Club jannmu

future meet past 
I recommend that you read back

創発的なタイピング練習 ④

2022-01-12 11:53:50 | 本の紹介

              おわりに

 

 本章の議論をまとめよう。生命が生き延びるための暗黙の力の発揮を「創発」と呼ぶ。この創発が実現されるjことにより価値が生まれる。有効な経済活動の本質は、創発を呼び起こすために必要なものを、必要な場所に届けることである。この「もの」には情報が含まれる。一方、市場というシステムは、人々が納得する水準に貨幣的価値=価格を定める。この水準に従って利益の出る活動が促進されることで、間接的に創発的価値の生成を助長するのが市場の機能である。ところが、創発的価値と貨幣的価値とは常に乖離する。この乖離を乗り越えて、創発的価値と貨幣的価値を結びつけること、つまり、意味があって利益の出る仕事を見出して実現するのが企業の使命である。創発的価値と貨幣的価値との乖離は、社会を崩壊に導く危険性を帯びており、この乖離をいかに小さくするかが、経済制度や政策も目的であるはずだが、財政は往々にして放漫となり、この乖離を拡大してしまう。

 次章では、以上の考察をふまえて、創発的マネジメントとは何か、という問題を議論する。そこで主として扱うのはドラッカーのマネジメント論である。

 

 

 

 付論 『活きるための経済学』のミクロ経済学批判との関連性

 

 本章の熱力学第二法則をめぐる議論は、安冨(二〇〇八)の第一章の議論を、一歩進めたものである。同書で私は、ミクロ経済学が、熱力学第合二法則、相対性理論の光速度上限則、因果律という三つの物理の基本原理を破っている、と指摘した。これに対して、マルクス経済学と近代経済学とを橋渡しする研究を展開する気鋭の理論経済学者松尾匡が、そのホームページに掲載された拙著への書評のなかで次のように批判した。

 

              正直言うと、いろいろなレビューの情報から、この本はトンデモ本の一種との先入観を持っていた。

               経済学の主流の方法論に対する短絡的な誤解に基づく安手の批判をしている本と思っていたのである。

実際、読み始めてみたら確かに最初はそうだった。最適化決定とか均衡の模索とかいった、経済学の主流の方法に対して、商品の種類が多くなったら計算が物理的に不可能になるというケチつけをしているのである。

もちろん、経済学者はそんなことは承知の上なのであって、事態の本質を、分析可能なように単純化しているにすぎない。もっと現実の意思決定や現実の市場に近づけた精緻化の必要性は、誰も否定していない。(http://matsumoto-tadasu.ptu.jp/essay_90406.html

 

 

 

これは驚くべき主張である。物理法則に反する仮定をしたうえで「事態の本質を、分析」するというようなことが可能だとは、私には思えないので、公然とこのような見解を示されたことで、私はひどく驚いてしまった(経済学者がこのような態度をとる理由については、葛城政明「経済学の呪縛」〔二〇一〇〕で明らかにされているので、参照していただきたい)。

 念のため言っておくが、物理学者も物理法則に反した仮定をときどき採用する。たとえば「断熱近似」という手法では、原子核の動きに対し電子が即座に追随できる、と仮定する。たとえ電子でも、光速度上限則により、無限速度で移動できるわけではないのだが、問題になる移動距離が十分に短いことを示したうえで、近似としてこのような仮定を置くのである。現実の化学反応では断熱近似が適用できない場合も多い。物理学者が断熱近似を用いるのは、それが現実と乖離しないことがはっきりと示しうる場合に限られる。

 松尾氏は、経済学者がやっていることもこの近似なのだ、と主張しているのである。しかし、これは無理な相談である。というのも、どういう条件下で近似をしてよいかについての理論がないからである。そのような理論的検討を回避して、「近似だ」と主張しても駄目である。もしも経済学者が真剣にそういう検討をすれば、いわゆるミクロ理論が人間の経済行動の近似たりうる範囲が、まったく存在しないことがわかるであろう。実際、最近の実験経済学は、そういう結果を蓄積している。

 にもかかわらず私は、この松尾氏の反論を真剣に受け止めざるをえなかった。なぜなら私がこの本を書いた目的には、経済学者のなかの、まだ感覚が生きていると思しき人々に、考えを変えてもらうことが含まれていたからである。松尾氏は私にとってそのような経済学者の一人であり、氏がこのように反応された、ということは、私の議論がこの目的の達成に失敗していることを意味するからである。氏の反応に私はひどく落胆した。

 そこで、私は松尾氏の主張を受けて、もう一度、自分の議論を考え直してみた。そうすると、「物理法則を無視している」という批判ではなく、「ミクロ経済学が内部矛盾を起こしている」という批判を構成しうることに気づいたのである。前者に対しては「物理法則を無視していることくらい、百も承知だ」という開き直りができるが、理論の内部矛盾であれば、そのような避雷器直りはできないだろう、と考えたのである。

 なお、松尾氏の名誉のために言っておかねばならないが、氏のように物理法則に対する軽視を明言する経済学者は稀である。そのような揚げ足をとられかねない危険な断言を回避するのが、利口というものだからである。松尾氏が勇み足をしてくださったおかげで、私は議論を一歩前に進めることができた。さらに松尾氏は、氏の書評に対する私の反批判を、自らのホームぺージに掲載してくださるという誠実さを示された。以上のことすべてに対して私は松尾氏に感謝している。

 ただし、私の反批判に対して氏は、「どうもこの「概念的に」という方法論が、「物理法則問題」を含む相違点の基礎にあるような気がします。まずだ一段階は「摩擦係数ゼロ」で純粋理念型を作ってベンチマークにすうるだけと思っているのですが・・・」という断り書きを付されている。これはつまり「近似」という主張を、私の反論を読まれた後でも維持されていることを示す。

 私は氏への反論のなかで、「経済学が物理法則に反している」という指摘を繰り返したのではなく、経済理論内部の矛盾を指摘したのだが、その論点から松尾氏は目を逸らしてしまわれた。残念ながら、私の説得の試みは再度失敗してしまったわけである。

 結局のところは、葛城(二〇一〇)の示したように、理論的問題ではなく、心理的呪縛の問題なのであり、その呪縛を解かないことには何を言っても通じないということなのであろう。私と松尾氏との間で生じたすれ違いは、次章で論じるコミュニケーションの限界という問題の典型的事例としてはなはだ貴重である。

 

経済学の船出

  創発の海へ

安冨 歩著

 

 

神奈川県内の図書館横断検索

https://ufinity.pen-kanagawa.ed.jp/?page_id=722

 

県内に数冊しか見つからない。

著者の、とんでもなく多くの読書や研究に費やす時間などを考えたら、出版時の定価は高くはないと思うけど、本は読まれてナンボだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 洋画の日本語字幕が死にそうだ | トップ | アメリカ政府に従って反帝国... »
最新の画像もっと見る

本の紹介」カテゴリの最新記事