「無文銀銭」の使用法についてそれが海外とのいわば「貿易」に使用されるものであり、高額紙幣の役割をしていたと考えたわけですが、それが窺えるのが「謡曲」「岩船」の物語の展開です。
ここでいう「謡曲」とは本来「能」そのものであり、その「能」のうち「シテ・ワキ・地謡(じうたい)」などの部分である、詞章全体を一人で謡うものとされます。
「能」については「室町時代」に「観阿弥」「世阿弥」父子によってそれまでの「猿楽」が集大成され「申楽」となりますが、「世阿弥」の「風姿花伝」によれぱ「聖徳太子」の時代に「秦河勝」に命じて造らせたものが「申楽」というものの発祥であるとされています。
また、現存する「謡曲」はおおかた「室町時代」付近に造られたものと考えられているものの、古来からの形を残したものも多いと推測され、そのようなものを「合理的」に理解する事により、古代史解明の一助となるものと考えられます。(すでに同様の趣旨で正木氏などから優れた研究がされています)
この『岩船』という謡曲は「めでたさ」を詠ったものであり、通常の評価としては「ストーリー」らしいものもなく、「前半」と「後半」のつながりもやや唐突であり、作品としての完成度はそれほど高くないものの、正月などに「嘉祥」として詠われるものとされます。
この作品の舞台背景となっているのは「摂津国住吉の浦」であり、話の展開としては「天の探女(さぐめ)」が「如意寶珠」を「君」に捧げる為にやってきます。その後「龍神」が「宝船」を守護して「難波」の岸に乗り付けるというものです。
以下「岩船」の主要な部分を抜き出してみます。
「(中略)不思議やなこれなる市人を見れば。姿は唐人なるが。声は大和詞なり。又銀盤に玉をすゑて持ちたり。そも御身はいかなる人ぞ。さん候かゝる御代ぞと仰ぎ参りたり。又是なる玉は私に持ちたる宝なれども。余りにめでたき御代なれば。龍女が宝珠とも思し召され候へ。これは君に捧物にて候。ありがたし/\。それ治まれる御代の験には。賢人も山より出で。聖人も君に仕ふと云へり。然れば御身は誰なれば。かゝる宝を捧ぐるやらん。委しく奏聞申すべし。あらむつかしと問ひ給ふや。唐土合浦の玉とても。宝珠の外に其名は無し。これも津守の浦の玉。心の如しと思しめせ。心の如しと聞ゆるは。さては名におふ如意寶珠を。我が君にさゝげ奉るか。運ぶ宝や高麗百済。唐船も西の海。檍が原の波間より。現れ出でし住吉の。神も守りの。道すぐに。こゝに御幸を住吉の。神と君とは行合の。目のあたりあらたなる。君の光ぞめでたき。」
(中略)久方の。天の探女が岩船を。とめし神代の。幾久し。我はまた下界に住んで。神を敬ひ君を守る。秋津島根の。龍神なり。或は神代の嘉例をうつし。又は治まる御代に出でて。宝の御船を守護し奉り勅もをもしや勅もをもしや此岩船。宝をよする波の鼓。拍子を揃へてえいや/\えいさらえいさ。引けや岩船。天の探女か。波の腰鼓。ていたうの拍子を打つなりやさゞら波経めぐりて住吉の松の風吹きよせよえいさ。えいさらえいさと。おすや唐艪の/\潮の満ちくる浪に乗つて。八大龍王は海上に飛行し御船の綱手を手にくりからまき。汐にひかれ波に乗つて。長居もめでたき住吉の岸に。宝の御船を着け納め。数も数万の捧物。運び入るゝや心の如く。金銀珠玉は降り満ちて。山の如くに津守の浦に。君を守りの神は千代まで栄ふる御代とぞ。なりにける。」
ところで、この話の中の「君」とは誰のことでしょうか。もちろんこの謡曲に詠われている内容が「史実」と決まっているわけではないものの、全くの架空の話とも思えず、「モデル」となるような「倭国王」がいたと思料します。この中にはヒントとなるものがいくつか確認できます。
ひとつは「天の探女」が「如意寶珠」を捧げるために来ると云うこと、さらに「君」は「高麗」「百済」「唐」と交易を行おうとして「摂津難波」に「市」を設けることとしたこと、あるいは「龍神」が「宝船」を「守護」して、運んでくることなどです。
まず、「如意寶珠」についてですが、ここに出てくる「如意寶珠」については「仏教」の経典にあるものです。それは「大乗」の経典にもありますが、また「小乗」の経典にもみられます。さらに「宇佐八幡宮」に伝わる『八幡宇佐宮御託宣集』の中にも「如意寶珠」について書かれています。
「彦山権現、衆生に利する為、教到四年甲寅(四七四年)〔第二九代、安閑天皇元年也〕に摩訶陀國より如意寶珠を持ちて日本国に渡り、當山般若石屋に納められる。」
ここには「教倒」という「九州年号」が使用され、さらに「如意寶珠」は「宇佐」にあったものとされています。
また、『隋書俀国伝』中にも「如意寶珠」は登場します。それは「祷祭」との関連で語られているものです。
(以下隋書倭国伝の一節)
「有阿蘇山、其石無故火起接天者、俗以為異、因行祷祭。有如意寶珠、其色青、大如鶏卵、夜則有光、云魚眼精也。」
この「如意寶珠」とは「海中」の「大魚」(「摩竭(まかつ)魚」)の脳中にあるとする説話・伝承もあり、実は「魚の眼精である」というこの『隋書俀国伝』の記事とも符合するようです。
またその記述によれば、倭国の「名勝」として「阿蘇山あり」と書かれており、その噴火の様と思われる「其石無故火起接天者」という文章に引き続き、「祷祭を行う」と言うことが書かれています。ここの部分の記述から考えると、この「祷祭」と「如意寶珠」には関連があるものと考えられ、「祷祭」の中で「如意寶珠」が使用されている事を示すものと思われます。
「祷」とは「辞書」によれば「長々と神に訴えて祈ること」とされています。しかし「如意寶珠」という「仏教」的なものがここに書かれていることから考えると、この「祷祭」の中では「仏教」の経典が読まれていたのかもしれません。いずれにしてもここでも先の『八幡宇佐宮御託宣集』と同様「如意寶珠」と九州に関連があるとされているようです。
つまり、「遣隋使」以前から「如意寶珠」に関わる信仰がすでに「倭国」には存在していたものと思われることとなります。特にその「如意寶珠」の「海中に入らなければ手に入らない」という性格上「海人族」の信仰に真っ先に取り入れられたものではないでしょうか。
当時倭国の一般の人々は「卜筮を知り、最も巫覡(ふげき=男女の巫者)を信じている」(『隋書俀国伝』による)と書かれています。このようにまだ倭国古来の「神道」形式の信仰が国内では主要なものであったものであり、ここでいう「巫覡」が「宇佐」の神官である、という可能性もあることとなるでしょう。