古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「富本銭」について(四)

2017年07月02日 | 古代史

 「前期難波宮」の遺跡からは「従来型」の「富本銭」が出土しています。このことは「難波宮殿」に附属していた「大蔵」では「従来型」の「富本銭」が「貯蔵」されていた事を示すと思われ、そのことから少なくとも「七世紀半ば」程度の時期には「従来型」の「富本銭」が製造されていたこととなります。
 そもそも「大蔵」というのは元々「国庫」を意味する用語ですが、特にこの時点では「貨幣」や「金銀」「珠玉等」の「貢上品」を管理するのが職掌であったと推定され、そのようなものが「難波宮」の至近にあったと考えられることとなります。(「無文銀銭」が「難波」から大量出土している意味も同様と考えられます)
 また、「鋳銭司」は「大蔵」の下部組織であり、その「大蔵」が「難波」にあったという事から「鋳銭司」そのものも至近にあったという推測は可能です。(後には各地に作るようですが、この時代には「大蔵」に付随していたと考えるべきでしょう)
 そうすると「初期型」と考えられる「新型」「富本銭」についてはそれらを遡る時期が推定されますが、それは上に見るようにそのデザイン(意匠)が「五銖銭」を意識していること、重量もまた同様であること、その大きさが「隋・唐」の規格(度量衡)に則っていることなどから判るように、「無文銀銭」と同様「隋代」から「初唐」という時期に鋳造が開始されたと見るのが相当であると考えられます。
 この段階で「唐制」への全面的な対応が図られた結果、「無文銀銭」は「小片」が付加され「一両」の約四分の一の「10g」程となり、それと同時或いはやや遅れて「富本銭」は「開通元寶」そのものと同じ「4g」程度となって、大きく異なることとなったと見られます。
 また、このようにして「従来型」「富本銭」と「小片付き無文銀銭」とで重量が異なることとなったのは、互換性を保つために「同重量」にしていたという仮定からの帰結として、この時点付近で「倭国王権」として「公的」に「等価交換」を断念したということを意味すると考えられるでしょう。
 
 ところで、八世紀に入って「和同開珎」が鋳造された際に、その「法定価値」として「銀銭一文=銅銭十文」というものが与えられたとする「森明彦氏」の説(※1)があり、(「浅野雄二氏」の論(※2)においても同様の趣旨の発言があります)これは前記した「松村氏」などにより受け入れられているようですが、「松村氏」によればこの関係は『無文銀銭と富本銭に遡及できる可能性が高く、むしろ逆に、無文銀銭と富本銭の貨幣価値が、和同開珎の貨幣価値を規定した可能性が浮上する。』とされています。つまり「法定価値」として「一対十」が与えられたのは「無文銀銭と富本銭」においてであるとされているわけです。
 「森氏」はそれを「扱いやすさの点から」十進法を元に設定したものと考えられているようですが、これは上でみたように「初期」「無文銀銭」と「初期」「富本銭」の間の「枚数比」であったものであり、それを「無文銀銭」と「富本銭」の規格が変更になって以降も既定の「交換率」として「法定化」(公示)したものと考えられ、これを以降そのまま維持していたことが窺えます。
 また、この事は「貨幣経済」の進歩の程度とも関連していると考えられます。高額取引用の「銀銭」やそれと等価の「銅銭」だけであったとすると「下位」の「補助貨幣」が存在しなかったこととなりますが、それは代わりに「布」ないし「穀」が貨幣の役割を果たしていたからと考えられ、未だ「貨幣経済」という呼称が当たらない時代であったと考えられます。ところが、実勢として「一対十」という「交換率」が存在するようになったとすると、明らかに「銅銭」は「銀銭」の「補助貨幣」としての役割が与えられたこととなるでしょう。この事は「貨幣」というものに「慣れた」人々が、急速に「貨幣経済」へ移行を開始したことを推定させるものです。

 また、「東山道」の周辺である「長野」「群馬」などの地に多く「従来型」の「富本銭」が見られますが、このことは「七世紀前半」から「難波朝廷」時代までに「古代官道」である「東山道」の整備が大きく進捗したと考えられる事と関連しているものと推量します。
 従来「富本銭」が「近畿王権」に関係があるかのような議論があった訳であり、それは「西日本」からの出土が見られないことにその主因があったと思われますが、「倭国政権」はこの「富本銭」を「東国」という地に対して「局地的」「局所的」に意識的に投下・流通させ、逆にそこから「無文銀銭」など「資本」を回収し、幾分かでも差額を手にしようとしたものではないでしょうか。
 ところで、『続日本紀』には「和銅年間」の記事として「諸国」から徴発した「役夫及運脚者」などが帰郷する際に「郡稲」を別置し、それに対して「銭貨」を以て交換することを命じている文章があります。

「(和銅)五年(七一二年)冬十月丁酉朔乙丑条」「詔曰。諸國役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稻別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。」
 
 ここで見るように彼らは労働の対価として「銭貨」を受け取っており、これは「和同銅銭」らしいことが推測されますが、このような「賃金」として「銅銭」を利用するというのは「王権」としてはこの時が初めてではなかったのではないでしょうか。つまり、「東山道」工事等の際にも「銅銭」が「賃金」として渡されたと言う事も充分考えられるものであり、それを受け取った「役夫及運脚者」が彼らの国において使用したと言う事の表れとして、東山道界隈で「富本銭」が多く見られると言うことなのではないかと推察されます。(またここでは「銭」を用いるのが「便利」であることを知らしめる意義もあったように書かれており、「貨幣」制度に慣れさせようという工夫が感じられますが、それが「八世紀」に入ってからと言うのは少なからず「遅い」ものと思われ、実体としては「富本銭」の登場時点で同様のことは行われていたのではないかと推量されます)

 ところで、「崇福寺」の塔心礎から「金銅」「銀」「金」「瑠璃」の四壺に納められた「地鎮具」が発掘され、その中に「無文銀銭」が存在していました。これは明らかに「呪術」的意味があったと見られますが、上に見る「藤原京」から出土した「地鎮具」には「無文銀銭」ではなく、「新型」の「富本銭」が埋納されていたわけです。その理由として最も考えられるのは、「無文銀銭」も「従来型」の「富本銭」も、「王権」の手持ちのものは既に「鋳つぶされてしまっていた」からとも考えられます。僅かに秘蔵されていた「初期型」の「富本銭」がこの時の「地鎮具」として活用されたものではないでしょうか。
 既に考察したように当初鋳造された「富本銭」は「王権」にとって特に「意義」深いものであったと思われます。それはこの「初期」の「富本銭」が、「銭文」というものが選定され、「国家」としてのプロジェクトとして「官司」を整えながら鋳造された初めての「貨幣」であったものと考えられるからです。
 当時の「九州倭国王権」はこの「貨幣発行」を「国家」として推進したものであり、流通を開始した「銀銭」に対して互換性を保つように重量なども考えて鋳造したものです。その意義は高く、以降この「初期」型「富本銭」は「王権」の中で「宝物」として秘蔵されたのではないかと考えられます。
 それに対し「無文銀銭」はすでに述べたように「銀銭(一分銀)」として出来上がったものが国内に流入したものであり、また「銀」の地金の価値で通用していたと考えられます。つまり、この「無文銀銭」そのものについては、「倭国王権」の意思も威厳もそこに内包されてるいとは言えないこととなり、「市井」の人間にとっても、「無文銀銭」の存在と「倭国王権」が直接結びつくようなこともなかったと思われます。
 「富本銭」の場合は、そのデザイン等にも「王権」の確固たる意志が感じられますから、「利歌彌多仏利」以降の「大義名分」を継承した王権にとって「無文銀銭」より重要で必須の「威信財」であったと思われます。
 それは「藤原宮」の「地鎮具」として「富本銭」が埋められていたことにつながるものです。この「地鎮具」が発見された「藤原京」を建設しそこへ遷都した「倭国王権」は、「利歌彌多仏利」の手になると考えられる「元興寺」を「飛鳥」へ移築して「法隆寺」としたほか、その「元興寺」(「法隆寺」)と同じレイアウトの建築様式の寺院を「飛鳥」の地に複数建設するなど、「利歌彌多仏利」への傾倒を強めていたように見えます。その「地鎮具」の中に「富本銭」(特に「初期型」)を選ぶこととなった理由も同様に「利歌彌多仏利」に対する傾倒ないし信仰が重要な部分を占めているのではないかと考えられるものです。

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