「倭国王権」が「銅銭」(富本銭)を製造することとなった意図(目的)としては、「十七条憲法」との関連が考えられます。
「富本」の命名の元となったものは「五銖銭を復興するべき」という「後漢代」の武将の上申の言葉ですが(下記)、それによれば「富國之本在於食貨」という言葉からとったものとされています。
「晋書食貨志」
「…建武十六年 馬援又上書曰 富國之本在於食貨 宜如舊鑄五銖錢。帝從之。於是復鑄五銖錢 天下以為便。…」
つまり「食」と「貨」とが「本」であるとされているわけですが、「貨」が「貨幣」を意味するものであり、「富本銭」を指すならば、「食」は「米」であると考えられ、それは「班田」を脳裏において考えると理解しやすいと思えます。つまり、「富本銭」と「班田制」とは「対」を成していると考えられることとなります。
この「貨幣」が「銀銭」であり、「高額商品」などとの交換などが主要な用途であるとするならば、「民」とは縁遠いものとなるでしょう。「貨幣」が「銅銭」となって始めて「民」の生活に密着した「銭貨」となり得るものです。
「聖徳太子」が定めたという「十七条憲法」は統治する側の心得を記したものであり、各条において「民」(公民)を大切に扱うことを指示しているものです。つまり、ここでは一種の「護民」思想が語られていると思われ、それと「富本」という「銭文」は共鳴しているといえるでしょう。
さらに「王権」から流出した「銀」(無文銀銭)の回収という目的もあり、「銅銭」との「置換」により等価交換を狙ったものと見られ、そのために重量も同じとしたものと見られます。つまり、「国家」としての「権威」により「銅銭」に付加価値を与え、「無文銀銭」と「等価交換」しようとしたと考えられ、それにより国内に流通している「無文銀銭」を国家に回収すると共に、その「銀」と「銅」の「実差額」を国家の財政に寄与させようと考えたものと思料されます。更にそれは「銀銭」や高額商品を手に出来る層には打撃となる措置ですから、「王権」と肩を並べうる階層に対する一種の「威嚇」であり、対抗措置であったと思われます。
「無文」つまり、表面に何も書いていない状態では「素材」としての価値しかありませんが、「文字」が書いてあればその「文字」を書いた存在の「権威」で裏打ちされるので(一般には)「価値」が高くなるわけです。
「富本銭」は「銅銭」ですが「倭国王朝」に「権威」があれば「銀銭」と同じ価値が出ても不思議ではないわけであり、「倭国王権」はそれを目論んだものと見られます。この「隋代」から「初唐」時点付近の「倭国王権」の権威の高さは倭国史上かつてないものでしたから、その様な事も可能であると考えたのかも知れません。しかし「実勢」としてはそうはいかなかったものと考えられます。
『続日本紀』にあるように(下記)「銀」と「銅」の交換比率(価値の比)としては「一対二十五」と「公定」されていましたが、「初期」型の「富本銭」と「無文銀銭」の間の重量比でみると、これは「一対十」となります。
「養老五年(七二一年)春正月戊申朔(中略)丙子 令天下百姓 以銀錢一當銅錢廿五 以銀一兩當一百錢 行用之」
これをそのまま「初期」型「無文銀銭」と「初期」型「富本銭」に適用すると、(どちらも同重量ですから)「銀銭」一枚に対し「銅銭」十枚という交換率となります。この「枚数比」をそのまま「法定交換率」として規定したものと思われますが、さすがに「王権」として初めての試みでもあり、この時の「王権」の権威は確かに高かったとは考えられるものの、「貨幣価値」については「王権」の描いた青写真通りには事が運ばず、「等価交換」は夢想と化したと思われます。
後の「和同銭」の価値を公定した際には、当初「一対十」であったらしいことが推定されており、この交換率は「富本銭」と「無文銀銭」の交換率が既にあり、それを継承したと言うことが考えられ、「初期」「無文銀銭」と「初期」「富本銭」の間の「実勢」としての交換率をそのまま持ち込んだのではないかと考えられます。
「倭国王権」はこのような無理をしてまで「銅銭」の流通に意欲を燃やしていたわけですが、それは当時「官道敷設」特に「東山道」整備や「難波京」の前身とも言うべき「副宮殿」の整備に多量の「銀」を使用したからと考えられます。
「古代官道」である「東山道」の整備が大きく進捗したのは、「阿毎多利思北孤」の太子であったとされる「利歌彌多仏利」の時代である「七世紀前半」と考えられ、それを利用して「各諸国」に対して制度改定を義務づけるなどが可能となったものと思われます。それはその周辺に多く「従来型」「富本銭」が見られることにつながっているものです。
倭国政権はこのように東国に「富本銭」を流通させ、代わりに「銀銭」を回収し、幾分かでも差額を手にしようとしたことと考えられます。このためより消費地である「東国」に近い場所である「難波」に「鋳造」場所が選ばれたと考えられますが、それは「無文銀銭」に「小片」を付加させるなどの改造を施していた場所がそのまま「富本銭」鋳造の場所になったらしいことが推定出来ます。(これが後に「難波大蔵」となったものか)
しかし、実際にはこの「東山道」工事時点ではすでに「従来型」「富本銭」が鋳造されていたわけであり、この段階では「銀銭」との交換率が限りなく一枚対二十五枚に近づくこととなったと見られますから、とても「等価」としての「銅銭」を東国に投下・流通させることはできなかったと思われます。というより「等価交換」を断念したが故に「重量」を変えたとすれば、市場原理に基づいて「東国」から大量の資本を短期間に西日本へ移動させるということは実際には不可能であったと見られます。ただし、賃金や土地の買い上げ資金などに「富本銭」を使用したこと間違いないと思われますし、またそのような目的では「銀銭」は使用されなかったと見られます。(民間は別ですが)
「富本銭」はその後も「鋳造」が継続されたものと考えられますが、「庚寅年」つまり「六三〇年」以降「鋳造」が停止され、その後「古和同銅銭」として「改鋳」され(「鋳つぶされ」)その存在自体が「駆逐」されてしまうこととなったと考えられます。このために「難波京」にあった「鋳銭司」が使用されたものでしょう。(鋳つぶす材料を一番多く抱えていたのがこの「鋳銭司」と考えられるため)そこで「和同銭(新古)」が鋳造されたものですが、その段階で「開通元寶」と全く同じ大きさ、同じ重量の他、同じ「四文字」デザインというスタイルとなったものであり、それはその時点以降「親唐王朝」となり「一新」された「倭国王権(日本国)」の方針に沿って、「新王朝」にふさわしい「デザイン」が新たに必要となったためと思われます。