漢詩集『懐風藻』し「淡海三船」の撰として知られていますが、その中での「淡海帝」についての文章は「激賞」というべきものであり、「聖徳太子」の業績を引き継ぎ発展させたという導入部から始まり、言葉の限りを尽くして顕彰しています。
「…逮乎聖德太子,設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章。及至淡海先帝之受命也,恢開帝業,弘闡皇猷,道格乾坤,功光宇宙。既而以為,調風化俗,莫尚於文,潤德光身,孰先於學。爰則建庠序,?茂才,定五禮,興百度,憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。於是三階平煥,四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。旋招文學之士,時開置醴之遊。當此之際,宸瀚垂文,賢臣獻頌。雕章麗筆,非唯百篇。…」
ここでは「定五禮」とされていますが、この「五禮」とは「吉禮、凶禮、賓禮、軍禮、嘉禮」を言うとされ、いずれも「周礼」にその重要性が書かれているものであり、「隋代」に重視されそれは初唐段階でも同様に継承されたとされています。
この「周礼」の積極的導入は「隋制」の導入と軌を一にするものと見られ、それは「遣隋使」が「隋初」に派遣され持ち帰ったものをベースにしていると考えられ、「六世紀末」の時期が推定されますから、この「淡海帝」は「阿毎多利思北孤」を指すのではないかと考えられるものであり、さらに彼は「憲章法則」を興したともされていますが、これは「憲法十七条」を指すと考えられます。それに対し「天智」が定めたという「近江令」はその語義から云っても「憲章法則」ではないと考えられます。それは「古」以来このようなものがなかったという表現からも明らかであり、「十七条憲法」こそそれ以前にその様なものはなかったと言いうるものです。それは「弘仁格式」(序)にも同様の表現があります。
「古者世質時素、法令未彰、無為而治、不粛而化、曁乎推古天皇十二年、上宮太子親作憲法十七箇条、国家制法自茲始焉」
つまり国が「法」を定めることがこの時から始まったとされているのです。それは『懐風藻』の「憲章法則。規模弘遠,夐古以來,未之有也。」という表現にまさに重なっていると思われます。
さらに『続日本紀』には「藤原仲麻呂」の上表文があり、そこでも以下のような表現がされています。
「天平宝字元年(七五七年)閏八月壬戌十七」「紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。臣聞。旌功不朽。有國之通規。思孝無窮。承家之大業。緬尋古記。淡海大津宮御宇皇帝。天縱聖君。聡明睿主。孝正制度。創立章程。于時。功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣。襃勵壹匡宇内之績。世世不絶。傳至于今。…」
この中でも「淡海大津宮御宇皇帝」の治績として「孝正制度。創立章程。」とされ、これは「官位制」(の「改正」)と「憲法」の制定を言うと考えるべきでしょう。
『懐風藻』の中では「聖徳太子」の業績として「設爵分官,肇制禮義,然而專崇釋教,未遑篇章」とされており、それは「冠位制定」と「匍匐礼」などの朝廷内礼儀を定めたことを指していると思われますが、「十七条憲法」の制定に当たる事績が書かれていないようです。この「十七条憲法」の記事はこの「冠位」制定と「朝礼」制定の間に挟まるように書かれていますから、あたかも同一人物が制定したように受け取られることを想定して書かれていると思われます。しかし、実際には「淡海帝」に関わるものと推定され、『懐風藻』記事はそれを補強するものといえるでしょう。
またここで「淡海先帝」の統治期間の表現として「三階平煥、四海殷昌。旒纊無為,巖廊多暇。」つまり「瑞兆」とされる「三台星座」(北斗を意味する)が明るく輝き、国家は繁栄し、政治は無為でも構わない状態であったとされ、またそのため朝廷に暇が多くできたというような表現が続きますが、これが「天智」の治世を意味するとした場合、はなはだ違和感のあるものではないでしょうか。何と云っても「天智朝」には「百済」をめぐる情勢が急展開し、倭国からも大量の軍勢を派遣しあげくに敗北するという大事変があったものです。にも関わらずそれに全く触れないで「三階平煥、四海殷昌」というような「美辞麗句」だけ並べているのはいかにも空々しく、はなはだ不自然であると思われます。
つまりこの「淡海先帝」を「天智」とするにはその使用されている表現が該当せず、かえって「六世紀末」の「倭国王」である「阿毎多利思北孤」に整合する内容と考えると理解できるものです。
ところで上に行なった考察は、各資料に書かれている「白鳳元年」の「僧正任命記事」や『天武紀』の「一切経書写記事」と一見矛盾しているように見えます。
『扶桑略記』や『元亨釈書』の記事として「天武二年」に「一切経」の「書写」に彼「智蔵」が関与したと書かれていたり、『書紀』の「六七三年」の記事中には「河原寺」で「一切経」の書写が行なわれたとされています。『元亨釈書』や『扶桑略記』ではこの時に「智蔵」が「役」を「督」したとされ、その功績で「僧正」に任命されたとされています。
(以下『元享釈書』の関係部分)
『元亨釈書』(巻二十一)「(天武)二年二月二十七に帝は即位す。勅して川原寺に於いて大蔵経を写せしむ。沙門の智藏、役を督す。故に僧正に任ぜらる」
これを信憑すると先の考察は成立しなくなりますが、ここで「一切経書写記事」が『天武紀』のものとされているのは、「原資料」に「浄御原天皇」等の表記があったからではないかという可能性が考えられます。つまり「浄御原天皇」とは「天武」を指すという「不動の考え」により、これを『天武紀』に持って行ったと考えられると同時にここにそのような「浄御原天皇」等の表記がないのは、それが「不審」を呼んだからではないかと思われるのです。それは『三国仏法伝通縁起』における「道光律師」の遣唐使派遣記事において端的に表れています。そこでは『書紀』の「白雉年間」の遣唐使記事中に「道光」の名前があるにも関わらず、彼の帰国後の自著の「序」に「浄御原天皇大勅命」とあったため、この「白雉年間」の記事を無視して「派遣」も『天武紀』のこととして書かれており、そのため「入唐年未詳」とせざるを得なくなったことがあったからです。
つまり「元亨釈書」などの原資料にも「浄御原天皇」などの文言があったため同様の思惟進行の結果、これを『天武紀』のことを意味するとして記事を構成しているという事が考えられるのです。
それは「天武」という漢風諡号により記事が構成されていることからも分かります。「漢風諡号」は(「淡海御船」の撰進によるとする説もあるようです)、ここに書かれた記事の年次からかなり後代のものであると考えられ、『書紀』や『続日本紀』の主張に影響されたあるいは全く沿ったものとなっているという可能性があり、そのような「前提」が構築されているとすると「浄御原天皇」は即座に「天武」を意味するものとなったと考えられ、この「天武」という表記もそのような思惟進行の結果であると推定されるものです。
また『懐風藻』に書かれた以下の記事には「智蔵」の年齢として「七十三歳」と書かれています。
「太后天皇世,師向本朝。同伴登陸,曝涼經書。法師開襟對風曰:「我亦曝涼經典之奧義。」?皆嗤笑,以為妖言。臨於試業,昇座敷演,辭義峻遠。音詞雅麗,應對如流。皆屈服莫不驚駭。帝嘉之拜僧正。時歳七十三。」
この「年齢」は一見「僧正」に任じられたときの年齢と考える説とへ没年齢という説とあるようですが、いずれにしても当時として「七十三歳」は相当高齢ですから、これが「没年齢」ではなくてもそれほど実際と違わないという想定が可能であり、これが何年のことなのかは不明ですが、彼は「六〇〇年以前」にその生年を推定したわけですから、没年としては六六〇年代後半であることが考えられます。
(この項の作成日 2013/04/04、最終更新 2014/04/06)(ホームページ記載記事に加筆)