古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「此後遂絶」について

2014年10月30日 | 古代史

 「遣隋使と遣唐使」という記事の中で「扶余豊」の本来の来倭の年次がもっと遅かったという可能性について考察しました。それは「裴世清」の来倭とは直接関係しないという立場からの議論でしたが、その中でもこの「扶余豊」の来倭は確かに『書紀』にあるような時期ではなく多分十年程度遅かっただろうという指摘をしました。その補論ともなるものを別の観点から考えて見ます。

 『隋書俀国伝』の末尾に「此後遂絶」という文言があります。(「…其後清遣人謂其王曰:朝命既達,請即戒塗。於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。『此後遂絕』。)ここにいう「絶」とは『隋書』の中でも「通じる」という語と対で使用されている例(「…其後或絕或通…」)があり、明らかに国と国の間の通交に関するものですが、ここではそれが「途絶」したという意味ととられるわけです。しかし、同じ『隋書』の中の「帝紀」部分を見ると「大業六年」(六一〇年)に「倭国」から「朝貢」があったことが記されています。

「六年春正月癸亥朔…己丑,倭國遣使貢方物。」(煬帝紀大業六年記事)

また『書紀』においても「遣隋使」記事があり(以下の記事)普通に考えるとこれは明らかに「矛盾」といえるものです。

「廿二年(六一四年)六月丁卯朔己卯(十三日)。遣犬上君御田鍬。矢田部造闕名。於大唐。」(推古紀)

 これらの記事の存在は「此後遂絶」という表現にはふさわしくないものであり、この「矛盾」については色々議論があります。
 これについては注意すべきことは「遂絶」という表現がされているのは『隋書』では「帝紀」にはなく、全て「列伝(夷蛮伝を含む)」あるいは「志」の部分であると言うことです。
 『隋書』の中には「遂絶」という表現は計17箇所確認できますが、それらは全て「列伝」と「志」の中にあるものであり、「帝紀」にはただの一例も存在しません。
 そもそも「遂絶」という表現は「時」(年月や時間)の移り変わりを含んだ表現であり、歴史の流れの中で記述されるような内容ともいえます。このような表現は「帝紀」には似つかわしくなかったのではないでしょうか。
 「帝紀」は文字通り「帝」の「年紀」であり、「帝」の治世期間の中で起きたことを年次ごとにいわば「羅列」するという体裁ですから、「過去から現在」までと云うような記述の仕方は「列伝」や「夷蛮伝」など個人や国に焦点を当てた記載の中でこそ有効なものであったと思われます。
 また「帝紀」にはその年次に起きたことを書くという記事の性格上朝貢記事が網羅されていたとして不思議はありませんが、「夷蛮伝」における史料内容はその国との関係を記述する上である意味エポックメーキングなものに限られていたともいえるのではないでしょうか。つまり「列伝」は全ての朝貢記事を記載していないという可能性があることとなります。つまり『俀国伝』と「帝紀」のように「夷蛮伝」では「遂絶」と書かれた後の年次の「帝紀」ではまだ朝貢記事があるという様な矛盾が起きることもあり得ることとなるでしょう。たとえばその国(この場合は「俀国」)との関係に大きな変化などがあった時点の記事はあってもそのような「インパクト」がないような場合は記載されていないという可能性もあることとなります。
 「俀国」の場合は「国交」が始められた時点とその後「天子」を標榜して「宣諭」されるという、友好関係が破綻するような事件の後は(その後その関係を回復すべく「倭国」から「朝貢」があったとしても)『結局は』「遂絶」となったというわけであり、そう考えると、「遂絶」という表現はその前にある朝貢記事の後、つまり「時系列」として連続しているというわけではなく、その国との交渉が「最終的には」絶たれたという意味と捉えるべきこととなるでしょう。
 ではこの「最終」とはどの段階のことを言うのでしょうか。「隋末」でしょうか。そう考えるよりは『隋書』編纂時の段階のことと考える方が正しいといえるかも知れません。「此後」という表現には「今に至るまで」という意味が隠されているともいえ、その場合「今」とは『隋書』編纂時点であっただろうと推測されるからです。
 ではその『隋書』の編纂の実年代はいつ頃のことであったのでしょうか。
(以下『隋書』編纂に関する記事)

「隋書自開皇、仁壽時,王劭為書八十卷,以類相從,定為篇目。至於編年紀傳,並闕其體。唐武五年,起居舍人令狐棻奏請修五代史。十二月,詔中書令封彝、舍人顏師古修隋史,緜歷數載,不就而罷。貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。十五年,又詔左僕射于志寧、太史令李淳風、著作郎韋安仁、符璽郎李延壽同修五代史志。凡勒成十志三十卷。顯慶元年五月己卯,太尉長孫無忌等詣朝堂上進,詔藏秘閣。後又編第入隋書,其實別行,亦呼為五代史志。
 天聖二年五月十一日上。御藥供奉藍元用奉傳聖旨,齎禁中隋書一部,付崇文院。至六月五日,勑差官校勘,《時命臣綬、臣提點,右正言、直史館張觀等校勘。觀尋為度支判官,續命黃鑑代之。仍內出版式雕造。》(以上北宋の天聖年間に『隋書』が刊行された際の跋文)

「貞觀三年,續詔秘書監魏徵修隋史,左僕射房喬總監。徵又奏於中書省置秘書內省,令前中書侍郎顏師古、給事中孔穎達、著作郎許敬宗撰隋史。徵總知其務,多所損益,務存簡正。序、論皆徵所作。凡成帝紀五,列傳五十。十年正月壬子,徵等詣闕上之。」(『旧唐書』魏徵伝)

 これらを見ると『隋書』の編纂は難航を極めたらしい事が窺え、「武徳」年間に最初に「隋史」をまとめるよう「詔」が出されてから長年月に渡り完成されず、「皇帝」に上梓されたのは「貞観十年」(六三六年)のこととされています。
 つまり「貞観三年」段階で『隋書』を修めるよう詔がくだったと云うわけでが、それ以前の「武徳五年」段階でも「文帝」の治世期間以外の史料がなかったとあるように、「顔師古」は「隋代」全体の資料を入手することができず、「隋史」をまとめることができなかったとものであり、その後改めて「再度」同様の「詔」が出され、その後「貞観十年」までの間のどこかで完成したものであり、それが「十年正月壬子,徵等詣闕上之。」ということとなったものと思われます。
 つまり「夷蛮伝」を含む「列伝」五十巻はこの段階で皇帝に提出されたものであり、この段階で「夷蛮伝」も既に書かれていたと見られるわけですが、「隋書」という範囲の記事ではあるものの、この「貞観十年」付近までには国交回復が進んでいなかったことの徴証として「此後」という表現が使用されているのではないでしょうか。(続く)

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魏徴は夷蛮の遣使朝貢を「後」の有無で書き分けている (岡下英男)
2021-05-28 16:17:27
魏徴は夷蛮の遣使朝貢を「後」の有無で書き分けている

『隋書』俀国伝の「此後遂絶」の問題は、魏徴による書き分けとして、以下のように矛盾なく解釈できると考えます。
俀国伝の「此後遂絶」に似た他の夷蛮国の場合を並べて見ると次の如くです。
流求:焚其宮室、虜其男女数千人、……自爾遂絶。
   俀国:復令使者随清来貢方物、此後遂絶。
林邑:高祖既平陳、乃遣使獻方物、其後朝貢遂絕。
婆利:大業十二年、遣使朝貢、後遂絕。
康国:大業中、始遣使貢方物、後遂絕焉。
安国:大業五年、遣使貢獻、後遂絕焉。
女国:開皇六年、遣使朝貢、其後遂絕。
   突厥:(開王)十七年……於是朝貢遂絶。
      (大業)十一年……由是朝貢遂絶。
 まず、俀国については、多くの場合、「(大業四年の遣使を最後として)このあと、遣使は絶えた」と読まれています。では、他の国の場合はどう読むのでしょうか。林邑~女国の国では、「遣使朝貢」即「遂絶」となっています。俀国の場合と同じように読めば、これらの国は、揃って、「遣使朝貢、即、断交」したことになります。特に康国では、初めて朝貢したのに、即、断交となり、異常です。
この異常さは解釈に「後」が重視されなかったことによると考えます。私は、「後」を重視して、「遣使朝貢し、(それから暫く、それが断続する期間があって)その後、遂に絶えた」と読みます。
この読みが妥当であることは突厥のケースから分かります。ここには二回の朝貢遂絶がありますが、(開王)十七年の場合は、時の大可汗が隋からの贈り物が他の可汗よりも少ないと腹を立てたからであり、(大業)十一年の場合は別の可汗が煬帝の行在所を包囲するという事件を起こしたからです。突厥が、それらの事件をきっかけに朝貢を絶ったので、魏徴は「後」を使わず、「於是」「由是」と表現したのです。突厥が朝貢を絶ったのは、時間的には「即時」であって、朝貢を断続する期間を経過した「後」ではないのです。
俀国の場合は、「使者随清来貢方物、此後遂絶」と、「後」が入っています。俀国の使者が隋の使者の裴清に随行し、朝貢して、即、遣使朝貢が絶えたのではなく、暫くしてから絶えたのです。つまり、帝紀に記載されている大業六年の倭国の遣使も俀国の遣使と考え得る、すなわち、「俀国=倭国」説は成立します。
魏徴は、「此後遂絶」と「於是朝貢遂絶」・「由是朝貢遂絶」のように、「後」の有無で書き分けているのです。琉球国の場合も「自爾遂絶」とあり、「後」が入っていませんが、これも、隋の軍に宮室を焚かれ、其の男女数千人を虜にされたために、朝貢遣使を絶った、または、絶たざるを得なかったことに対応していると理解できます。
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