古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「隋皇帝」による「訓令」とそれに対する「倭国」の反応

2019年01月06日 | 古代史

 『隋書俀国伝』を見ると「大業三年」(六〇七年)とされる遣隋使が提出した国書において倭国王「阿毎多利思北孤」は「隋皇帝」に対し「海西菩薩天子」「重興仏法」という言葉を並べ、「沙門」を修行のためと称して派遣しており、これは一見「自発的」なもののように思われますが、それ以前の遣隋使の発言が影響していると思われます。その様な行動の元となったものは、それ以前に派遣された「隋使」(「裴世清」と思われる)により「訓令」を受けたことと推測できます。

 前回の「遣隋使」の説明により、倭国におけるそれまでの統治のスタイルである「天を兄とし日を弟とする」というものについて「古典的」(と言うより「前近代的」)であり、それを「無義理」であると皇帝が断を下したものです。
 この時の「裴世清」は「鴻臚寺掌客」という正式な外交官として「倭国」に赴き、皇帝から預けられた「国書」及び「訓令書」を「倭国王」に伝達したものと思われますが、さらにいうとこのとき「裴世清」が「訓令書」を単に読み上げただけではなかったことは当然でしょう。「訓令」の中身を「倭国」に根付かせることは「裴世清」に課せられた責務であったと思われ、「行動」としては「法華経」についての資料(経典等)を持参し、それを「倭国王」に伝達したであろうと推察されると共に「講話」も行う予定であったと見て自然です。「法華経」の「素晴らしさ」を「講話」による理解させることが必須であったと思われます。
 これについて『元興寺縁起』などで「聖徳太子」が「講話」を行ったと書かれていますが、実際には「裴世清」が行ったものであり、それを「隋」との関係を清算した(したかった)新日本国が『書紀』編纂の際に粉塗・隠蔽していると見るべきであり、『元興寺縁起』はその影響を受けていると(少なくとも年次においては)みられるものです。
 その後派遣された「遣隋使」が「訓令」を承けてのものであるのは当然であり、下された「訓令」を実行しているという実績を示す必要があったと理解すべき事となるでしょう。それを示すのが「大業三年」という年次の「遣隋使」の中身であり、その中では「菩薩天子」という呼称などから言外に「倭国王」である自分自身が「菩薩」つまり「法華経」に帰依し「出家」した事を示しており、また「沙門」を派遣するなどみればやはり「訓令」の実態は「古典的祭祀」の停止と「仏教治国策」の実施であったこととなるでしょう。つまり、下された「訓令」の具体的な中身として当然「皇帝」が尊崇しまた「隋」という国家として推進していた「仏教」と同じものを倭国においても尊崇すべしとするものであったと見るべきであり、その「仏教」の中身としては「法華経」であったものですから、倭国においても同様に「法華経」がこれ以降尊崇されるようになったものと考えられるものです。

 ちなみこの時「隋」からは「国交開始」の証しとして「隋」の国楽、それを奏する「楽器」及び「楽譜」等がもたらされたものと思われますが(次回隋使が来た際にそれを演奏して歓迎するという外交儀礼を実行するため)、それとは別に「仏教」推進の一環として「寺院」の建築が行われることとなったと見られます。
 「隋」においても「法華経」の推進とその拠点となる「寺院」建築は一体であったものですから、「倭国」においても「大興城」における「大興善寺」と同様「倭国」の「都」に「法華経」推進の拠点となる寺院が必要であったはずであり、それを建築するための「技術者」及び一部の「材料」が派遣されていたものとみられます。その寺院の建築においては部材の寸法等において、「皇帝」の指示により建設されることとなった経緯からも「特別な寸法」が採用されたものと思われ(「営造法式」に規格がない)、ここで倭国で初めて仏法が国家の政策として始められたものでありその拠点として「寺院」が造られ、「大興」という「皇帝」(文帝)ゆかりの地から一字を取り「元興寺」と命名されたものと思われます。

 またこの時の「法華経」は、制圧した「南朝」で著名であった「天台大師」(智顗)を隋の首都である「大興城」に招き、そこで行われた講話を最新の中身として、そのまま「倭国」へ伝えたものと思われます。
 この時の講話の内容として「提婆達多品」に触れたものという資料があり、このとき初めて「法華経」に「提婆達多品」などそれ以前の「法華経」で脱落していた部分が添付されたこととなります。それはそれ以前に「百済」を通して伝えられていた「法華経(妙法蓮華経)」を、よりアップデートしたものであったこととなるものです。「隋皇帝」としては広く「法華経」を知らしめる意図があったはずですから「最新の経義」をそのまま「倭国」へもたらすこととなったものとみられ、「私見」では「隋使」裴世清が「鴻臚寺掌客」として派遣されたのは「五八九年」と考えていますが、その意味で「添品法華経」の成立とされる「六〇一年」に先行して不自然ではないと思われます。
 しかし「聖徳太子」の手になるとされる『三経義疏』で触れられている「法華経」には「提婆達多品」がなく、明らかに「隋皇帝」からの「訓令」以前の様相を示しています。にも関わらず『書紀』では『三経義疏』に関する記事は「遣隋使」以降(六一五年)となっており、年次の矛盾を呈しています。これは『書紀』のこの付近の記事の年次に狂いあるいは潤色があることを推定させるものです。

 その「提婆達多品」で特徴的なことは「娑竭羅龍王」と「文殊菩薩」のエピソードであり、「龍女」(龍王の「第三の娘」)の「往生説話」です。ここで初めて「女人」でも往生できると言うことが説かれたものであり、これは即座に「倭国王」の周辺の女性達、特に彼の母親や夫人(皇后)、子女などに熱烈に受け入れられたであろうこと、彼らが積極的に支持し「法華経」に「進んで帰依した」ことなどが強く推測できるものです。
 さらにその経義の内容が海人族とその家族にとって画期的であったことが推測され、特に有力であったことが推定される「宗像氏」において特に活発な動きとなったと思われます。それを示すのが「厳島神社」の創建説話とそこに現れる「神功皇后」にまつわる伝承です。そこでは創建の時期として「六世紀の末」(五九二年)という年次が示されており、また創建の人物として「神功皇后」の「妹」であり、「龍王の娘である」とされています。
 従来はこの「五九二年」という伝承について深く考えたものはありませんでしたが、「裴世清」が「訓令書」を持参したのが「私見」によれば「五八九年」あるいは「五九〇年」と推察されますので、その限りでは整合します。
 実際には「厳島神社」の祭神は「宗像三女神」の一人である「市杵島比売」であり、父親は「宗像君」とされます。「宗像氏」は当時最有力な水軍であり、彼が「娑竭羅龍王」に擬されたとして不自然ではありません。そしてここにおいて「法華経」の世界と現実が直接つながった形となっているのが注目されます。「宗像氏族」にとってこのような「構成」の近似が「法華経」を積極的に受け入れる下地となったことは間違いないものと思われます。



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