共に故郷のナザレに帰った。

イエスはこの町で長年大工をしていた。
母マリアを初め、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンという名の弟たち、
妹たちはこの町の住人だった。

イエスが会堂で教え始めると、それを聞いたナザレの人々の多くは、驚嘆した。

だが、残念なことに、つまずいてしまう。

あまりに身近な存在であるがゆえに、
イエスが神の子であるということが、彼らには信じられなかったのだ。

「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」、
イエスはそう嘆いた。

あなたがいくら立派になっても、故郷の人々にとっては、
今も昔と変わらぬ「□□の○○ちゃん」であったりするのだ。

ここで興味深いのは、
「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
 そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」
ということだ。

イエスは、ナザレでは奇跡を行うことができなかったようだ。
各地を旅しながら、それまで数々の驚くべき業を示してきたというのに。
体調を崩していたのか?
いやそうではあるまい。

「人々の不信仰に驚かれた」とある。

信仰を奇跡はセットのようなもの。
イエスの力だけでは奇跡は生まれない。
人々の信仰と相まって奇跡というものは起きるということなのだろう。

信じる者に奇跡は起きるのだ。

あなたの人生にも奇跡が起こる可能性は十分にある。

イエスはあなたの信仰を見てどう反応するだろう?

No.230 ゲサラ人の地方

2009-09-18 23:15:40 | マルコ
イエスは舟で湖を渡っては岸辺の町に上陸し、宣教した。

「イエスが帰って来られると、群衆は喜んで迎えた。
 人々は皆、イエスを待っていたからである。」
                 (ルカによる福音書 8:40)

上記はある町の反応であるが、この直前に舟で訪れた町は、
イエスに対し別の対応を取った。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
イエスが舟から上がられるとすぐに、
汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。

この人は墓場を住まいとしており、
もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、
だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。

イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。
「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。
 後生だから、苦しめないでほしい。」
イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。

そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、
「名はレギオン。大勢だから」と言った。
そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、
イエスにしきりに願った。   

ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。
すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、
湖の中で次々とおぼれ死んだ。
豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。

人々は何が起こったのかと見に来た。
彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、
正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
成り行きを見ていた人たちは、
悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。

そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。

イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、
一緒に行きたいと願った。
イエスはそれを許さないで、こう言われた。
「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、
 あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」

その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことを
ことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。
人々は皆驚いた。

  マルコによる福音書5:1-20
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ゲサラ人の地方の上陸したときのことである。

舟から上がったイエスを真っ先に迎えたのは墓場の住人だった。
彼は、汚れた霊に取りつかれていた。

昼も夜も墓場や山で叫び、石で自分の体を打ちたたいたりした。
人々が鎖で縛っても、すぐに引きちぎってしまい、
彼をつなぎとめておくことはできなかった。

もはや誰も手がつけられない状態だったのである。

御社には、訳が分からないことを叫んでは自分で自分を傷つけている、
といったような手がつけられない社員はいないだろうか?

イエスがこの状況で放った言葉は、
「汚れた霊、この人から出て行け」であった。

イエスは、この人自身を責めたり、鎖でつなぎとめたりしようとはせず、
彼を支配していた悪霊の存在を見抜き、悪霊に対して叱責を加えた。

その後、イエスは汚れた霊に尋ねている。「名は何というのか」と。
悪霊からは、「名はレギオン。大勢だから」との返答があった。
「かまわないでくれ」と言っていたのは何だったのか。

レギオンはイエスにしきりに願った。
「自分たちをこの地方から追い出さないように」 

汚れた霊どもは二千匹ほどの豚の群れに乗り移ると
崖を下って湖の中へなだれ込んだ。

レギオンから解放された人はすっかり正気に戻った。

この町の人々は事の次第を知ると、
イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。

彼らはイエスを歓迎しなかったのである。
何か都合が悪いことでもあったのだろうか。
イエスの滞在を彼らは拒否した。

レギオンがこの地方から出て行きたくなかったのと関連があるのではなかろうか。
おそらくレギオンにとって、そこは住み心地のいい土地だったのだろう。
レギオンに都合のよい環境を作りだしていたのは
この地に住む人々自身だったのかもしれない。

会社によって、それぞれ異なった社風が存在する。
明るい、自由な、人が思わず集まってくるような社風もあれば、
ギスギスしていて、暗く、問題が絶えないような社風もある。

あなたの会社の社風は?
レギオンが喜ぶようなものでないことを願うばかりだ。

環境は自分たちが作り出している。

あなたの会社から追い出さなければならないものがあるとしたら、
それは何だろう?

No.229 成長する種

2009-09-14 19:52:57 | マルコ
はじめは小さくても、グングン成長し大きくなる・・・。
いいイメージだ。夢と希望がある。

今日もマルコ4章の言葉を読んでみたい。

イエスはここで、神の国を種にたとえている。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
また、イエスは言われた。
「神の国は次のようなものである。

 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、
 種は芽を出して成長するが、
 どうしてそうなるのか、その人は知らない。

 土はひとりでに実を結ばせるのであり、
 まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。
 実が熟すと、早速、鎌を入れる。
 収穫の時が来たからである。」

更に、イエスは言われた。
「神の国を何にたとえようか。
 どのようなたとえで示そうか。
 それは、からし種のようなものである。

 土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、
 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、
 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

   マルコによる福音書4:26-32
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

改めて思うと、種というのは不思議な物体だ。
黒っぽい(多くの場合)、小さな一粒の塊が、芽を生じさせ、茎を伸ばし、
しまいには実まで結ばせる。

特にからし種などは、種の中で最も小さいのに、
いったん成長すると、どんな野菜よりも大きくなり、
鳥が巣を作るほど大きな枝を張るという。

吹けば飛んでしまうような、ごく小さな点のようなからし種が秘める
パワーは驚異的だ。

種には、ものすごく大きな可能性が詰まっているのである。

このような現象に勇気づけられる人は多いだろう。

あなたは今日どんな種を蒔いたのだろう?

一本の電話、一通のFAX、メール。
ちょっとした一言、励まし、笑顔・・・。

これらが、知らず知らずの間に芽を出し、茎を伸ばし、実を結ばせる。

そんな可能性を考えたらワクワクするではないか。

蒔かれた小さな種には、大きく成長の可能性が秘められているのだ。

イエスは神の国をこのような種にたとえて説明した。

No.228 三十倍、六十倍、百倍

2009-09-10 23:05:37 | マルコ
今日はマルコ4章である。

湖畔に集まった「おびただしい群衆」(マルコ4:1)に、
イエスが湖に浮かぶ船の上から教えを授けている。

イエスはここで一つのたとえ話を語った。
『マタイ』、『マルコ』、『ルカ』と三つの福音書に収録されている
有名なたとえ話だ。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「よく聞きなさい。
 種を蒔く人が種蒔きに出て行った。

 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、
 鳥が来て食べてしまった。

 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、
 そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

 ほかの種は茨の中に落ちた。
 すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、
 あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

  マルコによる福音書4:3-8
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

種にそう差はなかったであろう。
なのに、結果が違った。
ある種は、三十倍、六十倍、百倍になった。

経営者の皆さんにとって、「三十倍、六十倍、百倍」は、
魅力的な響きを持つフレーズなのではないだろうか。

結果がゼロの場合もあれば、百倍になる場合もある。

この差は一体何なのか?

原因は種が蒔かれた場所にあった。

どこに蒔くか、誰に蒔くかが大事なのである。

このたとえ話の意味は、イエスによって以下のように説明されている。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
また、イエスは言われた。
「このたとえが分からないのか。
 では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。

 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。

 道端のものとは、こういう人たちである。
 そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、
 すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。

 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。
 御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、
 自分には根がないので、しばらくは続いても、
 後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。

 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。
 この人たちは御言葉を聞くが、
 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、
 御言葉を覆いふさいで実らない。

 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、
 ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」

  マルコによる福音書4:13-20
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

「種」は神の言葉。

「道端」、「石だらけの所」、「茨の中」、「良い土地」は人。

人間の心に蒔かれた神の言葉が、その後どうなるのかが語られていたのだ。

同じ神の言葉でも蒔かれる場所によって効果が異なる。
「良い土地」に蒔かれると、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ。

「道端」、「石だらけの所」、「茨の中」、「良い土地」。

あなたの心は今、どのタイプに相当しているだろう?


No.227 十二人の任命

2009-09-06 18:57:42 | マルコ
一人の力には限界がある。
大きな志に継続的に取り組むためには、人材育成が不可欠だ。

イエスは、自分の代で「全ての民を弟子にする」(マタイ28:19)という
壮大な夢が成し遂げられるとは思っていなかった。
志の実現に向け、自分の意志を継ぐ後継者を育てることに力を注いだ。

イエスが選んだのは十二人だった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスは山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、
彼らはそばに集まって来た。
そこで十二人を任命し、使徒と名付けられた。

彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

こうして十二人を任命された。

シモンにはペトロという名を付けられた。
ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、
この二人にはボアゲルネス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。

アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、
タダイ、熱心党のシモン、それに、イスカリオテのユダ。

このユダがイエスを裏切ったのである。

  マルコによる福音書3:13-19
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

十二人が任命された場は山の上だった。
非日常的な空間である。

イエスは「これと思う人々」を自ら選んだ。
大切なミッションのための人選は誰でもいいわけではない。

あなたにとって「これと思う人々」は誰だろう?

イエスは「これと思う人々」を呼び寄せた。
能動的なアプローチである。

山の上で十二人を任命すると、彼らに「使徒」というグループ名を与えた。
特別な名前があるとグループとしてのアイデンティティーがぐっと高まる。

ここでは「使徒」のチームメンバーが一人一人紹介されている。
イエスはこのメンバーをこよなく愛した。
何人かには愛称までつけている。
シモンをペトロ。
ヤコブとヨハネをボアゲルネス(雷の子ら)。

使徒が選ばれたのは、
「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」

イエスは彼らを自分のそばに置いて、
自分の生き様から大切なことを学ばせようとした。
そばで見て、聞いて、感じることが、成長を促進させる。
どんな世界でも弟子は師匠のそばで、その息遣いをまねしながら成長するものだ。

また、イエスは実際に彼らを派遣し、宣教といやしを体験させた。
座学だけでは限界がある。
実際にやってみて学ぶことは多い。

イエスはこの十二人を約三年かけて徹底的に鍛え上げる。

キリスト教が世界に広まったのは「使徒」たちの活躍によるところが大きい。
イエスの教育がいかに効果的だったかは、使徒たちの働きが証明している。

あなたは今誰かを育てているのだろう?

その人たちを自分のそばに置いているだろうか?

適度に派遣しているだろうか?

No.226 感情表現

2009-09-02 21:00:58 | マルコ
自分の感情を押し殺して仕事をしている人がいる。

リーダーは感情が他人に悟られないようにする方がいいのだろうか?

はたしてイエスはどうだったのか?

マルコ3章にある以下の部分を読んでみよう。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
イエスはまた会堂にお入りになった。
そこに片手の萎えた人がいた。

人々はイエスを訴えようと思って、
安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。

イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。

そして人々にこう言われた。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。
 命を救うことか、殺すことか。」

彼らは黙っていた。

そこで、イエスは怒って人々を見回し、
彼らのかたくなな心を悲しみながら、
その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。

伸ばすと、手は元どおりになった。

ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、
どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

  マルコによる福音書3:1-6
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

イエスは会堂に向かった。
その日は安息日だった。

会衆の中に片手の不自由な人がいた。

頭でっかちな人々にとっては、
安息日に病気をいやすことは重大なルール違反だった。
主旨を理解せず、ただ律法的になっていたのだろう。

律法に従う際、彼らの心の大部分を占めていたのは、
愛よりも恐れだったのではあるまいか。

そうなると視野が本当に狭くなる。
彼らの注目は、イエスが安息日に病気をいやすかどうかに絞られた。

片手が萎えて苦しんでいる人への憐れみ、
その人が肉体的、精神的苦痛から解放されることへの喜び、
奇跡を起こされる神への賛美、等、
安息日に本来求められていたことなどは、残念ながら彼らの眼中になかった。

ここで奇跡を行えば彼らの反感を買うことがわかっていたはずだが、
イエスはあえて、片手の萎えた人を会衆の真ん中に呼び出した。

イエスは人々に問いかける。
「安息日に律法で許されているのは、
 善を行うことか、悪を行うことか。
 命を救うことか、殺すことか」

質問を投げかけることで、個々に考える機会を与えた。

彼らは黙っていた。

その直後のイエスに注目してみよう。

「そこで、イエスは怒って人々を見回し、
 彼らのかたくなな心を悲しみながら、
 その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。」

と、『マルコによる福音書』には記されている。

イエスは、この短い時間の中で、「怒り」と「悲しみ」という
二種類の感情を順番に抱いた。

彼が口にした言葉は「手を伸ばしなさい」だけだ。
感情を表す言葉をここでは一切語っていない。

なのに、彼の「怒り」と「悲しみ」は、十分周りに伝わった。

どれほど素直な人だったのだろう。

あなたは一瞬一瞬の自分の感情の動きを押し殺さずに、
素直に味わうことができるだろうか?

あなたの感情の動きは、周囲にいる人に伝わっているだろうか?
いい意味で、わかりやすい人だろうか?

自分の気持ちを無視して生きていると、心が無感覚になっていくものだ。
そうなると細やかな感情の動きを表現することは困難になる。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイ7:17)

イエスの人生の実と律法的な者たちの人生の実を比べると、
その木の良し悪しは一目瞭然であろう。

イエスの周りには常に人が集まった。

現在においても、イエスほど世界中で慕われている人はいない。
彼の誕生日と言われる日の様子を思い出してみればわかることだ。

彼は感情豊かな人だった。

はたしてあなたは?